27

 ネロとの間が微妙にぎくしゃくし始めて、数日。しかし今のところ、誰からもネロとのことを心配されてはいない。
 私もネロも“臭いものには蓋をする”東の国の出身だけあって、こういうことには慣れている。こういうこと、というのはつまり、見て見ぬふりを上手くすること。表面上は何の問題もないように、うまく取り繕うということだ。
 しかし、やはり当事者である私とネロの間には、如何とも表現しがたい違和感が残っていた。
 原因は明白。あの晩のことが尾を引いている。
 私がネロを好きだと伝え、ネロが応えられないと答えたあの晩。見た目には完結したようにも見える遣り取りは、実際には不完全燃焼なままで中断されてしまったも同然だった。そのことに私もネロも気付いている。気付いているから、気まずいのだ。
 もう一度あの夜の話を蒸し返すべきなのかもしれない。そうしなければ、このぎくしゃくした関係は改善しないのかもしれない。それなのに、触れてしまえばもう二度と後戻りはできないような気がして、結局触れられずにいる。

 ある日の夕方、中庭の掃き掃除を終えた私は、穂先を地面に向け立てた箒の柄に顎をのせて、ぼんやり欠伸を連発していた。
 ここ数日、眠りが浅い。仕事に支障をきたすほどではないが、そのせいで気付くといつもうつらうつらしてしまっている。おまけに賢者様と東の魔法使いたちは、今朝から皆で東の国のシャーウッドの森に任務のために出掛けているため、今日は日々の楽しみであるネロの料理もないのだ。いまいち気持ちが締まらないのも仕方ない。
 ネロの作ってくれた料理を食べられないのは寂しいが、考えようによってはネロと顔を合わせずに済むので気楽でもある。今は顔を合わせても、互いに気まずい思いをするだけだ。
 私もネロも、自分の気持ちを相手に過不足なく伝えるということがあまり上手くない。問題解決のために話し合おうというよりはむしろ、ほとぼりが醒めるまで距離を取ってしまうことの方が多い。そうした方が楽だし、かども立たない。
 しかし、今回ばかりはそれではいけないのかもしれないと思う。そしてそのように思うのは、東の国の人間である私にとってはひどいストレスだった。
 急激な変化や自ら動いて状況を動かすことは、東の人間の不得手とするところ。さらに言えば、やはり東の出身であるネロだって、私と同じようにこの状況にストレスを感じているかもしれない。そのことを思うと、なお一層気分が沈む。
「はあ……」
 何度目か分からない溜息が、またしても勝手に口から漏れ出したところで。
「よぉ、時化たツラしてんな!」
「ひっ!?」
 出し抜けに背後から肩を組まれ、私は短く悲鳴を上げた。慌てた拍子に顎を載せていた箒がぐらりと揺れ、咄嗟に体勢を立て直そうとしたせいで箒の柄で顎をしたたかに打つ。今度は声にならない悲鳴が出た。
「おい、何してんだよ。ったく鈍くせぇ人間だな」
 柄の悪い声の主は、言うまでもなくブラッドリーだった。痛む顎を押さえ、私は上目遣いに彼を睨んだ。
「ぶ、ブラッドリーこそいきなり何なんですか……」
 先日、ネロと私との間に爆弾を落として以来、ブラッドリーが私に声を掛けてくるのは今日がはじめてだ。何度か食堂や談話室でもの言いたげな視線をこちらに寄越していたことはあったが、大抵視線を寄越すだけで、話しかけてはこなかった。私の方も、積極的にブラッドリーには話しかける理由がなく、なんとなく気付かないふりをしてやり過ごしていたのだが。
 私の問いに、ブラッドリーが鼻を鳴らす。
「俺はてめえがぼんやりしてるのを見かけて、冷やかしに声をかけてやったんだろうが」
「冷やかしをそんなに恩着せがましく言えるの、すごいですね……」
 潔いまでの太々しさに、一周回って感心してしまった。ブラッドリーの凄いところは、この太々しい性格でありながらもそれなりに人望があるところだ。ミチルやリケから嫌がられながらもそれなりに交流をしているところなどは、久々に会う悪い親戚のおじさんといった雰囲気がある。
 実際、私もブラッドリーから迷惑をこうむったとはいえ、彼に対して悪感情が沸き起こるわけでもない。結局のところ、人の懐に入るのがうまい彼は、何度怒らせても何度でも許されているのだろう。ほかの北の魔法使いとはなんとなく雰囲気が違う。
