34

 ファウストさんがネロの部屋の扉をノックしたのは、部屋の検分をはじめてから一時間ほどが経った頃だった。すでに時計の針はてっぺんを過ぎ、とうに深夜と呼ばれる時間になっている。ネロも時折、話をしながら眠そうに目を擦っていた。
「終わったぞ」
 ネロに招き入れられたファウストさんは、私の顔を見ると「少しは落ち着いたみたいだな」と独り言のような小さな声で呟いた。話しかけられているのかどうかの判別が難しく、私は浅く、曖昧に頷く。
 ネロがファウストさんに椅子を勧めたが、ファウストさんはそれを断ると、前置きなしで本題に入った。
「一応、部屋の掃除と修繕は魔法で行った。普通に部屋を使う分には、特に不便もないだろう」
「投げ込まれてた石の方は?」
 ネロが問う。
「普通の石だ。魔力の残滓もほとんど感じられない。もっとも、魔法舎の外から投げ込んだとするなら、多少の魔力は込められていたんだろうが」
 魔法舎の周囲には通常結界が張ってある。魔力を持たないものが許可なく踏み入ることはできず、無理に通り抜けようとすればすぐに分かるようになっていた。ここのところは日常的にクックロビンさんやカナリアさんも出入りしているが、結界をゆるめたわけではなく、彼らには特別に、結界を通ることができるように魔法を掛けてあるだけだった。
 結界の是非についても何度か話し合いになっているらしいが、今のところ完全に取り払う予定はないらしい。それは多分、魔法使いたちがまだ人間を完全に信用しきることができないからだ。万が一人間との間に諍いが起これば、事の次第がどうであれ、悪しざまに言われるのは間違いなく魔法使いたちの側。彼らにとって、自衛は必要不可欠なことだった。
 その結界をすり抜けて、外部から石が投げ込まれたということは、その石には何らかの魔法がかかっていたと見て間違いない、というのがファウストさんの見立てだった。
 しかし、ネロはがっかりしたように息を吐く。
「それじゃあ結局、何も分からずじまいってことか」
「悪かったな」
 むっとしたように言い返すファウストさんに、私は椅子から立ち上がると、急いで頭を下げた。
「いえ、あの、助かりました。何か悪いものが部屋に残っていないと分かっただけでも安心です。ありがとうございました」
 専門家であるファウストさんの目で見て何も分からない、であればそういうものなのだろう。私が余計なことをして大事な痕跡や証拠を消してしまう、ということがなかっただけ、私にとっては御の字だ。
「まあ、何も分からないってのは裏を返せばファウストにも尻尾を掴ませないほどの魔法使い、あるいは術者ってことかもしれないしな」
「それはどうだろうな。以前の子供になる呪いのときには、魔法使いとは思えないようなお粗末な呪いだった」
「なんだ、じゃあ呪いをかけてるのがひとりじゃないってことか?」
「そうは言っていない。まあ、魔法使いをよく思っていない人間なんて吐いて捨てるほどいるんだろうが」
 自嘲するように言ったファウストさんに、何と声を掛けていいものか分からなかった。多分、その困惑が顔に出てしまっていたのだろう。ファウストさんは私に視線を遣って一瞬気まずげに眉根を寄せると、誤魔化すように咳払いをした。
 多分、ここに私という人間がいることを失念しての言葉だったのだ。ファウストさんは人間の私を前に、そんなふうにあてつけを言うような人ではない。
「ともかく、だ。一応、賢者が戻ったら話はしておこう。それからスノウとホワイトにも」
「そうだな。頼めるか?」
「仕方ないだろう。乗りかかった舟だ」
 ネロに問われ、ファウストさんが嫌そうな顔をする。しかしそれがただのポーズでしかないことは一目瞭然だった。
「ありがとうございます、ファウストさん。何から何までお世話になってしまって」
「礼を言われるほどのことはしていないよ。それに、元はと言えば魔法使い憎しの矛先が君に向いているというのが、ここにいる魔法使いの大方の予想だ」
「それでも、ありがとうございます」
 重ねたお礼にファウストさんは何か言おうと口を開きかける。しかし結局何も言わずに口を閉じ、下がり眉の仏頂面のままで部屋を出ていったしまった。

