33

 足の感覚がなく、今ここに立っているという感覚も乏しい。部屋の中央に転がる石がどうにも薄気味悪く思え、ごくりと唾を飲み込んだ。
 もしかしたら事故かもしれないとも思ったが、考えれば考えるほど、そんなはずはないという結論ばかり出てしまう。ただの悪戯というには悪質で、どうしたって私は以前受けた呪いのことを思い出す。
 怖いとは思わなかった。それでも、今になって目のまえのことが実感を持ち始め、身体が震え始めた。石が投げ込まれたのがいつかは分からない。が、もしもいつもと同じように就寝していたら、私は今頃どうなっていたのだろう。窓際に置かれたベッドの上にも、ガラス片が散乱していた。
 エプロンドレスをぎゅっと握り、その震えを抑えようとする。しかし自分の意思とは無関係に、身体は何かに怯えるように震え続ける。
「大丈夫か……?」
 声を掛けられネロを見上げれば、ネロは一瞬ぎょっとした顔をした。多分、私の顔色は自分が思っているよりもずっと悪いのだろう。
 ほんの数秒の躊躇ののち、ネロはおもむろに私の肩に腕を回した。ぎこちない手つきで肩を抱く。動揺している私を落ち着けようとしてくれているのだろう。その腕を払いのけることもせず、私は黙って俯いた。この事態に乗じてネロに甘えるようで多少気が咎めたが、薄気味悪くて心細く感じていることは事実だ。ネロが肩を抱いていてくれるだけで、ずいぶんと心強い。
 私が落ち着いたのを確認したのか、ネロが溜息をつき言う。
「それにしても、まいったな……。賢者さんは西の魔法使いたちと任務でいないんだっけ。まあ、賢者さんに言ったところでどうなるものでもないけど……」
 魔法舎を取り仕切っているのは年長者の双子であり、また魔法舎そのものを所有・管理しているのは中央の国の国王だ。だから何かあれば双子とアーサー殿下にお伝えすることになる。賢者様も立場の上では魔法使いたちを束ねているが、異世界からやってきて日が浅いこともあり、実質的な権限はほとんど持っていない。
 とはいえ、賢者様はこの魔法舎での中心となるお方であると同時に、私が個人的に頼みとしている存在でもある。ネロが真っ先に賢者様のお名前を挙げたのも、そうした私の心情への配慮だったのだろう。実務的なことよりも先に心情的な話が出てくるあたり、ネロはとことん人がいい。
 しかし、賢者様が不在なのであれば仕方がない。アーサー殿下も今日は王城に戻られているはず、となれば話をすべきは双子だろう。
「と、とりあえず、スノウ様とホワイト様にお話をする前に少し片づけを──」
「待て」
 私の声を遮って、陰鬱そうな声が横合いから飛んできた。首を巡らせれば、そこには何時の間にかファウストさんが、やはり声音と同じように陰鬱な顔をして立っていた。
「騒がしかったから何事かと思って出てきてみれば……」
 そう言うと、ファウストさんは私たちのもとまで歩みより、ひょいと室内を覗く。散らかっている部屋を男性に見られるのはいい気分ではなかったが、今はそんなことを言っている場合でもなかった。ファウストさんが出てくるということは、これはただの悪戯の類ではない──呪いや何かの可能性があるということだ。
 案の定、ファウストさんは部屋の中をさっと一瞥すると、不機嫌そうな視線を私に向けた。何時の間にか私の肩を抱いていたネロの手は離れていて、私はまた元の心細さの真っ只中に突き落とされたような気分になる。
 ファウストさんは私とネロを交互に見遣る。ネロが無言で首を横に振った。心当たりがあるかどうかの確認だろうか。私もとりあえず、ネロに倣って首を横に振っておく。
 ファウストさんが深く大きな溜息をついた。
「あの、ファウストさん──」
「片づけはやめておいた方がいい」
 きっぱりとした口調でファウストさんは言った。
「君はすでに一度、正体不明の何者かから呪いを掛けられているだろう。今回も同じ輩の仕業かもしれない。一度でも呪詛を帯びたものが室内にあれば、それは害になりかねない。ただの人間の君が迂闊に近づかない方がいい」
「で、ですが」
「片づけくらい魔法でどうとでもなる。先に検分をしてもいいか? それが済んだら掃除もしよう。勝手に触られたくないものがあるというなら、そこで見物していてくれ」
 捲し立てるように言われ、口を挟む隙もなかった。さらには「まだ何かあるのか」と言わんばかりの視線まで向けられる。これ以上わがままを通すわけにはいかなかった。
 ファウストさんの言う通り、私はすでに呪い云々で魔法使いたちに迷惑をかけている。何か危険があるというのなら、すべての判断は専門家である彼らに従うべきだ。
「すみません、大丈夫です」 
「……まだ顔色悪いな。本当に大丈夫か?」
 ネロが私の顔を見下ろし、心配そうに言う。呪い屋のファウストさんが出てきてくれたことでネロもひとまず、部屋の検分をファウストさんに一任することに決めたようだった。
 ファウストさんはもう一度振り返って私の顔を見ると、少しだけ気まずそうに咳払いをしてからネロに向き直った。