 ともあれ。
「で、何をそんな不景気な顔してんだ? ネロとのことか?」
「まあ、はい……」
「だろうな」
 正直に頷けば、ブラッドリーは自身満々に笑った。その笑顔に、私はむっと眉根を寄せる。元はと言えば、ブラッドリーがこの事態の引き金を引いたようなものなのに。
 が、ブラッドリーは私のじっとりした視線を一顧だにせず、
「そういや女。お前年はいくつだ? 成人はしてんだよな?」
 と脈絡のない会話を続けた。渋々、私は頷く。
「二十歳は過ぎてますけど」
「ハン、それでも二十そこそこか。まじで赤ん坊みたいなもんだな」
「赤ん坊って……」
 そりゃあ何百年も生きてる魔法使いからすれば、たしかに私など赤ん坊のようなものなのだろう。しかし私にとっての二十数年というのは、多分人生の三分の一から四分の一くらいを占めるほどの長さになるわけで。それを「赤子も同然」とされてしまうと、正直どうしていいか分からなくなる。
 もしかして、ネロにもそんなふうに思われているのだろうか。途端に寄る辺のない気持ちで胸の中がいっぱいになるのを感じた。ネロ本人に聞けばいいことではあるのだが、その勇気も私にはない。
 胸に翳りを感じつつ、ブラッドリーを見遣る。ようやく私の肩から腕を退けたブラッドリーは、私の視線に気づくと何故だか不敵ににやりと笑った。
「今考えてること当ててやるよ。ネロにも赤ん坊同然と思われてたらどうしよう、だろ?」
「うっ」
 正解だった。ブラッドリーが鋭いのか、私が分かりやすいのか。多分両方だ。
「全部顔に出てるぜ、おまえ。二十そこそこでも、男を誑かすすべを身に着けてる女は当然山ほどいるんだろうが……お前に関しては、そのへんまじで縁がなさそうだな」
「よ、余計なお世話ですよ……。ネロに言いつけますよ」
「それはやめろよ、まじで怒られるだろうが」
 チッと大きな舌打ちをして。
 私の前に回り込んだブラッドリーは、腰を屈めて私と視線の高さを合わせてから、不躾に私の顔を覗き込んだ。長い足に、均整の取れた身体。ネロと比べるとがっしりとした胸の厚さは、至近距離で見ると尋常じゃなく男らしい。思わず目のやり場に困って、私は顔を俯けた。
 その顔を、ブラッドリーが下から鷲掴みにして、無理やり前を向かせる。
 こちらに向けられた燃えるような赤い瞳に、思わずごくりと喉が鳴った。
「いいか? てめえがネロをどう思ってるかは知らねえが、少なくとも付き合いが長い分、俺の方がお前よりもネロのことをよく知ってる。その俺が断言するが、ネロも男だ」
「そんなこと、分かってますよ……」
 顎を掴まれたままなので、強く反論することもできない。弱腰になった私に、ブラッドリーは満足そうに笑みを深めた。
「いや、お前は分かってねえ。いいか? ネロが男であるってことは、つまり男と女の駆け引きでやつをその気にさせることができるってことだ」
 自信たっぷりに言い切ったブラッドリーは、私の返事を待つように言葉を切った。私はといえば、今ブラッドリーが口にした言葉の意味を、思考をこねくり回しながら必死で考える。
 男と女の駆け引き。その気にさせる。
 そこに出てくる「男」と「女」というのはつまり、ネロと私のことなのだろう。ネロと私の駆け引き。私がネロをその気にさせる。そのための策を、ブラッドリーは恐らく持っている。
 ということは──
「……もしかして、ブラッドリーは私の恋愛を応援してくれているんですか?」
「悪いかよ。つーかそれ以外にこの会話に何の意味があんだよ?」
 当たり前だろうと言わんばかりのブラッドリー。どうしてこう、常に彼は自信満々なのだろう。私はまったく事態を飲み込めていないというのに。
「……なんだよ、その顔は?」
「いえ、ただ意外だったもので。魔法使いの皆さんは、人間なんて相手にしないものかと」
 怖々答えると、ブラッドリーが莫迦にしたように口許をゆがめた。
「んなもん、その魔法使いの趣味によるとしか言いようがねえな。俺はいい女なら人間も魔女も関係ねえ派だ。別にお前がいい女とは言ってねえが」
「上げて落とすのやめていただけませんか」
