32

 温め終えた料理を持って厨房を出ると、すでにネロとブラッドリーは食堂へと移動してきていた。今から夕食を摂るブラッドリーはともかく、ネロまでついてくるとは、随分仲がいいことだ。
 テーブルについたブラッドリーの前に、トレーごと料理を配膳する。テーブルに出したグラタン皿からは食欲をそそる匂いと共に、ほかほかと湯気が立ち上っている。
「お待たせしました」
「おお、グラタンじゃねえか」
 声を弾ませるブラッドリーに、
「クロエのリクエストだよ」
 とネロが答えた。
 熱さもものともせず、ブラッドリーは早速がつがつ食べ始める。いつもながらいい食べっぷりだが、今日は夕飯を食べそびれていたせいか、いつもよりも一層勢いがある気がする。
 ブラッドリーは悪党だが、料理を美味しそうに食べる様は、他人事ながらもやはり見ていて気持ちがいい。料理人であるネロは私などよりもっと嬉しいことだろう。「がっつくなよ」とぼやきながらもまんざらではない様子のネロを見ていると、私まで嬉しくなってきてしまう。
 それにしても、静かな夜だった。昼間の喧噪が嘘のように、魔法舎は夜の漆黒の中に沈み切っているようだ。草木も眠る時間というにはまだ早いが、普段の私ならばそろそろ布団に入っている頃だった。
 ブラッドリーの食べっぷりを見ながら、私はネロの肘をつついた。ネロがブラッドリーから私に視線を移す。きょとんとした顔は、直前までブラッドリーの食べっぷりに喜んでいたためか、いつになく嬉しそうで無垢だった。
 ときめく心を落ち着かせ、私は咳払いをしてから尋ねた。
「ネロはもう部屋に戻るんですか?」
「まあ、そんなところ」
「そうですか。もう遅いですもんね」
 壁に掛けられた時計を見れば、とっくに夜更けといってもいい時刻だ。いくら魔法使いたちが夜更かし好きだからといっても、明日も朝から仕事がある私やネロはそろそろ床に就かないとまずい。
「おやすみなさい、ネロ。また明日」
 ここは後はやっておきますので、という気持ちをこめ、私はネロに笑いかける。しかしネロは、私の挨拶にあからさまにむっとした顔をした。その顔に、私は狼狽える。
 返事を返すこともなく、眉間に皺を刻んだ顔で、ネロはじろりと私を眺める。そのどう見てももの言いたげな視線に、私はまたぞろ何か失言をしたのかと冷汗をかく。いや、しかしこの短い遣り取りの中で失言をすることなんてあるだろうか。
 ブラッドリーがはふはふと慌ただしくグラタンを冷ます、呼吸の音だけがやけに大きく響いている。私はネロから視線を外すことができないまま、彫像のように固まって彼からの言葉を待った。
 ネロは、暫しむっつりと私を眺めていた。が、不意に疲れ切ったようなぐったりした顔になったかと思えば、額にかかった髪をかき上げる。固まる私には特に文句を言うでもなく、
「あんたは? 部屋に戻るところじゃなかったのか」
 と質問を返してきた。声は依然、ぶすりとしている。
「ええと……その、つもりだったんですけど、ブラッドリーが食べ終わるまで待っていようかなって」
 つっかえながらの回答に、ネロは一層眼光を険しくする。
「……なんで?」
「洗い物を明日の朝に残したくないですし。ブラッドリーやってくれなさそうなので……」
「そりゃあお前、住み込みで小間使いなんてやってんだから、てめえにやらせるのが筋だろ」
「おい、ブラッドリー……」
 ネロがブラッドリーをじろりと見る。ブラッドリーは口の回りについたホワイトソースをべろりと舐めとると、にやりと笑った。その表情からは申し訳なさなど微塵も感じられない。私がやって当然だと思っていることが、ありありと窺えた。
 とはいえ、ブラッドリーの言い分も間違ってはいない。住居を保証されているうえに、ここのところは外出しなければいけない仕事は減らしてもらっているのだ。洗い物など大した手間でもない。その要求くらいの要求は呑むべきだろう。
