28

 その日の夜、夕食の片づけと夜の掃除を終えた私は、一度自室に戻って服を着替えてから、のろのろとした足取りでシャイロックのバーへと向かった。
 バーの重厚な扉は、そこだけ魔法舎の中でもまったく別の材質を用いてつくられている。普段、私が自分の手でこの扉を開くことはほとんどない。緊張しながらその扉を開ければ、ゆったりとした音楽とともに、瀟洒な室内装飾が目に飛び込んできた。
 シャイロックが自身の店を一時的に閉め、代わりに取り仕切っているこのバーは、内装もシャイロックの趣味に合うようにかなり変更されているらしい。雨の街にあったネロの店も雰囲気がよかったが、ここはまた別の方向に趣味がいい。それでも私には少し、大人っぽすぎる気がする。
 バーに入ると、ブラッドリー以外にも先客がいた。カウンターの中から笑顔を向けているシャイロックはもちろん、テーブル席にはブラッドリーのほかにカインとルチルが、それぞれグラスを持ってくつろいでいる様子だった。何とも珍しい組み合わせだ。
「こんばんは、ナマエ」
「こ、こんばんは、シャイロック」
 シャイロックがカウンターの中から猫のような瞳をこちらに向ける。此処に仕事以外でやってくるのは、まだ魔法舎に来たばかりの頃、西の魔法使いたちに誘われたとき以来だった。
「貴女がここに顔を出すのは珍しいですね」
「今日はちょっと、お招きを受けまして」
「そうでしたか」
 どなたから、と聞かないのは相手がブラッドリーであることを察しているからだろうか。それとも、そういうことは聞かないことにしているのだろうか。優し気に向けられているシャイロックの視線だが、見返すと計り知れない何かと見つめ合っている気分になり、妙にどきどきしてしまう。
 ネロの優しさは、気付くと甘えてしまうような居心地の良い優しさ。けれどシャイロックのそれは、優しさの奥底にほんの細い一筋の劇薬が見え隠れしている。私のような人間には、シャイロックの優しさが少し怖い。
 シャイロックと言葉を交わしていると、私が入ってきたことに気付いたブラッドリーが、
「よう、来たな!」
 と私に向かって手招きをした。その大声に、カインとルチルもこちらを向き、意外そうに目をぱちくりとさせる。
「あれっ、ナマエじゃないか。珍しいな、こんなところで会うなんて」
「こんばんは、カイン。それにルチルも」
「ナマエさんもお酒を飲みにいらしたんですか?」
 ルチルの問いに私が答えるより先に、
「俺が呼んだ」
 ブラッドリーが答えた。
「ブラッドリーが?」
 カインとルチルが揃ってブラッドリーを見つめた。彼らからしてみれば、私とブラッドリーの間には接点などまったくないように見えるのだろう。実際、そんなものは露ほどもない。ただ何となく成り行きで関わりあいを持ってしまい、そのまま流れで声を掛けられているだけだった。
 ただ、その成り行きで関わり合いを持つことになった相手との付き合い方は、東の国とよその国とではまったく別ものだ。東の国では少し関わったくらいでは必要以上に話しかけないものだが、ここではそういう理屈で生きている者は少数派らしい。ブラッドリーはもちろん、ルチルもカインも多数派に属している。
「こいつにはひとつ、うまい酒を奢らなきゃならなくてな。しかもうるせえやつがいない日に」
「どういう意味だ……?」
 答えを求めるように、カインが戸惑いの視線をこちらに向けたが、
「私にもよく分からないんですよ」
 と言うほかなかった。分からないものは分からないのだから説明のしようがない。
「でも、嬉しいです」
 今度はルチルが、穏やかな笑顔を私に向ける。
「あまりナマエさんとお酒を飲む機会もないですし。それに、お酒はみんなで飲んだ方がおいしいですよね」
「それもそうだな。ナマエ、ここ座るか?」
 二人掛けのカウチの中央に腰かけていたカインが、わざわざ腰を浮かせて私の場所を開けてくれた。しかし、夕方ブラッドリーに言われた言葉のせいか、罪悪感でカインの顔を直視することができない。ブラッドリーがにやにやと笑っているのを黙殺し、私はできるだけカウチの端に身を寄せるようにして着席した。