「ネロ、何かあたたかいものでも飲ませてやってくれ。検分するにしても、まだ時間がかかる」
「そうだな。とりあえず俺の部屋でいいか?」
「はい」
 もとより断ることなどできるはずもない。粛々と頷く。自分の部屋をファウストさんに任せると、私はネロに連れられその場を後にした。

 ★

 数日ぶりのネロの部屋からは、ドアを開けただけで分かるくらいの甘い香りが漂っていた。先に入ったネロが灯りをつけると、入ってすぐのテーブルにクレームキャラメルを載せた大皿が置かれているのが目に入る。私のために出してくれたのだろう。ついさっき見た部屋の惨状が衝撃的過ぎて、クレームキャラメルのことをすっかり忘れてしまっていた。
 ドアの前で立ち止まる私を、ネロが部屋の中から手招きする。おずおずと足を進め、ネロに勧められるまま椅子に腰を落ち着けた。ネロは手際よくやかんを火にかけ、棚から茶葉の入っていると思しき缶を取り出した。
「悪いな、俺の部屋で。食堂まで行くとブラッドリーがいるだろうからさ……。遅かれ早かれ耳には入るだろうとは思うけど、いきなり大事にするのもあれだろ」
「お気遣いありがとうございます」
「しかし賢者さん、いつ帰ってくっかな……」
 お湯が沸くのを待つ間、ネロはようやく椅子に腰掛けた。テーブルを挟んで正面に座ったネロは、私に視線を寄越したついでに目に入ったのであろうクレームキャラメルに視線を落とす。
「こんな時だけど、さっき言ってたクレームキャラメル食べる?」
「ありがとうございます。いただきます」
 ネロが気を遣ってくれているのが痛いほどに伝わってきた。多分、あんなふうにして部屋がめちゃくちゃになってしまった私が見た目以上に落ち込んでいるのかもしれないと、そう思ってくれているのだろう。
 実際、ショックは受けている。が、それとクレームキャラメルを食べたい気持ちにはまったく関係がなかった。どんなときであろうとも、私はネロが作ってくれた料理ならばいつでも食べたいし、それが好物のクレームキャラメルならば尚更だ。
 沸かしたお湯でネロがハーブティーを淹れてくれた。取り分けたクレームキャラメルと並べると、ささやかなお茶会のような雰囲気だ。深夜のお茶会なんて、こんな時でなければさぞ心が躍ったに違いない。
 それでも心安らぐ香りのおかげか、少しずつだが心が落ち着いてくるのが分かった。すると今度は自分がネロの部屋に招かれているのだということに遅まきながら思い至り、なんだか急に恥ずかしくなる。
 四方八方、前も後ろも右も左も、どこを見てもネロの部屋だ。ネロが寝起きし、生活している場所。そう考えると、成り行きとはいえとんでもない事態に陥っているのだと実感した。
「どうした? きょろきょろしても面白いもんは何もないぞ」
 急に狼狽え始めた私を見て、ネロが揶揄うように言う。私ははっとして俯いた。いきなり人の部屋できょろきょろするなど不躾にもほどがある。ネロだってあまり興味本位でじろじろ見られたくはないはずだ。
「あ、いえ……すみません。ネロの部屋、はじめてちゃんと入ったから……」
「はじめてって、この間も入っただろ」
「あ、あれは……酔っててちゃんと見ていなかったので……」
 しどろもどろになりながらも、それが何の理由にもなっていないことに気付く。問題はそこではないし、酔ってネロに迷惑を掛けた日のことは、できればあまり思い出したくない記憶でもあった。
 咳払いをひとつして、ネロを見る。が、堪らずすぐに視線を逸らした。こんな状況ではあるのだが、いつになく悪戯っぽい顔をしているネロの瞳に私の心臓はすっかりまいってしまっていた。いやまったく、本当にこんな状況だというのに。深刻さも、落ち着きもない心臓なのだった。
「ナマエ?」
「すみません。男の人の部屋って、あんまり入ったことが無くて。なんだか照れてしまいました」
 正直にそう告白する。ネロはほんの一瞬だけ表情を険しくしたが、それを誤魔化すようにお茶をすすると、
「心配しなくても、部屋に石投げ込まれたばっかりのあんたに何かする気はさらさらないよ」
 とわざとらしく軽口を叩いて見せた。
「そんな心配はしてないです。それに、賢者様も時々招かれるって聞いてますから」
 私だってさすがに、そこまで分別がないわけではない。少しだけむくれて見せると、ネロが苦笑した。
 この状況でネロと何かあるかもしれないなんて、さすがにそんな期待はしていない。ふたりきりになることなんて今更だし、ネロの部屋はそもそもそういう雰囲気に欠けた。いや、かりに雰囲気があったところでネロは絶対に私に手を出したりなどしないだろう。そんなことは分かっているし、今更念を押されるまでもなかった。
 しかし分かり切っていることを改めて念押しされると、どうしたって途方もない脱力感に襲われる。うっかり挫けかけた心を立て直すべく、私は思考を切り替えた。
