30

 ぱたん、とドアが閉まる音が聞こえ、目が覚めた。重たい瞼をどうにか開き、自分の現状を確認する。
 足の下には地面の感覚。周囲はそこはかとなく美味しそうな匂いに満ち、空気はわずかに乾燥している。戸棚の蝶番が軋む音。ガラスと金属が触れる音。聞きなれた生活の音が、断続的に私の耳に届く。
 心が落ち着く音たち。その音に耳を傾けていると、ふいに視界をちらつく、灰水色の髪。
「あれ、ネロ……?」
 譫言のように呟くと、気付いたネロが私の肩を押した。後ろに用意されていた椅子にそのまますとんと座らされ、私はぼんやりと周囲を見回す。見慣れない設えは、厨房と居室の中間のような雰囲気だった。ワンルームでキッチンと寝室が同じになっている部屋のようだが、それにしてはキッチンのつくりが相当しっかりしていた。簡易的なキッチンではなく、本腰入れて調理をするための設備だ。
 そうだ、ブラッドリーたちとお酒を飲んだ後、訓練から戻ったばかりのネロと行き会って──
「目ぇ覚めたか。このまま本格的に寝ちまったらどうしようかと思ったけど、よかったよ」
 私が直前までの記憶を取り戻したとき、キッチンに立ち、何やら瓶をごそごそしているネロが背を向けたまま私に言った。コンロの上ではやかんの口から湯気が立ち上っている。
「私、寝てましたか」
「寝てたよ。寝ながら歩いてた」
 くっくと笑いながらネロが答える。
 そうしてそのまま、夢うつつの状態でネロの部屋まで歩いてきた、ということのようだ。己の器用なんだか分からない、しかし人間としては割とだめな姿を想像し、赤面する。人生でお酒の失敗をしたことなどほとんどなかったのに、この魔法舎で働き始めてからはすでに二度もやらかしている。情けないにもほどがある。
 穴があったら入りたい。穴がなくても物陰に隠れたい。いっそ消えてなくなりたい。
 まだ胸元に残る吐き気と羞恥に身もだえていると、ネロがお椀片手にテーブルまで歩いてきた。
「これ、薬湯。飲めるか?」
 もうもうと、尋常でないほどの湯気を立てたお椀が、私の前のテーブルに置かれる。お椀の中身はあたたかな黄色にぼうっと濁り、部屋の中の控え目な灯りをじわりと吸い込んでいる。
「いただきます……」
 ふうふう冷ましながら、そうっと口をつける。ぴりりと生姜の刺激が口の中に広がって、頭の中が急速に晴れていくようだ。生姜と、ほんのり香るレモンが酔った身体に心地よい。薬湯というよりは、二日酔い防止の生姜湯だった。
 じんわりと染みわたる温もりにほっとひと息ついていると、ネロが私の正面の椅子に腰を下ろした。がたんと椅子が音を立てる。ネロは自分の前にもカップを置くと、ひと口啜って私を見た。
 呆れかえっているネロの目には、一抹の安堵も見え隠れする。
「ネロ、その……おかえりなさい。お疲れさまでした」
 恐々言うと、
「ただいま」
 ネロが短く答え、そして溜息をついた。
「ったく、あんた俺が通りかかってなかったらブラッドリーに部屋まで連れていかれてたよ。危機感が足らなさすぎねえか?」
「でもブラッドリー、私のことまったくタイプじゃないって言ってましたよ」
 だから何だ、と言われるかと思ったが、意外にもネロは、
「……まあ、それはそうだな」
 と不承不承といった様子で頷いた。
「それに、好きでもない女に手を出すようにも見えないし」
「それはどうだろう……いや、まあ多分あんたには手を出さないか……」
 どうやらブラッドリーは、その手の話に関してはネロから一定の信頼を勝ち得ているようだった。意外ではある半面、そういうものなのかもしれないと思う。ブラッドリーは札付きの悪ではあるが、彼からはそういうだらしなさみたいなものはあまり感じられない。
 しかし、だからといって危機感のない行いをしていいというものでもない。相手を信用することと、自分がしっかりしなくていいこととはまったく別だ。
「すみません……」
 項垂れた私に、ネロは一言、
「当分禁酒」
