幕間 その2

(※ネロ視点)

 談話室へと続く大階段の上、踊り場の手すりに寄りかかって、俺は眼下を眺めていた。俺の視線の先には、つい先日有耶無耶に関係を修復したばかりのナマエと、そしてここのところ妙にナマエを構いたがるブラッドリーの姿がある。
 俺がナマエとの間に気まずさを抱えたまま訓練に出ていたら、俺が不在の間にあのふたりが随分と親しくなっていた。どういうわけだか知らないが、面白くないことはたしかだ。
 無論、そこにあるのが艶めいた感情でないことは分かっている。
 ブラッドリーは俺がナマエに対して持っている感情の種を知っている。それを知っていて、それでも平然と横やりを入れるほど、ブラッドリーは道理の分からないやつではない。だからあれは多分、動きの面白い玩具を見つけた子供と同じようなものなのだろう。齢六百近い子供など、まったく可愛くないどころか凶悪でしかないが。
 ナマエからブラッドリーへの気持ちとなると、そんな話はもっとあり得ないことだ。ナマエがブラッドリーを好きになることは、恐らく万にひとつもないだろう。あの性格では粗暴なブラッドリーには付き合いきれるはずもないし、そもそもナマエには好きな男がいるわけで──
 眼下ではナマエがせっせとテーブルの拭き掃除をしていた。そこにブラッドリーが何か話しかけたかと思えば、魔法を使ったのか、ナマエの手から雑巾を奪い取る。
 てっきり掃除の邪魔をしているのかと思って顔を顰めるが、ナマエの手を離れた雑巾は宙に舞い上がり、ナマエの手の届かない高い場所をひと撫でして、ふたたびナマエのもとへと戻った。
 ブラッドのやつ、ナマエの邪魔をしているのかと思ったが、どうやら手伝ってやっていただけらしい。
 と、ほっとしたのも束の間。ぺこぺこと頭を下げるナマエの頭を、ブラッドリーがぞんざいに掻きまわした。その仕草に、たちまち胸の中で暗いものが発生する。
 ブラッドリーとの付き合いも長いから分かるが、あれは女に接するときの態度ではない。むしろ手のかかる、どうしようもない下っ端を気に掛けてやるときの仕草だ。
 そしてそういう仕草で可愛がられた下っ端は、大抵遠からずブラッドリーに心酔することとなる。
「…………」
 一瞬、よからぬ想像が脳裏を過ぎる。しかし自分が不機嫌になっていることに気付き、慌てて頭を振った。
 別に、ナマエがブラッドリーをどう思おうと、それは俺の関与するところではないはずだ。俺はナマエの保護者でもなければ、ナマエの恋人でもない。俺とナマエはただの知り合いで、それ以上でも以下でもない。
 ただ、言わせてもらえばブラッドリーは囚人だ。<大いなる厄災>との戦いのためにある程度の自由が認められているが、だからといってやつが自由の身になったわけではない。普通の人間であるナマエが渡り合うには、いささか以上に相手が悪い。
 というかそもそも、あいつらが仲良くする理由があるのか……?
