31

 ブラッドリーがふらりと談話室に姿を表したのは、私が夜、ひとりで片づけをしていたときのことだった。すでにカナリアさんは仕事を上がって帰宅している。夕食後にこうして夜の片づけをするのは、住み込みで働いている私の役目だった。
「まだ働いてんのかよ、小間使いの女」
 ブラッドリーは私の姿をみとめると、なぜだか自分が働かされているようなうんざりした顔をした。その顔にはハッキリと「鈍臭いやつめ」と書いてある。
 例の一件以来、ブラッドリーは何かにつけて私に声を掛けてくる。私としてもネロやリケたちほど親しいわけでもなく、かつここの魔法使いたちにしては珍しく適当に、悪く言えばぞんざいに私を扱うブラッドリーとの会話は気楽で、実は彼に話しかけられるのをひそかに楽しみにしていた。
 もちろん、そこには色恋めいたものなど一切ない。ブラッドリーの方も私を一切女扱いしていないからこその気楽さだ。
 今夜のブラッドリーはどこか気だるげだった。月は細く線のような三日月で、いつにもまして魔法舎は神秘的な雰囲気で満ちている。
「こんばんは、ブラッドリー。そういえば今日は夕食の時間にみえませんでしたけど」
 どかりと安楽椅子に腰かけるブラッドリーに、私は雑巾片手に話しかける。集団生活とはいっても、北の魔法使いたちはとりわけ気まぐれだ。私の質問の形をとらない問いかけに、ブラッドリーはくあっと欠伸をして、
「寝てた」
 と短く答えた。
「寝てたって、昼からずっとですか?」
「いいだろ。どうせ北の魔法使いたちはほかと違って訓練も必要ねえし」
「はあ、そういうものですか」
「ったく。毎日暇でしょうがねえよ。檻ん中閉じ込められてねえのはいいけどな。いっそさっさとあの<大いなる厄災>が来てくれりゃ、ちょっとは暇がつぶれるっつーのに」
「そんなこと言うのブラッドリーくらいですよ……」
 おそらく本心から言っているに違いないブラッドリーに、私は手を動かしたままぼそぼそと返事をした。
 私など、できることならば一生<大いなる厄災>なんてものが来なければいいと思っている。あんなものが来るから、魔法使いたちも賢者様も戦わなければならないのだ。あんなものが来なければ、彼らが命を賭して世界を守る必要だってない。そうなればそもそも賢者の魔法使いなんてものを選ぶ必要もないわけで、ネロだってずっと雨の街で店を続けていけたはずだった。
 今更考えても仕方がないことを、それでもなお恨みがましく考える。すると、
「てめえは本当に、二言目にはネロだな」
 ブラッドリーに呆れたように笑われてしまった。途端に顔が熱くなる。
「な、まだ何も言ってないじゃないですか」
「顔に書いてあるんだよ。ネロ大好きってな」
「書いてないです」
「好きじゃねえのかよ?」
「好きですけど……」
「そら見ろ。しょうもねえ見栄張んな」
 ブラッドリーはそう言って、私を鼻で笑う。
 と、暫くそうしてブラッドリーと何てことのない会話をしていると、視界の端にある大階段を小走りに駆け下りてくるネロの姿が見えた。会話の内容が内容だっただけに、私もブラッドリーも口をつぐみ、ネロが階段を下りるのをじっと見つめる。
 寝る前に片づけをする私同様、ネロもまた、寝る前に厨房の最後の片付けと、日によっては翌朝の仕込みをする。そのために下りてきたのだろうか。厨房の片づけはすでに済んでいたはずだったが。
 私の疑問をよそに、ネロはまっすぐに此方に向かって歩いてくる。そのまま私とブラッドリーのすぐそばまでやってくると、挨拶もそこそこに、
「ブラッドリーとなに話してんだ」
 と私たちの話に加わった。
「お前、口を開いてひと言目がそれかよ」
 安楽椅子に腰かけたブラッドリーが、呆れたようにぼやく。
「お前ら、本当似たような性格してんな」
「は? 誰と誰がだよ?」
「お前とこの小間使いの女だよ」
 ブラッドリーが軽口を叩くたび、ネロの表情は険しくなる。私はその様子を、内心はらはらしながら見つめていた。
 ネロは以前から、私とブラッドリーが言葉を交わすのをあまり良く思っていない節がある。しかし今日は輪をかけて、その表情が険しい。苛立っている、というわけではないようで、どちからかといえば戸惑っているとでもいうような、そんな自信なさげな瞳の色をしているように見えた。
 ネロはその目で、もの言いたげな視線をブラッドリーに遣っている。ブラッドリーもまたネロの様子が普段と違うことに気付いたのか、それ以上の憎まれ口を叩こうとはしなかった。談話室には束の間、互いの腹の中を探り合うような、気まずい沈黙が流れた。
