29

 ぐちゃぐちゃになった気持ちがこれ以上溢れてしまわないよう、私はそこで言葉を切った。
 こんな話をブラッドリーたちにして、一体何になるというのだろう。それこそ、ここにいる魔法使いたちを困らせるばかりだ。それなのに、シャイロックに導かれるまま口を開き、気付けばこんな醜態を晒している。自分の意志の弱さに気付き、ほとほと自分に嫌気が差す。
 カインもルチルも、困ったように口を閉ざしていた。それはそうだろう。彼らだって、私とそう年は変わらない。人間と魔法使いの間にある歴然とした違いにだって、年嵩の魔法使いたちほどに達観していないかもしれない。私の話はむしろ、彼らの心に翳りを落とすものだったかもしれないのだ。
 シャイロックはパイプの煙を燻らせている。
 重たい沈黙が落ちるなか、切り込むように口火を切ったのは、やはりブラッドリーだった。ブラッドリーは面倒くさそうに溜息をひとつ吐くと、「おい、女」とぞんざいな調子で私を呼び、言った。
「てめえ、さてはめちゃくちゃ頭が悪いな」
「なっ」
「東のやつらは黴でも生えそうなくらいうじうじ悩んで、臆病で弱くて、まったく嫌になるぜ。大体、そんな簡単に気持ちを捨てたりやめたりできる人間は、こんなところでうじうじ悩まねえんだよ」
 そう言って、ブラッドリーは大振りのグラスを持ち上げると、一気に中身を飲み干した。濡れた口許を手の甲で拭い、なおざりな様子で続ける。
「てめえのそれは相談でも何でもねえよ。自分で捨てられねえことが分かってるから、捨てなくていいって言ってほしくてごねてるだけだろ」
「そ、そんなことは……」
「何がネロを困らせたくねえ、だよ。殊勝な顔してんじゃねえよ。くっだらねえ」
 私の抱える悩みも葛藤も、何もかもを一蹴して。ブラッドリーは空いたグラスに手酌で酒を注いだ。返す言葉もなく、私はただ、ほとんど中身の減っていない自分のグラスをじっと見つめる。
 険悪な雰囲気になりかけていたところに口を開いたのは、私とブラッドリーの遣り取りを静観していたカインだった。
「言い方はともかく、俺もブラッドリーの意見には賛成だな」
 カインは私に底抜けに明るい笑顔を向ける。その笑顔はまるで、立場はブラッドリーに寄っていても、自分はけしておまえの敵ではないと、私にそう伝えようとしているふうに見えた。
 カインは、色の違う両の目をやわらかく細め、言葉を続けた。
「俺は昔、魔法使いであることを隠して人間として生きていた。だからってわけじゃないけど、友達でも恋人でも、親しくなる相手は人間だったことがほとんどだ。魔法使いと知って、それでも変わらずにいてくれるやつもいれば、それきり疎遠になっちまうやつもいたけど……。だけど俺が思うのは、好きになったりなられたり、結局そういうことは心でするものだってことだ」
「心で……」
 私の呆けた相槌に、カインが優しく頷いた。
「人間だから好きになる、魔法使いだから好きにならないなんてことはない。本当に相手のことを好きになってしまったら、心の問題に対して理屈をつけて続けるとかやめるとか、そういうふうに割り切ることができる者は少ないんじゃないか」
「好きでも殺す、とかはできるけどな」
「おい。混ぜ返すなよ、ブラッドリー」
「憎たらしいけれど愛おしい、というのもありますね」
「あんたのそれはまた別件じゃないか……?」
 ブラッドリーとシャイロックの茶々にも、カインは楽しげに答える。明るくてまっすぐで、見栄や虚勢、衒いのない言葉は、口にする者がカインでなければ、ともすれば綺麗ごとで片づけられてしまいそうな台詞だ。それなのにカインの言葉というだけで、不思議と私の心にすっと染み込み馴染んだ。
 カインの言葉を引き継ぐように、ルチルも口を開く。
「魔法使いは、心で魔法を使うもの。だから私たちは、できるだけ己の心に素直に、自然でありたいと思うんです」
 たとえばそれは、ブラッドリーのように、己の心の欲するまま、自由に生きることでもあり。カインのように、心を偽ることなく常に公明正大に、誇り高く生きることでもあり。ルチルのように、自由に人を慈しみ、共に生きようとすることでもあるのだろう。