 ネロはまだ、納得できないという顔でむすりとしている。
「あの、ネロ。本当に気にしないでください。洗い物が終わったら、私もすぐに部屋に戻りますし」
 そう言って、ブラッドリーの食事が終わるのを待つため、私が彼の正面に腰を下ろそうとした、そのとき。
 ネロが咄嗟に、私の腕をつかんだ。椅子に腰を下ろすより早くつかまれたその手に驚いて、私は中腰のままネロを見上げる。
「えっ?」
 声を上げて見上げると、ネロは何故か、ひどく驚いたような顔で呆然と私を見下ろしていた。その表情に反して、服の上から私の腕を掴むネロの手は、熱く強く、その温度を私の肌へと伝えている。まるでネロの意志とは無関係に、腕が反射で動いてしまったとでもいうように、その表情と行動はちぐはぐだった。
「え……? ネロ……?」
 気が付けば、ブラッドリーがグラタンを冷ます息の音も、咀嚼の音も、何も聞こえなくなっていった。ぽっかりとした沈黙の中で、私とネロが呆然と相手を見つめ、それを横からブラッドリーがにやにやしながら眺めている。
「ええと……あの……」
 不意打ちで訪れた間に耐え切れず、譫言のような切れ切れの声を漏らす。その途端、ネロが弾かれたようにぱっと手を離した。
 ネロは視線をうろうろと彷徨わせる。そしてやにわに開手を打つと、
「──そ、そうだ、ナマエ。東の国で出してたのと同じクレームキャラメルが今、あるぞ!」
 彼らしくもない、やけに機嫌がよさそうな声でそう言った。思わず、私はぽかんと口を開ける。
 どう考えても怪しく、取ってつけたような理由。子供だましにすらならないその理由に、黙ってにやついていたブラッドリーすら呆れかえった顔をしている。
 しかし──
 子供だましにはならなくても、私にとってのその言葉は比類ないほどに特別で、そして聞き流すことなどできようはずもない台詞だった。それこそ、正常な思考など根こそぎ奪い取られてしまうほどに。
「クレームキャラメルですって!? わ、私あれ大好きです!」
 ほとんど悲鳴のような声をあげ、私は大はしゃぎで両手を上げた。
 ネロの店で出していたクレームキャラメルといえば、私があの店で一番気に入っていたデザートだ。いつ行っても用意してあるわけではなく、店主であるネロの気まぐれで作ったときだけ置いてあるそのデザートは、私にとってはこの世で最もおいしいデザートにも等しい代物だった。どうにかもう一度また食べられないものかと思っていたが、如何せんネロも忙しく、自分からリクエストするのは気が引けていた。
 魔法舎に来てから早数か月、ようやくまたネロのクレームキャラメルにありつけるとは。
 興奮で年甲斐もなくぴょんぴょん跳ねる私に、ネロが苦笑する。
「リケたちのために作ったものの残りだけどな。今でよければ、少し分けてやるよ」
「ぜ、ぜひ!」
「じゃあ、行くか。おい、ブラッド。食った食器洗わねえなら水につけておけよ。明日の朝まとめて片づけるから」
 さくさくと話を進めたネロは、にやけ顔から一転、ふたたび呆れ顔でスプーンを齧っているブラッドリーに指示を出す。ブラッドリーは音を立ててスプーンを空の皿の中に落とした。
 カランと音を立てた食器に、ネロがむっと眉を顰める。しかしブラッドリーはそれを気に留めた様子もなく、頬杖をついて半ば同情的な視線を私に向けた後、今度はネロに向かって溜息をついて見せた。
「ネロ、お前もうちょっと他にやりようねえのかよ」
「何がだよ?」
「いくら何でも犬猫じゃねんだぞ……」
「う、うるせえ。喜んでんだからいいだろうが」
 ブラッドリーとネロは何やらぼんやりとして、いまいちはっきりとしない会話を交わしている。恐らく今の私とネロの遣り取りのことを言っているのだろうとは思うのだが、回りくどくはっきりしない物言いのせいでいまいち要領を得ない。