 俺が歴代のブラッドリーの女を脳内で照会し、ナマエとの共通点を探し始めた、そのとき。
「ネロって分かりにくいようでいて、実は相当分かりやすいね」
 完全に油断していたところに背後から声を掛けられて、俺は思わず飛び上がった。口から飛び出そうな心臓をおさえ、勢いよく振り返る。
 そこに立っていたのは、明らかに胡散臭い笑顔を浮かべた白衣ののっぽ、フィガロだった。
「なんだ、あんたか……」
 ばくばくと煩い心臓を宥めつつ、俺はフィガロの方を向いた。大した用もないだろうに、気配を殺して忍び寄ってくるあたり、こいつも相当たちが悪い。また面倒なやつに声を掛けられたものだ、とは思いながらも口には出さず、俺はあくまで平静を装って笑った。
「いきなり何の話だ?」
「またまた、とぼけちゃって。ナマエのことだよ」
 腹の探り合いもせず、フィガロは笑顔のまま、ずばりと切り込むようにナマエの名を口にした。そのあまりにも直截的な物言いに、てっきり回りくどい言い方をされるとばかり思っていた俺は、かなりはっきりと狼狽えてしまった。フィガロが愉しそうに笑う。その笑顔は、こいつがかつて北の魔法使いだったと知っている者ならば心胆を寒からしむるような笑顔だった。
 俺もけして若い魔法使いの部類ではないが、こいつやオズの前では無力な子供のような心地にさせられる。それでも俺にだって安いプライドくらいはあるわけで、黙ってやられているわけにもいかない。
 俺はどうにか見た目を取り繕い、フィガロと対峙した。
「別に、あんたには関係ない話だろ」
 突き放すように答えれば、
「あれ? 否定はしないんだ」
 あっさりと上手をいかれた。出し抜かれた気分になりかけて、しかしすぐに思い直す。何せ相手はあのフィガロなのだ。普段俺が相手にしているような相手──東の年下連中やブラッド、それにナマエなどは足元にも及ばないような相手。このくらい、出し抜かれたうちには入らない。
 平常心を保つため、ふうと息を一つ吐き出して、俺は言った。
「否定したところで、あんたはどうせ聞かないだろ」
「どうだろうね。たしかに俺はそんなもの真に受けて聞いたりしないけど、でもネロが自分に言い聞かせるのには役立つんじゃないかな」
 ぐ、と言葉に詰まった。
 さすがに見過ごせないほどの、分かりやすい棘。フィガロの言葉は露骨に棘を備えている。それを見て見ぬふりできるほど、俺は温厚なたちでもなかった。
 とはいえ、歯向かうにはフィガロは強大すぎる。
 俺は手すりに背中をあずけると、両手を開いて挙げて見せた。なにも恭順の意思があるわけではない。それでも、ここでフィガロに噛みつけるほど、俺は命知らずではない。
 たとえ今は南の魔法使いだったとしても。
 俺が簡単に北の魔法使いであることを捨てられたのとは反対に、こいつは何があろうとも、絶対に北の魔法使いであった過去を捨てられはしないのだろう。
 俺の気弱な態度を見るや、フィガロは「君は賢いね、ネロ」と笑う。それは温厚な南の魔法使いの笑顔でありながらも、俺に噛みつかれることなどあり得ないと分かっている、絶対的な強者の余裕の笑顔でもあった。
 溜息をつく。どうして俺がこんな目に遭っているのだろう。フィガロに盾突く北の魔法使いたちならばともかく。
「俺、あんたに絡まれるようなことしたっけ……。あんたには極力目をつけられないようにしてたつもりだったんだけど」
「それはそれで酷くないか? いや、まあそれはいいとして。若くて可愛い女の子と、あんなふうに仲良くしたりしなかったりして、それで俺に睨まれないと思ったっていうのは、ちょっと甘いんじゃない?」
 あくまで茶化すようにそう言って、フィガロは俺の隣に歩み寄る。手すりに身体をあずけると、先程までの俺と同じように眼下の談話室を眺めた。
 そこにはまだ、掃除をするナマエと特に何もしていないブラッドリーがいる。
 ふたりの姿を視界におさめたまま、フィガロは俺に話しかける。
「ブラッドリーも随分まるくなったよね。見てよ、あいつ人間の女の子相手に笑ってるよ」
「……ブラッドリーは昔から女にはモテるだろ」
「そうだけど。あれはそういうのじゃないだろ?」