「あの、ありがとうございます。ところで、これはどういう集まりで……?」
「ルチルがかなり行けるクチだっていうから、今夜は飲み比べなんだ」
「本当はそういう飲み方はこのバーの雰囲気に反するのですが、ブラッドリーの持ち込みの酒ですから。今夜はほかにお客もいないようですしね」
 シャイロックがカウンターの向こうから溜息交じりに言葉を挟む。今夜はどうやらブラッドリーたち以外に客はいないようだった。もしかしたら彼らが騒ぐことを知っていて、ほかの魔法使いたちは遠慮したのかもしれない。
「貴女も何か飲まれますか?」
 そわそわと辺りを見回す私に、シャイロックがにこやかに声を掛けてくれる。
「飲め飲め。俺様の奢りだ」
「ありがとうございます。それではあの、お言葉に甘えまして……。あ、でも私お酒は弱いのでほんの少しだけ」
「それでは、飲みやすくて軽いカクテルにしておきましょう。夜咲花の可憐なかおりと、華やかな群れバラ、どちらがお好みですか?」
「ええと……じゃあ夜咲花で」
「素敵。今日は美味しいお酒を飲みましょうね!」
 ルチルの愉しそうな声が乾杯の音頭となった。

 ★

 ブラッドリーが手ずからグラスに酒を注ぎ、私のカクテルをシャイロックが出してくれたところで、世間話もそこそこにカインが切り出した。
「そういえば、ナマエとネロはどうなってるんだ?」
「う、え!? な、なんですかカインいきなり」
「いきなりでもないだろ。ブラッドリーに連れてこられたのだって、それ絡みのことじゃないのか?」
 きょとんとするカインに、にやりと笑うブラッドリー。
「ご名答。さすがに鋭いな、騎士さんは」
「ナマエとネロのことは幼いリケやミチル以外は大抵みんな勘づいていますからね」
 私は動揺のためにお酒をこぼしてしまわないよう、飲み始めて間もないグラスを早速テーブルに戻した。そわそわと落ち着かない手でスカートの布地を握り、俯きながらどうにか言葉を絞り出す。
「あ、あんまり……こういうことを男の人に話すのは……それに、ネロにも迷惑がかかりますし……」
「ここでのことは、ここ限りにしておきますよ」
「そうだな。飲んで話して、それで忘れることにしよう」
 てっきり助け船を出してくれると思っていたふたりは、存外この話題に乗り気らしい。早速期待を裏切られ、私は意気消沈した。たしかにルチルもカインも私と年がそう変わらないから、その手の話を愉しく話せる若さではあるのだろうが──
 肩を落とす私に、ブラッドリーが言う。
「うじうじしてんじゃねえ、面倒くせえな。これだから根暗な東のやつらは面倒くせえ」
「ブラッドリーさん、そういう言い方はちょっと」
「事実だろうが」
 そう言うと、ブラッドリーは長い足をテーブルの上に上げようとし──しかし、カウンターの中からにこやか且つ剣呑な視線を送るシャイロックに気付き、舌打ちとともに足を組みなおした。そして、
「騎士さんよ、俺はおまえがちょちょっとこの女とひっついて、それをネロのやつに見せつけてやればいいって、そう言ったんだ」
 一度は却下した話を、ふたたび蒸し返す。
 思いがけず名前を挙げられたカインは、戸惑いを隠さず首を傾げた。
「俺がナマエと? またどうして」
「そりゃお前、お前が年齢的に釣り合いの取れる、一番の色男だからな。ネロをその気にさせるにはうってつけだろ」
 その返答にカインが顔を顰めた。そりゃあそうだろう。ブラッドリーのやり方は、中央の魔法使いであるカインのやり方とも違うはずだ。カインならばもっと、小手先の策を弄したりせずまっすぐに相手に向かっていきそうだ。それはそれで、私にはできないことだが。
「駆け引きですか。愉しそうではありますね」
「西の兄ちゃんは話が分かるな」
「でも、やっぱり駄目ですよ……」
 年長者ふたりが乗り気な様子を見て、私は溜息をついた。
「そら。当の本人がこう言いやがる」
 ブラッドリーが面白くなさそうに鼻を鳴らすので、私はなんだか申し訳なくなってしまい、一度はテーブルに置いたグラスを再び手に取り口を付けた。やさしい甘さの後にわずかに残る苦味は言えず今の気分にぴったりだ。