 ネロとふたりのときならばともかく、ネロとブラッドリーが睨み合うような状況での沈黙というのは、何とも恐ろしくて気詰まりだ。
「別に何を話してたというほどの会話もしていなかったんですけれど──」
 取り成すつもりで答えながら、ふと、何の気なしに視線を大階段の上へと向ける。するとそこでは数名の魔法使いが私たちを見下ろしており、私と目が合うとにこやかな笑顔を向けてくれた。
 フィガロ先生と双子だった。何故だかこちらに向かって、朗らかに手を振っている。
 さすがに距離が離れているから、フィガロ先生たちが何を言っているかまでは聞こえない。しかしネロは大階段を下りてやってきたのだから、ついさっきまでフィガロ先生たちと一緒にいたのかもしれない。
「フィガロ先生が手を振ってるんですけど、あれ、ネロにですかね?」
 そうネロに尋ねるも、ネロは露骨に嫌そうな顔をした。
「いや、ありゃ多分あんたにだろ。手、振り返してやったら」
「ええ? 私がですか?」
 よく分からないが、言われるまま手を振り返す。やはりフィガロ先生はゆるゆると手を振っている。どうやら本当に私に手を振っていたらしい。
 一体これは何なのだろうか。別に私はフィガロ先生と親しくしている覚えはないのだが。
 困惑しながら手を振っていると、ブラッドリーもつられて階上を見上げた。そしてやはり、ネロと同じように露骨に嫌そうに顔を顰めた。
「あいつ手なんか振りやがって、どういうつもりだ?」
「知らねえよ。嫌がらせじゃねえの」
「どんな嫌がらせだよ?」
「だから知らねえって」
 先程までの気まずさは感じさせず、ブラッドリーとネロは気の合った会話を交わす。しかしもう一度ネロと私の視線がぶつかると、ネロは唐突にその口を閉じて仏頂面をした。
「ええと……、ネロ……?」
 見ればネロの琥珀の瞳が、わずかに揺らぎながらじっと私に向けて注がれていた。その視線の切々とした色合いに気づき、私はフィガロ先生たちに手を振るのをぎこちなくやめる。
 ネロは普段から、何かというと視線を逸らすことが多い。自分の気持ちを読まれたくないときは当然だが、ネロの場合は視線を逸らすことがもう癖のようになっている。だからこそ、いざこんなふうに見つめられるとどうしていいのか分からなくなる。こんなとき、どんな表情をつくり、どんな声を掛けるのが正解なのだろう。
「あの、ネロ?」
 胸の高鳴りを感じながら、恐る恐るとネロを呼ぶ。一寸の後、ネロははっと我に返ると、慌てて私から視線を逸らした。
 そのことに、少なからずほっとする。
「その、どうかしましたか?」
 やはりおずおずと尋ねる。ネロもまた、固い表情と固い声で私の問いに応じた。
「ああ、いや。こんな時間まで何してんのかと思って。けど何してんのかってのも変だな、掃除してることなんて見れば分かるのにさ」
 ネロにしては、なんだか要領を得ない説明だった。しどろもどろとまでは言わなくても、うまく言葉が纏まっていない感じがある。
 何か、心乱されることでもあったのだろうか。珍しいことで心配には思ったが、それを今ここで尋ねるのも違う気がした。ネロは多分、そういう話をしたがらない。
 逡巡のすえ、ネロの不自然さには気付かないふりをして、私は先程のネロの言葉に答えることにした。
「私は寝る前の掃除をしていて、でもそれも終わったので、もう部屋に戻るところです。ただブラッドリーが夕食を食べ損ねたって言うので、夕食の残りを温めてから部屋に戻ろうと思って」
「ああ、気付かなかった。悪い」
「いえ、温めるくらいさすがに私にもできますから」
 自慢するほどのことでもないが、えへんと胸を張った。
 相変わらず料理の腕はからきしでも、さすがに温めなおすくらいは私にもできる。もっとも、できなかったところでブラッドリーは自分で魔法を使って加熱するだけだろうが、だからといって魔法を理由に冷たいまま出してもいいというわけではない。
「魔法使いの皆さんに快適に過ごしていただくことが、私のここでの仕事なので」
「そういうこった」
 ブラッドリーが調子よく頷く。途端にネロがブラッドリーを睨んだ。ブラッドリーが肩をすくめておどける。
「んな顔すんなよ。別に何もしてねえだろうが」
「何も言ってねえだろ」
「顔に書いてあんだよ」
 私が言われたのと同じことを、ネロも言われていた。会話の意味は私にはよく分からないが、ネロはあれで案外不満がすぐに顔に出る。案の定、ブラッドリーに指摘されたネロは、ぐっと言葉に詰まってブラッドリーを睨んでいた。