 とだけ言い渡した。素直に頷く。ネロが「よし」と表情をゆるめた。
 こくりこくりと薬湯を飲みこみながら、私はお椀の向こうのネロの表情を盗み見る。あの晩からぎくしゃくとしていた関係は、私のお酒での失敗によって図らずも、なんとなく有耶無耶になっているようだった。
 そのことを喜ぶべきなのか否か。生姜のかおりでクリアになりつつ頭で、私は改めて考えた。
 ブラッドリーが提案したような具体的な策に心が動かないのは、もしかしたら私はこれ以上状況を悪くしたくないからなのかもしれない。しかしこのまま口を噤んでしまうとして。臭いものに蓋をし続けるとして。それで一体、何になるというのだろう。放っておいてもネロに好きになってもらえるほど、私には人としての魅力も、女性としての豊かさも、何もないというのに。
 ぼんやり思案に耽っていると、ネロが頬杖をつき、ぽつりと呟いた。
「まあ、けどブラッドリーがナマエに手を出すことはないだろうからな。そこは多分、信用しても大丈夫だろ」
 ネロの言葉に、心がずくりと疼く。ネロの言葉の裏側にある、ブラッドリーを信頼するだけの根拠。そこに言及すべきか、言うか言うまいか、ほんの束の間悩み──
 けれど、聞くなら「酔った弾みで」聞ける、今しかない。シラフの状態ならば互いに絶対に触れないようにする、そこに触れる機会など、今を逃すと先にはないかもしれない。
 ごくりと唾を飲み込んで、私は意を決し尋ねた。
「それは私が、ネロのことを、好きだから?」
 尋ねる声が掠れた。心臓が身体の中を跳ねまわり、胸の痛みはどんどん強くなる。ネロの瞳が静かに私をとらえたことに気付き、私はたまらず視線をわずかに伏せた。
 頬杖をついたネロは、困った顔をしていた。
「その話、したい?」
 そのひと言に、たちまち私は居たたまれない気持ちになった。ああ、また失敗したんだ──瞬時に、そう思う。
 今ならそこに触れることが許された気がしたから、勇気を出して尋ねた。自分の気持ちの話を、このテーブルの上に載せてもいいのだと思った。しかしそれは、どうやら私の勘違いだったらしい。
 せっかくネロとの間の、ぎくしゃくした空気が有耶無耶になっていたのに。私はまた、自分でそれを台無しにしてしまった。自分の失態に落ち込んで、がくりと肩を落とす。やっぱり慣れないことなんてすべきではなかったのだ。根っから根暗な東の人間が、無理に状況の打開に乗り出したりなんてすべきではなかった。
 沈黙が重い。もはや言葉もなく落ち込む私に、ややあって、ネロが恐る恐るというように、慎重な声音で「あのさ」と切り出した。
 視線を上げる。ネロはやはり、困った顔をしている。
「あのさ、今日ナマエが飲み過ぎたのって、もしかして俺のせい?」
「え、」
「いや、そうだったらブラッドに悪いこと言ったなと思って。それにナマエにも、こう……色々と……」
 ネロの視線が左右に泳ぐ。
 そこには言い訳と建前を並べつつ、しかし本音を完全には隠しきれない人のいいネロの顔があった。
 きっと本当は触れたくない話題だろうに、ネロは今、意を決して言及しているのだ。そのことが、ネロの渋い表情からありありと窺える。
 私が慣れないことをして失敗を繰り返しているみたいに、ネロもまた、多分本意ではないことをしている。それは多分、私のために。何百年も生きてきてなお苦手なことを、今この瞬間、目のまえにいる私のためだけにしてくれている。
 そのことに思い至った瞬間、胸の中に橙色の、やわらかな灯りがぽっと灯ったような気がした。
 私はこんなにも、ネロに迷惑を掛けてばかりなのに。空回って自滅して、そのうえ酔いつぶれて瀕死になっているようなどうしようもない人間なのに。それなのに。
 ネロはやっぱり優しくて、優しすぎて、酔って涙もろくなっている私なんて、泣かないようにするだけでいっぱいいっぱいになってしまうくらいに優しくて。
 そんなネロのことが、途方もないほどに大好きだった。
 大好きで、どうしようもないのだ。私は、ネロのことが。