「ええっと……?」
 困惑してネロを見る私に、ネロはひとつ溜息をついてから笑いかけた。
「いいよ、気にしなくて。ブラッドリーの言うことは話半分に受け流してくれ」
「おい!」
「行こう。ブラッド、皿を水につけるのを忘れるなよ」

 ★

 慌ただしく居住スペースまで戻ると、私は浮かれた足取りのまま、そっとネロの様子を窺った。ついさっきまでとは違って、ネロはどこかほっとしたような顔をしている。そのことに、私もつられて安堵した。
 やはりネロは私がブラッドリーと仲良くするのをあまり良く思っていないらしい。私が食堂を離れたのも、本当にクレームキャラメルを食べたい気持ちが半分くらいで、残りの半分はネロがそうしてほしそうに見えたからだった。
 いや、クレームキャラメルを食べたい気持ちが七割くらいだろうか。ネロの作るクレームキャラメルは本当に美味しくて、リケの言葉を借りるなら、まさに「口の中が天国になったみたい」というほどだ。
 閑話休題──
 先程ブラッドリーと三人で話していたときのネロは、うまく言葉にはできないが、なんだかそわそわして気もそぞろな感じだった。かと思えば、前触れもなく私の手を取ったりもする。
 ネロが私に対し、最大限の慎重さをもって接してくれていることは知っている。それだけに、先程のような突発的で感情的な言動は、ネロにとっても本意ではないはずだ。そういうことを、私はネロにはさせたくなかった。
 私があの場を立ち去ることでネロの心が穏やかになるのなら、そうすることに一切の迷いはない。ただし私がそう思っていることをネロが知れば、彼は恐らく気に病む。だからネロがクレームキャラメルを話に出してくれて、私としても助かったのだった。あの場から離れる口実を、私もまた求めていた。
 それにしても──、ネロの隣を歩きながら、私は思案を続ける。
 前提として、ネロは私のことを好きなわけではない。少なくとも、恋愛対象として好意を持ってはいない。だからネロからブラッドリーに嫉妬したりすることもないはずだ。
 そうするとネロは単純に、ブラッドリーから自分の過去が漏れるのが嫌なのだろう。そうまで頑なに過去を秘匿されるのは寂しくはあるが、仕方がないことでもある。誰にだって、知られたくない過去のひとつやふたつはある。
 結局のところ、今の私にできることは、ネロの些細な仕草や言葉から彼の気持ちを汲み取っていくことだけなのかもしれない。けして積極的とはいえないが、そのくらいしかネロが私に許してくれたことはない。
「ん? 何か考え事か?」
 思案に耽っていると、ネロが私の顔を覗き込む。今はもう、その表情の中に分かりやすい翳りは見当たらなかった。
「あ、いえ。そういうわけではないんですけど。久し振りにネロのクレームキャラメルが食べられると思うと嬉しくて」
 苦し紛れの返事だったが、ネロは特に怪しんだりはしなかった。実際、私がネロのクレームキャラメルを愛してやまないのは事実だ。
「そんなに好きだったなら、言ってくれれば作ったのに」
「料理のリクエストならともかく、おやつのリクエスト権を子供たちから奪うのは如何なものかと」
「分からんでもないけど……。じゃあまあ、これからは定期的に作るよ」
「嬉しいです!」
 いっそ、ネロがブラッドリーに嫉妬でも何でもしていてくれたなら、この気持ちのもやもやも晴れていたのだろうか。笑顔の裏で、そんな益体のないことを考える。しかしやはり、そんなことはあり得ないし、あり得たところで望むべきでもないことだ。
 心に浮かんだ遣る瀬無さには、今は見て見ぬふりをして。
 東の国の人間らしく、心を波立たせる原因には気付かないふりをして。