「……言ってる意味が俺にはよく分からんね」
「ネロの気に入りの女の子だから、それでとびきり甘いんだ」
 笑っちゃうね、と。
 フィガロはさして面白そうでもなく、薄っぺらな笑顔だけで呟いた。
 何と返事をするべきなのか。フィガロが隠している尾を踏むような真似だけは、絶対にしたくなかった。肯定も否定も、結局は同じような気もする。
 ややあって、俺は答えた。
「俺は別に──」
「相手が人間だから? だから迷ってるのかい」
 俺の逡巡など無視をして、それどころか俺の話を遮って、フィガロは話を飛躍させる。本来あるべき質問をいくつかすっ飛ばした会話は、傍から聞けば意味不明に違いない。
 しかしひとつひとつ問い詰められるまでもなく、間にあるべき質問がどんなものだったのか、俺には手に取るようにわかってしまう。なぜならそれは、俺自身が幾度となく己に問いかけてきた問いであり、ナマエと一緒にいるときには常に頭の片隅にある問いでもあったからだ。
 それをフィガロは、事も無げにすっ飛ばしていく。
 まるでこの世のすべての問いに対する答えなど、とうに持ち合わせているとでも言わんばかりに。
「そんな顔で見るなよ。俺だって知らないことばかりだよ。だから今、俺が知らないところに至りそうなネロを見て、こうして声を掛けているんじゃないか。俺の方がむしろネロに教えてほしいくらいだよ」
 果たして、その言葉のどこまでが本心なのだろう。
 もはや本音を隠す必要も感じられず、俺は露骨に疑うような視線をフィガロに向けた。さすがにフィガロも呆れ、あるいは困ったように眉尻を下げ、ひとつこれみよがしな溜息をついて見せた。
「勘違いしないでくれよ。俺は人間も魔法使いもみんな仲良くやっていきたい、南の国のフィガロ先生だよ。人間と魔法使いの恋愛なんて、もっとも推奨するところだ。ぜひうまくやって、ミチルに夢と希望を与えてやってほしいものだよ」
「それ、どこまで本気だ?」
「全部本心だよ。そんなに疑うなよ」
 そう言われたところで、フィガロが信用していい類の魔法使いだとは到底思えない。俺自身がフィガロからこれといった被害を受けたことはないものの、身の回りを見てみれば、どいつもこいつもフィガロに痛い目を見せられている。
 大体、二千年も生きている魔法使いが「人間と魔法使いの恋愛を推奨する」などと嘯くものだろうか。かりに結ばれたとて、その契りの儚さを一番よく知っているのは、おそらくフィガロだ。互いが互いで完結している双子でもなければ、人間を征服するものとしてしか見做してこなかったオズでもない。
 しかし、目のまえのフィガロはそんな諦観じみたものは少しも顔に出さない。その泰然とした様子が、かえって恐ろしく、そして俺の心を白く波立たせる。
「あんただって分かってるだろ。魔法使いの一生に比べて人間の一生が短すぎるなんて、そんな当たり前のこと」
「ええ? すごいな。俺にそんな当たり前のことを改めて言うやつ、久し振りだよ」
「……っ」
 軽くいなされ、俺はフィガロを睨む。こいつ、端からまともに会話する気などないんじゃないだろうか。俺の心境を察しているだろうに、なおフィガロは軽やかに笑う。
「あはは、ごめんごめん。怒ってないよ。感心しただけさ」
 別に、怒らせたかもしれないなんて心配をしたわけでもなかったが。しかし言われてみればたしかに、フィガロにとっては今更、当たり前すぎることを俺などに指摘され、腹を立ててもおかしくはなかった。昔のフィガロだったら、あるいはすでに俺はここで死んでいたのかもしれない。
 そう思うと、すっと血の気が引いていく。
「だからそんな顔しないでよ。大丈夫だよ、言っただろ? 俺は南の国のフィガロ先生だって」
「それを真に受けられるほど、俺も若くはないんでね」
「俺からしてみれば、ネロなんて子供みたいなものだけど。でもまあ、さっきの話、強いて言えばその当たり前のことは俺じゃなく、寧ろネロが考えるべきことじゃないかな」
 フィガロはまた、一時俺に向けていた視線を階下のナマエたちへと遣る。趣味の悪い神様か何かが、地上の人間を漫然と眺めているだけのような、興味のない瞳で。