 ブラッドリーに何と言われたところで、私はネロを相手にそうした策を弄するつもりはなかった。というより、それこそネロから見た私など、赤ん坊とまでは言わずとも子供のようなものだろう。そんな子供の駆け引きでどうこうできるほど、ネロは浅慮な人ではないはずだ。
 それに、思うのだ。
 そうまでして、私の気持ちを保ちつづけるべきものなのだろうか。
 ネロを困らせてまで、それでも押し通し続けるほど、私の気持ちは意味のあるものなのだろうか。
「ナマエさんは、恋の駆け引きがあまり得意ではなさそう」
「んなもんやりゃあできる。こいつだって一応は女だろ」
「そう乱暴なことを言うなよ、ブラッドリー。それに、話は分かるが俺も賛成はできないな。ネロはそういうの、あまり好きじゃなさそうだ」
「というより、カインさんとナマエさんが親しくしていたら、ネロさんはそのままフェードアウトしていきそうですね」
「それは、……あるな」
 私を蚊帳の外にやいやいと盛り上がる三人の会話を、私は黙って聞いていた。聞こえてくる会話は、私とネロについての話し合いであるはずなのに、なんだかまるで全然知らない人たちの話のように、私を素通りして消えていく。
 思えば、私はこれまでほとんど成り行き任せで、ネロとの関係を築いてきただけだった。いつでも自分で行動を選択していた気でいたが、何もかも、全部お膳立てされたものの中から選んできただけだ。
 こんなふうに自分で何かを考え行動を起こすことは、私にとっては不得手で、苦手なことだった。そのうえ、動けば動くだけネロを困らせることは分かっている。それなのに、私は何をしようというのだろう。
 グラスを握った手が冷たく思える。自分の考えに自信が持てなくて、途方に暮れてしまいそうになったちょうどそのとき、シャイロックが会話の間隙を縫うように「ナマエは」と言葉を差し込んだ。
「ナマエはどう思うのですか? 自分自身の気持ちのことでしょう」
 その言葉に、カインとルチル、ブラッドリーが一斉に私を見る。四人の男性の視線をいっぺんに注がれながら、私は顔の筋肉がひくりと引き攣るのを感じた。
 どこを見ていいものか分からずに、顔を俯け視線を下げる。
「……別に、ネロのことを困らせたかったわけじゃないんです」
 まるで言い訳でもするように、情けない声でそう吐き出した。
「そりゃあ好きだと思って、ネロが優しくしてくれて、その先があったらいいのにって、そう思う気持ちはあったけど……。だけど、だからって、ネロを困らせたかったわけではないんです」
 あの晩のことを思い出すたび、胸がぎゅっと痛くなる。困り果て、ぼそぼそと言葉を紡ぐネロの姿。静かな夜の魔法舎の中で、ネロは何処にも逃げ場がないことを嘆いているようにも見えた。私の気持ちに応えられないと言ったのだって、仕方なしに言ったことだ。そうでなければネロはきっと、私への気持ちがないことすら、ずっと黙ったままだったに違いない。
 私のことは好きじゃない。だけど、好きじゃないなんて言えば私は傷つくだろう。だから優しいネロは、何も言わないことを選んでいた。そのままで、いつか私の恋心が消えてなくなるのを待っていた。それは紛れもなく、ネロなりの優しさだ。
 そのネロに、応えられないなんて言わせたのは、ほかでもない私だ。このままではいけないと焦って、後先考えずに気持ちを伝えたのは私。ネロの優しさに気付きもしないで、勝手に自滅したのは私だった。
「これ以上ネロのこと、困らせたくないんです。だけど、好きでいたら多分、また困らせてしまうから……だから、そのために、私はネロのことを好きでいることをやめた方がいいんでしょうか……」
 ネロを困らせてまで、私の気持ちを保ちつづけるべきなのだろうか。
 ネロを困らせてまで、それでも押し通し続けるほど、私の気持ちは意味のあるものなのだろうか。
 その問いが、あの晩からずっと、私の頭の中を昼も夜もなくぐるぐると巡り続けている。
 これ以上、ネロのことを困らせないために。
 これ以上、自分が傷つかないために。

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