 今すぐにでもそう口にしたい気持ちを、しかし私はぐっと堪えた。
「……違いますよ」
 その代わり、やっとの思いで返した返事に、ネロは疑うような視線を寄越す。
「本当?」
「本当です。本当はシャイロックが弱いお酒だけ出してくれてたんですけど、間違ってルチルが飲んでた強いお酒を飲んでしまって、それで」
 そこまで説明すると、ようやくネロも納得したようだった。
「そっか」
 視線をやわらげ、ネロは頷いた。そうしてネロも生姜湯をひと口啜ると、
「いや、うん。それだけ聞ければいいや。それじゃあ次は、あんたの番」
 と私に話を促した。
「私の?」
「話したいこと、あるように見えるぜ」
 そう言われて、どきりとした。
 もちろん話したいことなら山ほどある。あんな勢いだけの告白ではなくて、ちゃんと思いを伝えたいと思うし、ネロが私の気持ちに応えられない、その理由だって知りたい。ネロが私をどんなふうに思っていて、どんなふうに私と今後つき合っていきたいと思っているのかも聞きたい。
 それだけでなく、本当は過去の話だって教えてほしかった。故郷がどこで、家族が何人いて、どんな人たちと親しくして、どんな人たちと別れ、どんなふうに生きてきたのか。私の目のまえにいるネロになる前は、どんなネロだったのか。
 テーブルの上のお椀に手を伸ばす。ぬるく冷めた生姜湯は、先程までよりも飲みやすく喉を滑る。口の中がざらつかないのが、ネロの丁寧な仕事によって作られた飲み物であることを窺わせた。
 残っていた生姜湯を飲み干して、私は言った。
「話したいことは、あります。聞いてほしいことも、たくさん。伝えきれないほど」
 知りたいことも知ってほしいことも、山ほどあって。
 目のまえの問題ひとつ片づけるのにだって、本当は多分、どれだけ時間があっても足りないほどで。
「だけど、今日はその話はやめにしませんか」
 ようやく発した私のいらえに、ネロは虚を突かれたように目を瞬かせ、それから訝し気に首を傾げた。
「なんで?」
「だって酔ってるときに、大事な話はしちゃだめだと思うから。それに今日はネロもお疲れでしょうし」
 もちろん本当はそれだけではない。けれど、そういうことにしておいた。
 今はこの、胸に灯ったほのかな灯りを、失うことなく大切に守っていたかった。
 ネロが立ち上がり、ゆっくりと私のもとまで歩み寄る。やわらかな手つきで私の頭を撫でた。ぐしゃぐしゃと粗っぽいブラッドリーの手つきとは全然違う、それは私のよく知るネロの手のひらだった。
「そうか、じゃあこの話はまたいつか」
 またいつか。果たしてそんな日が来るのだろうか。ネロはあまりにも優しくて、そんな優しさに応えるためには、私もネロに優しくあるしかない。ネロを困らせ傷つけないように、今は多分、引くしかないのだ。
 たとえそれが、私の恋心そのものを曖昧に、有耶無耶にしてしまうことだとしても。それでも、私の恋心はなくならない。自分の中で思いを見失いさえしなければ、多分それでいいはずだ。報われることがなくたって。
 鼻の奥が、またつんとする。ネロにばれないように「眠たくなってきました」と目元を擦ると、ネロはふたつのカップを片づけた。もう帰れということらしい。
 帰り際、私に向けられたネロの眼差しは、心なしかほっとしているようだった。

 ★

 昼前の眩しい日差しに目を眇めながら中庭の植物に水やりをしていると、
「おう、女!」
 輝かしい太陽に負けず劣らずの威勢のよさで、私を呼ぶ声がした。名前を呼ばれているわけではない。が、今この中庭にいるのは私だけだし、彼が「女」などと適当な呼び方をする相手は、この魔法舎には私しかいない。
「う、ブラッドリー……」
 目を眇めたまま、建物の中から出てきたブラッドリーに視線を遣る。身体の重さもさることながら、夜更かしした目には日の光が刃のように鋭く突き刺さってくる。ネロの薬湯がなければ、今頃二日酔いで立ち上がることもままならなかったに違いない。