「考えてもみてよ。人間なんて、たった数十年しか生きることができないんだよ。そんな光が過ぎ去るみたいに短い時間で、どうせあの世に持って行けもしない愛情や幸福をいじましく欲しがってるんだ。それに俺たちが付き合ってやることに何の問題がある?」
 それはまるで、本当に神か何かのように。
 淡々と、フィガロは言うのだった。
 恐ろしいのは、それが露悪的な態度をとろうとした末の言葉ではないということが分かってしまうことだ。すべて本心とは言わないまでも、フィガロの言葉の中には多分に本心が含まれている。
 ごくりと喉が鳴る。自分がひどい考え違いをしていたことに、俺はここに至ってようやく気が付いた。
 そもそもフィガロは、俺などとはものの考え方が違うのだ。
 俺がナマエをたったひとりの人間の女の子として捉えているのと違って、フィガロはナマエを、人間の女の子の中のたったひとりとしか見ていない。
「ナマエは今、たしか二十そこそこだっけ。となると、どれだけ今ネロのことを好きでも、その思いが続くのはせいぜい三十年かそこらってことか。三十年。たった三十年だよ、ネロ」
 フィガロは一歩、俺との距離を詰める。
「ささやかで可愛い思いじゃないか。ねえ、そう思わない? 付き合ってあげればいいのに。だってたった三十年ぽっち、俺たちの永くて、永すぎる人生の中では暇つぶしみたいなものなんだから」
 また、喉が鳴った。口の中はからからだった。
 ゆっくりと、俺は呼吸を整える。
 フィガロの言い分は、きっと正しい。それに二千年近くも生きた魔法使いの価値観と思考として、それは安易に否定されるべきものでもないはずだ。それこそフィガロの言う通り、せいぜい数百年しか生きていない俺がどうこう言えるものではない。
 ただし、その正しさはフィガロにとって、魔法使いにとっての正しさだ。
「そりゃあ俺たちにとってはそうだろうさ。まして、あんたみたいに何千年も生きている魔法使いにとっては、三十年なんて瞬きくらいに短い時間でしかないんだろ。けどな、その三十年ぽっちの暇つぶしに、ナマエの人生を巻き込むなんて、そんな不誠実な話はないだろ」
「不誠実?」
 俺の反論に、フィガロがきょとんとした顔で首を傾げた。
 演技でそうしているような態度ではなく、本当に理解できないというような、心底不思議に思っていそうな顔つきだった。
 たったの三十年。たかだか三十年。
 魔法使いにとっては、それはたしかにあっという間に過ぎ去ってしまうような時間なのだろう。だが、ナマエにとってはそうではない。人間のナマエにとっては今日という一日ですら、短い人生の中の大切な一日だ。それは俺のような倦んだ魔法使いが幾らも奪っていいような、無価値な代物ではない。
「たかだか三十年だって? 二千年も生きてたら、人間の物差しを忘れちまうのかよ。俺たちにとっては取るに足らないような短い時間だって、ナマエにとっちゃ人生の半分近くをかけてんだ。それだけの思いに暇つぶしなんて気持ちで付き合うのは、ナマエに悪いだろ」
 言いながら、いよいよ殺されるかもしれないと思う。殺されはしなくても、何かひどい目に遭わされるくらいのことはあるかもしれない。
 俺はいつでも逃げ出せるよう、半歩足を後ろに下げた。呪文を唱える準備もする。
 しかし、フィガロはじっと俺を見据えたのち、
「ふうん、思っていたよりも青いね。ネロ」
 愉しそうに笑っただけだった。そこには今日ここで会話をはじめてから常にフィガロから感じていた、底知れない不気味さのようなものは少しも感じられなかった。
「……あんたに比べれば誰だって青いよ」
 そう言って、俺は今度こそ逃げるように階段を下りた。その途中ふと階の上に一瞥寄越せば、どこから現れたのか引いたような顔の双子が、何やらフィガロに声を掛けていた。
 長命の魔法使いには長命の魔法使い同士、互いに思うところがあるのかもしれない。しかし俺はそんなものには巻き込まれたくなかったから、階上の遣り取りには早々に見切りをつけ、ナマエとブラッドリーのもとへと向かった。

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