 そうして臭いものに蓋をしていたら、いつのまにかネロの部屋の前に到着していた。ここからもう少し行くと、同じ並びに私の部屋がある。
「私、部屋からお皿持ってきますね」
「寝る前に食べるなよ、虫歯になるぞ」
「子供じゃないんですから大丈夫です。それに、ちゃんと歯磨きしますし」
「はは、いらん心配だったな」
 ネロの揶揄い混じりの声にわざとらしく怒って見せ、私はようやく到着した自分の部屋のドアを開ける。これまでは就寝時以外は鍵を掛けていなかったが、呪い云々のこともあったので、ここ最近は念のためにと普段から施錠する癖をつけている。
 エプロンドレスのポケットから、リケとお揃いのキーホルダーを取り出し、部屋のドアを開けた。
 部屋に一歩踏み込み、灯りをつける──
 つけたところで、室内の惨状に気付き──唖然とした。
「えっ、なにこれ……」
 言葉がひとりでに口からこぼれる。
 部屋の中には割れた窓ガラスの破片が飛び散り、外から吹きこんだ風が部屋の中の細々とした雑貨をひっくり返し、床の上に散乱させていた。
 何者かが押し入りでもしたようなその惨状に、私はドアを開けたまま、呆然とそこに立ち尽くす。
 割れた窓ガラスの欠片が、床の上に散らばっている。窓ガラスは割れ、窓枠からは容赦なくびゅうびゅうと風が吹き込んでいる。大して私物を置いていない部屋とはいえ、最低限の生活雑貨くらいは備えてある。それらが風に飛ばされガラス片とともに無残に床に散らばる様子は、私の頭から正常な思考能力を根こそぎ奪っていってしまった。
 無秩序に荒れている。窓がひとりでに開いたわけではない。窓にはしっかりと鍵がかけられている。現に、窓枠は開閉することなく、きちんとそこに静止している。
 事故だろうか。鳥が窓に突っ込んできたとか? いや、ここは魔法舎なのだ。周囲に厳重な結界を張っているように、ひとつひとつの窓や扉にだって、そう易々と破られることのないよう魔法が施されているはずで──

 どのくらいの時間、そこで呆然としていたかは分からない。ほんの短い時間だったような気もするし、随分と長く突っ立っていたような気もする。
 私が我に返ったのは、廊下から私を呼ぶネロの声が聞こえたからだった。
「ナマエ? どうした?」
 おそらく、いつまで経っても戻ってこない私を心配して様子を見に来てくれたのだろう。私は静かに後ずさり部屋から出た。
「ネロ……」
 ネロはひと目見て、何かあったのだと察したらしい。さりげなく私の背に腕を回すと、そのまま共に私の部屋を覗く。
 灯りを点けたままにしていたから、ドアの前までやってきただけで、ネロも室内の有様が理解できたようだった。
「うわ、何だこれ。ひどいな……」
「窓が、割れてて……部屋が、その……」
 答えたところで、ふと部屋の真ん中に見知らぬ物体が転がっていることに気が付いた。点灯しているとはいえ室内は薄暗く、目を凝らさないとよく見えない。じっと目を凝らして見てみると、それは大体私の握りこぶしと同じくらいの大きさの、石か何かのようだった。
 その瞬間、背筋がひやりと冷えた。
 私の部屋の窓は魔法舎の正門に面している。正門から魔法舎の建物まではそれなりに距離があり、また通りから敷地の中が見えないように垣根と鉄柵が張り巡らされている。通りから石を投げ入れたところで、どれだけの膂力があろうとも届くはずはなかった。
 しかし魔法舎の中にはそんな悪戯をして喜びそうな人はひとりもいない。一番あり得るのはオーエンさんだが、オーエンさんならばもっと悪質で、もっと巧妙なやり方をするはずだ。間違ってもこんな単純な嫌がらせはしない。
 それでは、この石はどこからこの部屋に飛び込んできたというのか。
 誰が、この部屋の窓を割ったというのか。

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