 私はどうだろう。心のままに、素直に振る舞っているだろうか。
 あるいは、ネロは。
「私とミチルの母様は、人間の父様と恋に落ち、結婚しました。どうしてふたりがそんな道を選んだのか、それは私には分かりません。母様は永く生きた魔女でしたから、出会いも別れもたくさん経験しているはずなのに……」
 その話は、以前にミチルから少しだけ聞いたことがあった。話の流れで聞いただけだから、踏み込んだところまでは私は知らない。ただ、ミチルとルチルの母親が人間の男性と恋に落ち、家族を持ったこと。そしてまた、幼い子供と最愛の夫を残してこの世を去ったことだけ聞いていた。
 人間と魔女が家族をつくるのに、何の葛藤も抵抗もなかったはずはない。それを些事だと切り捨てられるほど、きっと人間は強くない。魔女や魔法使いだって、それは多分同じこと。
「でも、父様と一緒にいるときの母様は幸せそうで、母様と一緒にいる父様も幸せそうでした。自分が生まれる前のことは分からないけれど、でもきっと、母様にとっての父様は、特別な相手だったんだと思います。人間とか、魔女とか、その間にある絶対的な差異を思ってもなお、代わりがきかなくて、離れがたいと思うくらい」
 ルチルが私の顔を覗き込む。ルチルの目からは私を諭してやろうだとか、導いてやろうだとか、そういう気負いのようなものはまるで感じられなかった。
「カインさんの言うとおり、恋をしてしまったら、それはもう仕方がないことなんじゃないですか? いつか訪れる別離の苦しみも、今目のまえの愛情にはきっとかなわないくらいに、仕方がなくて、幸福なこと。ナマエさんにとってのネロへの気持ちは、どうですか?」
 問いかけたルチルの視線を、私はまっすぐ受ける。
 ブラッドリーは正しかった。
 私の中ではもうとっくに、答えなんか決まっていた。うじうじと悩んで、相談するふりをして。けれど本当は、誰かに正しいと言ってほしいだけだった。
「ネロを困らせたくないって気持ちは、本当です」
 ぽつりと零した私の声が、しんと静かなバーの中で、響くこともなく落ちて消える。誰も何も言わない。きっとみんな、私が口にする言葉など予想がついているのだろう。
「だけど──」
 私が今まさに口にしようとしている言葉は、それこそ当たり前で、つまらなくて、面白みの欠けらも無い言葉だ。それでも、その言葉を口にしようとすると、私のこの胸は、どうしようもなく苦しくなる。
 その言葉を口にすることは、本来私にとってひどく勇気がいることだ。
「こんなにも、ネロのことを好きで好きで、大好きで仕方がない気持ちも、本当なんです」
 捨てることも、諦めることもできなくなってしまったくらいに。
 希望も未来も、何ひとつ期待できないと知っているはずなのに。
 それでも。
「すみません、ちょっとお手洗いに行ってきます」
 こみ上げてくる大きな感情の波をどうにか押し込め、私は急いで席を立つ。これ以上は耐えられそうにない。このままあの場にとどまっていれば、きっと泣いてしまうから。
 俯き足早にバーを出ていく私を、引き留めるものはいなかった。

 ★

 それから大体、一時間ほど後のこと。
 頭が鐘楼にでもなったようにガンガンと内側から響く頭痛に、私はひとり、うめきながら頭を抱えていた。
「うう……」
「おい女、大丈夫かよ?」
 苦悶というしかない状態で呻いている私の顔を、ブラッドリーが半ば引いたような顔で覗き込んでいる。
 おかしい。シャイロックは私がお酒に弱いことを知っているから、ほとんどジュースと変わらないようなやさしいカクテルを出してくれていたはずなのに。つい一時間前までは健気な感じで恋愛の話をしていたはずなのに。
 一体どうしてこんなことになってしまったのだろう。
 右手でこめかみを、左手で口許を覆い、私は背中を丸める。吐いてしまうことはないだろうが、さすがに万が一ということもあり得る。まさかこんなおしゃれなバーで嘔吐などした日には、人間としての最低限の矜持すら終わる気がする。
 魔法使いと人間がどうこうとかいう話じゃない。