 同じように夜更かしをしていたはずなのに、ブラッドリーはまったく昨日の酔いを引きずっていないようだった。柄の悪い、それなのに何故か嫌な感じのしない笑顔を浮かべ、彼は大股で私に近づいてくると、思い切り私の肩をたたいた。
「二日酔いはしてねえみてえだな。ネロの薬湯効くだろ」
「薬湯というか、生姜湯でしたけど」
「そうそう、それだ」
 自分は酔わないくせに、ちゃんと置いてあるんだよ、と。何故だかブラッドリーは少しだけ自慢げに言うのだった。そういうのをちょこちょこ漏らしてしまうから、旧知の仲であることが周囲にばれてしまうのだと思うのだが。
 私が自分には関係のない思案に耽っていると、もう一度強く、ブラッドリーが私の肩をたたいた。視線を上げれば、ブラッドリーは今度はあからさまににやにやと笑っていた。
「で、あの後なんかあったか?」
「……何かとは」
「だから、ネロとだよ。酔っ払いっつっても、あんな夜中に部屋に入ったらなんかあんだろ」
 とんでもないことを言い出すブラッドリーに、私はかっと顔が熱くなるのを感じる。昨日ブラッドリーが私をネロに押し付けたのには、どうやら部屋にまで入っちまえば後はこっちのもん、というような目論見があったらしい。たしかにカインをどうこうしてネロの気を引くなんて作戦よりはよほど真っ向勝負ではあるが、だからといって何てことを言い出すのだろう。
「な、何もないですよ! なんてこと言うんですか!」
 慌てて答えた途端、ブラッドリーが眉をひそめた。
「てめえこそ何言ってんだ、なんで何もねえんだよ。まさか薬湯飲んでそれで終わりなんて、そんなことねえよな?」
「その通りですよ、薬湯もらって部屋まで送ってもらっておしまいです」
「まじか……お前、脈ねえんじゃねえの?」
「ひ、ひどい……」
 雷に打たれたように、私はその場にくずおれた。
 私にとって昨晩のネロとのことは、今までの整理とこれからのことを考えるための、なくてはならない重要な機会になった。その機会をお膳立てしてくれたブラッドリーには、言葉にしなくても相当感謝していた。
 それなのに、どうしてこう、ブラッドリーは即物的な話ばかりするのだろう。脈がないのなんて、言われなくても分かっているので放っておいてほしい。
「昨日のブラッドリーの言葉にちょっと感銘を受けていた自分が莫迦らしくなってくるじゃないですか……」
「なんでだよ。俺様のありがたい話だろうが」
「ありがたい……?」
 と、そんな子供じみた遣り取りに興じていたところで。
「ナマエ──と、ブラッドリー?」
「ネロじゃねえか」
 たまたま通りかかったネロが、訝しげな顔をしながらこちらへと寄ってきた。手にはぐっしょりと濡れたエプロン。いい天気だから洗濯したものを外に干しにきたのだろう。洗濯くらい、言いつけてくれれば私かカナリアさんがついでにするのに、ネロは相変わらず人の手を煩わせることを嫌う。
 ネロは私とブラッドリーの間に割って入るような位置に立つと、もの言いたげに私たちを眺めまわした。
「何の話してんだ?」
「ネロの薬湯がよく効くって話をしていたところです」
「ふうん……」
 ネロの視線が私からブラッドリーへと移動する。あからさまに疑うようなその視線に、ブラッドリーが不機嫌そうに「なんか文句あるかよ」とぼやく。
「文句はねえけど……」
 ネロはそう言って溜息をひとつ吐くと、私の方へと向き直って言った。
「そろそろ昼飯の準備始めるから、手伝ってくれねえかな。そっち終わってからでいいけど」
「あっ、はい。もう終わるのですぐに行きます。これだけ片づけてきますね」 
 じょうろを持ち上げて見せると、私は急いで倉庫へと駆けていく。背中の向こうではブラッドリーの「お前、まじで男か?」と疑うような声が聞こえたが、それにネロが何と答えたかまでは聞こえてこなかった。

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