 そうだ。浮ついたことを考えている場合ではない。今の私にはそんな浅はかな願望よりももっとほかに考えるべきことがあった。
 ネロが取り分けてくれたクレームキャラメルをひと口食べる。甘さと苦さのバランスが絶妙で、キャラメルの焦がした味わいがなにとも言えず美味しい。
「はあ……こんな時でもこんなにも美味しい……至福……」
「それはよかった。顔がゆるんだな」
「そりゃあ顔もゆるむってものですよ」
 甘いものの魔力なのか、私の中の暗雲がものすごい勢いで吹き飛ばされていくのを感じる。うかうかしているとそのままどんどん食べ進めてしまいそうになるのを何とか自制し、私は何やら思案しているらしきネロに声を掛けた。
「私の部屋のこと、全部ファウストさんにお任せしてしまって大丈夫だったんでしょうか……? こういうのって、私も立ち会った方がいいとかあるんですか?」
 今更すぎる質問だが、聞いておかないわけにはいかなかった。
 先程ファウストさんは「安易に踏み込むな」とは言ったが、検分に立ち会ってはならないとは一言も口にしなかった。私が動揺していたことくらいはお見通しだっただろうから、もしかしたら本来は私が立ち会った方がよかったところを、私に気を遣って席を外していろと言ってくれたのかもしれない。そうだとしたら、今は少し落ち着いたので是非とも検分に立ち会わせてほしかった。
 しかしネロは私の質問にいい顔をせず、
「さあ。正直呪いのことは俺はよく知らないんだ。ファウストがやめとけって言うんだ。下がっていた方がいいんだろ」
 と、なんだかそっけない返事が返ってくる。このところのネロからは久しく聞いていなかった、突き放すように頑なな声。その声に、意識的にあやふやにしていた線引きの難しさを、私は改めて実感した。
 線引き──魔法使いと人間との間の、線引き。
 ネロへの思いを自覚してからというもの、私はそれをわざと曖昧にすることにしていた。ただでさえ、東の国の出身の私は「魔法使いだから」とか「人間だから」ということに拘りすぎるきらいがある。敢えてそこを曖昧にするくらいしなくては、ネロのことを好きでいるのも難しい。
 しかし、今は多分、そうすべきではない場面だったのだろう。魔法使いたちにとって、人間に不思議の力の領域に踏み込まれることは、かくも面白くないことなのだろうか。
 なんとなくそんな気がしてネロの顔色を窺っていると、私の視線に気付いたネロは、少しだけ気まずげな顔でむっと眉根を寄せる。それから何かを諦めでもしたような溜息をつくと、
「呪いは、ただ魔法を使うのとはちょっと違うからさ。本当に俺は詳しくないんだよ」
 と言いにくそうに教えてくれた。
「なんつーかな……そもそも、呪いは魔法以上に向き不向きもあるし、魔法使いだからってみんながみんな理解して、使いこなせるってもんでもないんだ。考えてみな、そもそも呪いたい相手がいたとして、魔法使いならそんな回りくどいことをしなくても、もっと直接的に相手を害することだってできるだろ」
「たしかに……」
 言われてみれば、一理あった。魔法舎の中では北の魔法使いたちを中心に、日常的に諍いや争いが絶えることなく繰り返されている。そうした小競り合いでは相手を魔法で叩きのめすことがほとんどで、誰かが誰かを呪うだとか、そういう回りくどい方法をとった話は聞いたことが無い。もっとも、小競り合いの渦中にいるのが北の魔法使いたちなので、単純に強いものが強い、という戦い方になってしまう、というのもあるのだろうが。
 とはいえ、ネロの説明にはおおむね納得できた。ネロもまた、私が納得したのを見て頷く。
「な? だから魔法がちょっとでも使えるやつが、わざわざ呪いの類に手を出すことは少ないんだよ。そもそも呪いを専門でやるようなやつは、自分の持ってる知識を軽はずみに他人に教えたりはしないしな。俺なんかは、はっきり言ってほとんど何も知らないようなもんだよ」
「なるほど。専門中の専門なんですね」
「ファウストみたいなやつは、だから珍しいし貴重だよ」
「そうですね、ファウストさんがいてくれて私もよかったです」
 ハーブティーのカップに口をつけながら、私は頭の中にファウストさんの陰のある顔を思い浮かべた。ファウストさんが呪い屋という仕事を選んだのは一体どうしてなのだろうと、そんなことを考える。
 東の魔法使いたちが皆どちらかといえば内にこもる気質であることは分かるが、ファウストさんはけして陰険だったり陰湿だったりするわけではない。第一印象こそとっつきにくいが、知り合ってみれば彼が親切でやさしく、人並み以上に気を遣うたちだということがよく分かる。呪い屋という職業がファウストさんらしいかと言われれば、それは何だか違うような気がした。
 しかしこれもまた、私が首をつっこむことではないのだろう。
 頭の中に浮かんだ好奇心を振り払う。そうして暫くネロと、他愛ない世間話をして気を紛らわせた。

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