 魔法使いだろうが人間だろうが、酒癖が悪い者が最悪なのは共通の理だ。
「だいじょ……うっ、」
「吐くか!?」
「だ、大丈夫です……」
 隣に座っていたカインが、私の丸まった背中をゆっくりとさすってくれた。大きな掌が肩甲骨から腰におりていく度、せり上がってくる吐き気が一旦リセットされるようだ。
 こんな状況でなければ、照れと恥ずかしさによるときめきで瀕死のはずが、こんな状況なのでときめきも何もない。というより、すでに吐き気によって瀕死になっている。これ以上死に瀕する余裕はない。
 私の顔色を窺いつつ、
「驚いたな、まさかここまで弱いとは」
 カインは感心したように言った。魔法使いは皆酒に強いと聞く。人間の中で暮らしていたカインだが、彼はもともと騎士団に所属していた人間だ。勝手なイメージで、そういうところにいる人間は酒にもそこそこに強いのだろうという気がする。
「ブラッドリーさん、飲ませ過ぎたんじゃないですか……?」
「まさかここまで弱いと思わねえだろ。せいぜい二杯とかしか飲んでねえはずだぞ」
 グラス片手に言うルチルにブラッドリーが反論した。ルチルもブラッドリーもかなりのハイペースで飲んでいるはずだが、彼らの顔色は飲み始めたときからまったく変わらない。
「大体、こいつの酒はそこの西の兄ちゃんが出したジュースみたいなもんだろ。こんなもんいくら飲んだところで酔わねえよ」
 ブラッドリーが不満げに言ったところで、ルチルが「あれっ」と声を上げた。
「ナマエさんが飲んでたこれ、私たちが飲んでたお酒じゃないですか?」
「うわ、本当だ。どこかでグラスを取り違えたみたいだな」
 ルチルとカインの会話に、ああ、と私は呻きともつかない声を漏らす。一度お手洗いに立ったから、恐らくその時にグラスを取り違えてしまったのだろう。シャイロックの出してくれるカクテルを飲んでいた私と違い、三人は飲み比べのためにかなりきついお酒を飲んでいた。それを誤って口にしてしまったらしい。
 相当の酒豪であるルチルたちが飲み比べをするためのお酒なのだから、そのきつさは想像を絶するはずだ。私がちょろっと口をつけただけで酔いつぶれてしまってもおかしくはない。気付かなかったのは、恋愛相談の後で私の気が抜けていたからだ。
 そんなことを頭の片隅で冷静に考えつつも、身体は現在進行形で瀕死の状態になっているわけで。いよいよ視界がぐらぐらとしてきた私の身体が、不意にぐいっと持ち上げられた。
「チッ、しゃあねえな」
 耳元のすぐそばでブラッドリーの声がする。自分の腕がブラッドリーの肩に回されていることに気が付いたのは、足が萎えたままで無理やり立たされてからだ。長身のブラッドリーに肩を借りると、さながら操り人形が吊られているような状態だった。
「おい、騎士さんよ、俺はこいつをちょっくら部屋にぶん投げてくる」
「手荒なことはするなよ。俺が行こうか?」
「てめえはそこでせいぜい南の兄ちゃんを潰すために酌でもしてろ」
「私はまだまだいけますけど、ナマエさん、気を付けてくださいね」
「は、はい……」
 この吊られた状態で、何をどう気を付ければいいというのだろう。しかし抵抗しようにも、今ブラッドリーに放り出されたら間違いなくその場にくずおれる。部屋に戻るにはブラッドリーの手を借りるしかなく、私にできることはといえば、せいぜい足がもつれないよう、そして吐いてしまわないよう、ルチルの言うとおり気を付けることだけなのだった。
 せめてもう少し酔いが醒めるまで待ってほしい、と言って聞いてもらえるほど、ブラッドリーは親切ではない。すでに私を部屋に運ぼうと買って出てくれた時点で、彼に期待できる親切は頭打ちだ。
 ブラッドリーが、バーの扉を足で蹴り開ける。そんな私たちの背中をシャイロックの声が追いかけてきた。
「女性なんですから、抱きかかえて差し上げればいいのに」
「自分の女でもない女をか? ハッ、冗談だろ」
 鼻で笑ったブラッドリーに、内心でそれもそうだな、と納得した。

 ★