 ファウストさんが部屋を出ていったことで、室内にはふたたび私とネロのふたりきりになった。空になったカップと食器を片づけると、ネロは、所在なく立ったままでエプロンドレスの皺など直している私の前までやってきた。
「さて、と。あんた、今日どこで寝るつもりだ?」
「えっと──」
「まさか自分の部屋に戻るとは言わないよな? 俺でなくてもそれは止めるぞ」
 図星をつかれ、うっと言葉に詰まった。
 ファウストさんが私の部屋を検分してくれていた時からずっと、実はその問題は私の頭の中でちらついてはいたのだ。
 言うまでもなく、すでに夜更け。明日も仕事があるので寝ないことには仕方がないのだが、ここで持ち上がるのは今晩どこで寝るのかという問題だった。
 ファウストさんは最低限の片づけと修繕をしてくれたそうだから、使おうと思えば私の普段借りている部屋も普通に使える。気味が悪くはあるものの、それはあくまで私の気持ちの問題だ。さすがに談話室のソファーを借りるというのは年頃の女としてどうかと思うし、そのくらいならば多少の気味の悪さには目をつぶって自室に戻るつもりでいた。
 しかし、私の前に腕を組み仁王立ちしたネロは、そんな選択肢は問題外だといわんばかりの視線を私に向けている。これでは「それじゃあ私は部屋に戻りますのでおやすみなさい」などとは、いくら何でも言い出しにくかった。
 普段はあまり意見を強く言わないネロなのに、こんなときばかり圧が強い。私は視線をうろうろ彷徨わせながら、頭の中で今日の寝床の候補を順に挙げていく。
「賢者様の部屋──は、だめでしたね。今日はおみえにならないんですもんね」
 こんな日に限って、賢者様は不在だ。ここで生活をしている私以外の唯一の女性を頼る手は使えない。畳みかけるように、ネロが言う。
「客用の部屋もやめた方がいいな。あそこは大通りに面してるし、自室に帰らなきゃ客用の部屋を使うだろうってことで、居場所も割れやすい。石が投げ込まれている以上、外部から何かしらの攻撃があってもおかしくないと考えるべきだろ」
「う、でも、それじゃあ、どうすれば……」
 いくら広い魔法舎といえど、さすがに魔法使いが二十一人──使っている部屋の数は二十にも上れば、そうそう空いている部屋などない。そもそもここは本来<大いなる厄災>の前後に魔法使いたちが集まるための、いわば仮宿なのだ。余剰の部屋などなくて当然だった。
 困り果てる私に、ネロは口を閉じたまま渋い顔をする。ややあって、ネロはひとつ溜息をつくと、がりがりと頭をかいて言った。
「仕方ない。明日になれば賢者さんも帰ってくる。今夜はひとまず、俺のベッドを使ったらいい」
「えっ!? ええっ!?」
 思いがけない提案に、私は思わず素っ頓狂な声を上げる。ネロはやはり、呆れたように溜息を重ねる。
「勘違いするなって。俺はほかで寝るよ。さすがに一緒にベッドを使うわけにはいかないだろ」
「いえ、でもそれは悪いので……」
 勘違いした自分が恥ずかしく、かっと顔が熱くなる。しかし今は己を恥じている場合ではなかった。私のせいで今度はネロが寝床を追われようとしている。さすがにそこまで迷惑を掛けるわけにはいかない。
「あっ、じゃあマットレスを持ってきます! ベッドの! それを床に置いて、私はそこで寝る、というのはどうですか!?」
「マットレスを、どこに持っていくんだよ? 廊下で寝るわけでもあるまいし」
「それは、まあこの部屋にはなりますが……」
「それだと結局、同じ部屋で寝ることには変わりないだろ」
「同じ部屋では、だめですか……?」
 もちろん、よろしくはないのだろうが。それでも、私は腹をくくって尋ねた。
 たしかに同じベッドで寝るとなれば、嫁入り前の女が、しかも交際してもいない相手とそういうことをするのは、やはりよろしくないことだと思う。今更かまととぶる気もないが、ここは一応私の職場でもあるし、ネロとの間にある微妙な距離感を無視するのも嫌だった。そんな事態になれば──もっとも、そんな事態をネロが承諾するとも思えないが──十中八九、ネロは未だかつてないほどに私を遠ざけるに違いない。そうなることだけは是が非でも避けたかった。たとえ何も起こらなくても、ひとつのベッドで寝るというのはよろしくない。これは間違いない。