 なんとなく、雲行きが怪しい気がする。先程の腹の探り合いは一旦なあなあになったが、しこりのようなものはまだ残っているらしい。
 ブラッドリーとネロでは恐らくそれなりに魔法使いとしての実力差もあるだろうから、ここでとんでもない喧嘩が始まることはないだろう。好戦的なブラッドリーはともかく、ネロは荒事を好まない。しかし、何せ男の人同士のことは私には予想がつかないことだ。いつ喧嘩になるかも分からない以上、巻き込まれないに越したことはない。
「私、ブラッドリーの夕食を温めてきますね」
 そう言うや否や私はそそくさとその場を逃げ出した。背後からは「フィガロの言いそうなことは大体想像つくけど、あんま真に受けんなよ」というブラッドリーの声が聞こえる。
 会話のトーンから察するに、どうやら喧嘩にはならなさそうな雰囲気だ。さりとて、私が立ち入ってよさそうな話でもなし、会話の内容が気になる心を押さえつけ、私は厨房に向かう。
 階上ではまだ、フィガロ先生と双子が薄い微笑みを貼りつけて私たちを見下ろしていた。

 無人の厨房はひんやりとしていたが、まだかすかに夕食の残り香がただよっていた。すでにネロが片づけを済ませた後なので、隅々までよく磨き上げられ、くずゴミのひとつも落ちていない。
 作業台の上には、埃をかぶらないようにクローシュを掛けられた皿が、ひとつぽつんと残っていた。多分、これがブラッドリーの分だろう。お皿をオーブンの中に突っ込んでダイヤルを回す。料理の温めなおしが終わるのを待つ間、スツールに腰掛けて足をぶらぶら遊ばせた。
 ネロとの関係が有耶無耶に修復し、ひとまずのところはこれまで通りの距離感での関係が続いている。これまで通りということ、それはつまり私が気持ちを伝えたという事実──私からネロへの恋心がまったく無視されているということだ。しかし私は今の関係や距離感に、おおむね満足していた。
 もちろん何かしらの進展を望んでいるからこそ、一度は気持ちを打ち明けたはずなのだ。しかし一度あのぎくしゃくした関係を経験してしまうと、むやみに事態を動かそうとして下手を打つことが途端に恐ろしくなってしまった。
 たとえ自分の気持ちが見て見ぬふりされているとしても、あんなふうに気まずくなるよりは今の方がずっとましだ。今のままならばネロのことを困らせることもない。もしかしたらネロの本心は今も困り果てているのかもしれないが、それこそ私には知りようのないことだ。そこまで気を回す余裕は、正直今の私にはない。
 今の目標は現状維持。それなのに、私の気持ちは今ひとつ晴れない。
「ままならないなぁ……」
 無人の厨房でひとりごち、溜息をつく。
 今の関係におおむね満足しているということは、完全には満足できていないということの裏返しだ。これで良しとしたいのに、心の中には常に現状を打破する突破口があるのではないかと、まだ何かできることがあるんじゃないかと、そんな期待が燻り続けている。
 これ以上何をネロに望むというのか。自分の浅ましさと諦めの悪さにうんざりする。
 いつからこんなふうに、何もできないことをもどかしく感じるようになってしまったのだろう。少なくとも東の国にいるころには、こんな気持ちになることはなかった。
 何もできないということは、たいていの場合は何もしなくてもいいということだ。何かすべきことを望まれているのなら、何をすればいいのかもはっきり分かることの方が多い。それが分からず余計なことをするくらいなら、いっそ何もしない方が東の国ではうまく事が運ぶ。
 事なかれ主義の東の国では、何もしない人間よりも余計なことをするお節介な人間の方が余程疎まれ、嫌われた。何もしなくていいということは、失敗しないということ。私にとって、何もしない、何も選ばないことは心が安らぐことだった。
 自分の手で、頭で、何かを為そうとすることは、難しくて苦しくて、億劫で恐ろしかった。
 それがこの中央の国でネロと再会し、私の中の何かが着実に変化しつつある。その変化が良いものなのかそうでないのかも、私自身ではうまく判別がつかない。
 まったく、ままならない。
 そこかしこにネロの気配を感じる厨房の中で、ここにいないネロのことを思って溜息をつく。しかし次の瞬間にはオーブンの中から香るいいにおいに腹の虫がぐうと鳴き、センチメンタルな気分は何処かへ飛んで行ってしまった。

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