 吊られ、引き摺られるようにして、私はブラッドリーとともに魔法舎の中を練り歩く。幸いこの醜態をほかの魔法使いたちに見られることもなく、順調に部屋への道のりを進んでいた。さすがにブラッドリーも多少は腰を屈めてくれているので、半分くらいは自力で歩いている。といってもそれは足をどうにか前に出すことができている、くらいの意味合いしか持たず、まったくどうしようもない状態であることに変わりない。
 一歩歩くごとに、胃の中身が揺れる。それと同時に泥のような眠気が襲い掛かってきていて、正直意識を保っているのがやっとだ。
「ううっ、おえっ」
 嘔吐することはなくても、吐き気はある。こみ上げてくる吐き気をどうにかやり過ごそうと試みていると、ブラッドリーが露骨に嫌そうな顔をした。それでも私のことを放り出しはしないあたり、ブラッドリーも相当に面倒見がいい。そういうところは、少しネロと似ている。
「お前、まじで絶対に吐くなよ。吐くなら吐くって先に言え」
「うう、それ、前にネロにも言われました」
 口許を押さえながらそう答えると、ブラッドリーが一瞬、きょとんとした顔をした。
「ネロに? まああいつも酔いつぶれることそうそうねえし、面倒見る側だったからな」
 昔に思いを馳せるかのように、ブラッドリーが呟いた。
 ふたりが出会ったのは魔法舎に来てから──のはずなのだが、時折彼らは旧知の仲のような言葉をうっかり漏らす。それは魔法使いたちを遠巻きに見ている私ですら、何となく過去の接点を感じ取れてしまうほど、穴だらけの嘘や誤魔化しだ。
 ネロが触れてほしくなさそうだから触れないことにしているが、ネロを好きで、彼のことを知りたいと思っている私にしてみれば、まったく気にならないはずがない。
 私の知らない、踏み込めない過去を知っているかもしれない、ブラッドリー。
「……少しだけ、私、ブラッドリーが羨ましいです」
 気が付けば、思考がそのまま口からこぼれていた。
「あ?」
 ブラッドリーが訝し気に問い返す。酔った頭では何を言ったところで碌なことにはならない、そのことはよく分かっている。それなのに、言葉にせずにはどうにもならないほどに、私の思考は煮詰まり、行き詰まっている。
 やめておけばいいのにと、頭で思いながら、しかし言葉は口をついて飛び出してくる。
「だってブラッドリーはネロのこと、いっぱい知ってるし……それに、魔法使いだから、ネロと一緒にいられるじゃないですか……」
 こみ上げてくる気持ち悪さを飲み込み、つっかえながら吐き出した言葉は、我ながら随分子供じみていた。ブラッドリーも呆れたことだろう。てっきり「ネロとは大した知り合いじゃねえ」だとか、そういういつもの返事が返ってくると思っていた。
 しかしブラッドリーから返ってきたのは、
「てめえ魔法使いになりたいのかよ?」
 という、そもそもすぎる言葉だった。
「そういうわけじゃないですけど……」
 もごもごと、言い訳するように返事をした。
 とはいえブラッドリーがそこを疑問に思うのも、当然といえば当然だった。この現代では、限られた地域を除けば、魔法使いであるよりも人間である方がよほど生きていくのが簡単だ。どれだけ魔法使いが長命で、不思議の力を思いのままに操ることができるといったって、人間が圧倒的な多数派の社会の中でわざわざ魔法使いになりたがる者は稀だろう。なりたいと思ってなれるものでもない。
 実際、私だって魔法使いになりたいわけではなかった。逆に、ネロに人間になってほしいとも思わない。ただ、人間と魔法使いというけして取り払うことのできない垣根は、そこに間違いなく存在している。垣根を取り払う労力は恐らく途方もなく甚大で、だからこそ、私はこうして益体のない考えについつい逃げ込んでしまう。
 私が魔法使いだったなら。
 ネロが人間だったなら。
 そんなこと、考えたところで無意味だということは分かっているというのに。
 己の浅はかな思考を悟られるのが恥ずかしくて、私は誤魔化すように言葉を付け足す。
「でも別に、ブラッドリーだけが羨ましいってわけではないですし……賢者様のことも羨ましく思、うえっ」
「もういいよ、黙ってろ。こっちがハラハラする」