 しかし、布団を分けさえすればそれほど問題があるとも思えなかった。何故なら、相手はネロだ。今のこの距離感を守るため、ネロは絶対に私には手を出さない。私もまた、まさかネロに夜這いを掛けるようなことをするはずがない。
 どのみち、明日の晩までには賢者様も魔法舎に戻ってこられるだろう。一晩だけなら、布団を分けた上で同室、でいいのではないか。もちろん、下心などまったくない。運が良ければネロの寝顔を拝めるかもしれないだとか、そんなことを微塵も思っていない。
 そろりとネロの顔色を窺う。しかし私の顔をぶすりと睨んでいたネロとすぐに目が合い、慌てて私は顔を俯けた。あまり長いこと目と目を合わせていると、胸の奥底にある下心を読み透かされてしまいそうな気がした。
 ネロの目は、まっすぐに私を見つめている。それなのに、その視線は何かを迷うように焦点をぼやけさせていた。
 暫し、ネロはじっと口をつぐんで私を見つめる。何を言われるのだろう、と身構えていた私が沈黙に多少の気疲れを感じ始めた頃、彼はようやくその重い口を開いた。
「あのさ。この間、酔ってブラッドに部屋まで送ってもらってたときにも思ったけど、あんたちょっと、危機意識が低すぎるんじゃねえか? そりゃあ俺だって部屋に入れるくらいでどうこうしたりはしないけど、ひと晩同じ部屋で寝るっていうのは、さすがに年頃の女の子が提案していいことじゃないだろ」
 もっともなことだった。しかし、ブラッドリーのことに関して言えば、あれは限りなく事故のようなものだ。それに、ネロのこともブラッドリーのことも、多少形は違えど信用している。頭を使わずただ「信じる」と相手に丸投げする、無責任な信頼ではない。相手を見て、ちゃんと自分で信じると判断している。少なくとも、自分ではそのつもりだ。
「でも、私はネロを信じてますよ」
「いや、そういう問題じゃなくて」
「一緒の部屋で寝るのが駄目なら、私が別の部屋で寝ます。部屋の主を追い出してまで、ネロの部屋で寝るのは申し訳ないですから」
 そうなれば元の部屋で眠るか、布団を持っていって談話室のソファーで寝るかするだけだ。正直あまり気乗りはしないが、ひと晩くらいならばそれで凌げないことはないだろう。朝は早起きをして、誰かに見られる前に片づければいいだけの話だ。
 率先してそうしたいわけではなかったが、ネロが部屋を出るというのなら仕方がない。こればかりは自分の意見を曲げるわけにもいかない。
 それに、正直に言えば今夜はできればひとりにはなりたくなかった。魔法を使って石が投げ込まれた時点で、悪戯であれ悪意であれ、誰かが魔法舎に害を為そうとしたことは明らかだ。外からはどこに誰の部屋があるのかまでは分からないから、私が狙われたと決まったわけではないにせよ、それでも不安であることには変わりない。誰かが一緒にいてくれるのなら、それに甘えたい。
 束の間、ネロと私のにらみ合いが続いた。ネロも意見を引かなさそうな頑固な面差しをしていたが、こちらも引く気はさらさらない。
 結局、折れたのはネロの方だった。
「俺が今、このまま出ていったらどうする?」
「そしたらこの部屋はひと晩無人になるだけです。私は談話室のソファーを借りるか、自分の部屋で眠ります」
 間髪を容れずに答えれば、ネロはむっと眉間に力を込めた。しかし、すぐにネロは表情をゆるめると、今度は呆れて鼻から笑いを吐き出した。
「なんだってこう、変なところで頑固なんだかね」
「それはお互い様じゃないですか?」
 私が言い返せば、今度ははっきりとネロが笑う。
「まあ、そうかもな。それより、さっさとマットレス取りにいくぞ。部屋もそう離れてないし、魔法使わなくてもどうにかなるかな」
「て、手伝います!」
「そうしてくれると助かるよ」
 眉尻を下げて笑うネロは、さも困ったように笑っている。しかし私に向ける眼差しはあたたかく、ネロがけして呆れかえっているわけではないことが伝わってきた。その眼差しに、自分がネロに要求したことの恥ずかしさを却って実感し、今更ながら顔に熱が集まる。
 夜が明けるまで、あと五時間。

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