 と、会話もそこそこにブラッドリーに溜息をつかれてしまったところで。
「ブラッド!? それにナマエ!?」
 思いがけず、よく知った声が私とブラッドリーを呼んだ。その声に、私はぼんやりさせていた視線を上げ、前方で焦点を結びなおす。そこには今まさに任務から帰ってきたばかりなのか、黒い訓練服姿のネロが目を見開いて立っていた。
 おかえりなさい、と言おうとしたところで、不意に喉に違和感がせりあがってくる。慌てて口をおさえると、同時にブラッドリーが私を下ろした。
「おう、ネロ。いいところに帰ってきやがった。こいつ、頼んだぞ」
 そう言うなり、ブラッドリーは私の背を軽く押す。酔っぱらって足に力が入らない私には、その程度の力でも身体をよろめかせるには十分だった。
「うわっ!?」
 押されるままにふらついたところを、
「おっと」
 ネロが慌てて腕を伸ばして支えてくれる。縋るようにネロの腕につかまると、訓練服のしっかりとした生地からは夜の森のにおいがかすかに香った。
 ネロもまた、鼻をひくつかせると、眉間に皺を寄せた。
「──酒?」
「う、は、はい……」
 それきり何も言わないネロに、恥ずかしくなって死にたくなる。お酒の失敗は、ここに来てすでに二度目だ。今回は自らの意思でどんどん飲んだわけではないとはいえ、そんな事情をネロが知るはずもない。
 いや、本当にどうしようもない人間でしかない。穴があったら入りたい。
 が、今はそんな反省をしている場合ではなかった。いきなり私を押し付けられたネロは、状況も理解できないまま困惑しきりで私とブラッドリーを交互に見た。
 ネロの瞳が、完全に戸惑っている。どうすればいいのか、決めあぐねているみたいな表情。
 ネロはひとまず、どう見てもグロッキーな私ではなく、ブラッドリーの方を責め立てることに決めたようだった。
「おい、頼んだって何だよ。つーかどういう状況だ、これ?」
「西の兄ちゃんのバーで南の兄ちゃんと中央の騎士さんと飲み比べしてたから、こいつも混ぜてやったんだよ」
「は!? てめえ莫迦だろ!」
 呆れているのか、怒っているのか。ネロの声は苛立っているようにも聞こえる。私は身をすくめるが、ブラッドリーは平気な顔をして聞き流している。
「まさかこんなに弱いと思わねえだろ」
「そもそもナマエが魔法使いと同じように飲めるわけねえだろうが!」
「チッ、うっせーな。色々手違いがあったんだよ」
 ネロに叱られ、ブラッドリーは面倒くさそうに舌打ちをした。グラスを取り違えたのは完全に私の不注意なので、ブラッドリーばかりが責められる問題でもない。しかし今の私にはその説明をするだけの気力もなく、ふたりの会話を聞きながらただひたすらに胸の中でブラッドリーに謝罪をするしかなかった。
 そうしていると、今度はネロが私の顔を覗き込む。ぎゅっと胸が痛んだ。ここのところすっかりぎくしゃくしていたから、ネロの顔を間近で見るのも久し振りだった。
「おい、ナマエ。大丈夫か? うわ、顔まっ白だぞ……」
「大丈夫です……」
 何とか返事だけはした。足はまだ萎えているが、それでも先程よりは随分気分がましになっている。お酒を飲んで少し時間が経ったからかもしれない。
 ネロは、頷く私に少しだけ表情をゆるめた。その面差しに、心の中のしこりのようなものがぽんと外れた気がした。途端に、どっと安堵と眠気が押し寄せる。だんだんと意識の輪郭が曖昧になっていく。瞼が重くて、全身がだるい。ここ数日の睡眠不足が、一気に襲ってきたようだ。
「とりあえず部屋まで歩けるか?」
 ネロの問いに、どうにか気力をふり絞って頷く。
「それより、てめえの部屋にすげえ効く酔い止めあっただろ。あれ飲ませてやれよ」
「ったく……ブラッドおまえまじで覚えとけよ」
「ここまで運んでやったのに文句言われる筋合いねえよ」
 ネロとブラッドリーの会話がだんだんと遠ざかっていき、私は心地よい安堵のなか、微睡みの中に落ちていった。

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