 ブラッドリーとの会話は慌ただしくて忙しい。迂闊なことを言えば身の危険が降りかかってくるのは間違いなしだが、だからといって適当に相槌を打っておけばいいというものでもない。なんだかスリリングなゲームをしているみたいだ。
 しかしながら、私にはそうしたスリルを楽しもうという趣味はない。なのでさっさと話を進めてもらうことにした。
「それで、その駆け引きというのは」
「簡単なことだ。ネロの前でほかの男の影をちらつかせればいい」
「は、はあ……」
 思っていた以上に安直な案を出されてしまい、私は返答に窮した。
 閉口した私にかまわず、ブラッドリーが豪快に笑う。
「つっても、俺様は駄目だけどな。俺の女の趣味がおまえみたいなちんちくりんじゃねえことくらい、ネロじゃなくたって知ってる。俺がお前に絡んだところで、ネロに不審に思われて終わりだ」
「駄目じゃないですか」
「まあそうだな、ここは中央の騎士さんあたりが狙い目だ」
 そう言われ、頭の中にカインの姿を思い浮かべた。
 中央の騎士らしく折り目正しい一方で、誰に対しても気さくで感じがいいカイン。年のころも、たしか私と同じくらいだったはずだ。カインは女性にモテるとも聞くし、なるほどブラッドリーの案を実行に移すとなれば、カイン以上の適役もいないだろう。だが──
「あの、ブラッドリー」
 私が呼びかけると、ブラッドリーは眉間に深い皺を刻んで目線を合わせた。
「折角の提案なんですけど、それはちょっと……」
「あ? なんでだよ。騎士さんみてえな男は嫌いか? てめえ見かけによらず男の趣味にうるせえタイプかよ」
「いえ、そういうわけではなく……というかカインは私なんかには勿体ないほどの素敵な男性だと思いますが」
 たとえ“ふり”であったとしても、カインのような魅力的な男性と親し気にするなんて、我が身には勿体ないようなことだと思うが。しかし、問題はそこではない。カインに問題があるのではなく、ブラッドリーの持ち出した案そのものに問題があるのだ。
「ほかの男性の影をちらつかせるとか、ネロに対してそういう不誠実なことを、私はしたくないというか……」
 ブラッドリーは、さらに不可解そうに目を細める。
「不誠実? こんなもんただの駆け引きだろ」
「いえ、でも……」
 どう言えばブラッドリーに伝わるだろうか。考えたところでうまい言葉を見つけられず、私はもにょもにょ言い訳じみた言葉を連ねた。
 無論、ブラッドリーの言う案が恋愛における駆け引きとしては常套手段なのだということは知っている。第三者を引き込むことで相手に発破をかけたり、あるいは心を燃え上がらせるということだってあるのだろう。相手によっては、そういう行いも有用だろうと思う。
 けれどネロに対してそういう小細工じみたことをするのは、どうにも気乗りがしなかった。それではまるで、私に対するネロの気持ちを試すようだ。試したり、値踏みをしたりして、ネロの気持ちをはかろうとする。そんなものは、誠実な態度とは言えないような気がした。
 ネロは私に対して誠実だ。自分ではいい人じゃないなどと露悪的なことも言うが、実際にネロの優しさに触れている私には、ネロが他人に対して努めて誠実であろうとしているように見える。そんなネロのことが私は好きなのだ。だから私も、ネロに対しては誠実な自分でありたかった。
 すでに好きでいることでネロに迷惑を掛けている。それならば、これ以上ネロの心を乱すようなことはすべきではない。
 そんなようなことを、私は訥々とブラッドリーに説明した。果たして私の言いたいことがうまく伝わったかどうかは分からない。が、意外にもブラッドリーは口を挟むことなく私の話を最後まで聞くと、やがて何を思ったのか、しみじみとした様子で私の顔を見つめて言った。
「なるほどな。お前、まったく俺様のタイプの女じゃねえな」
 その失礼きわまりない発言に、何を、と私が反論する間もなく、ブラッドリーは言葉を継いだ。
「だがまあ、ネロがどうしてお前を放っておかないのかってのは分かった」
「放っておかない……」
「手がかかるガキほどなんたらってやつだな」
「……なんだかあんまり誉められてる気がしませんね」
「莫迦、誉めてはいねえよ」
 そう言うと、ブラッドリーはおもむろに私の頭に手を伸ばし、頭頂部のあたりをぐしゃりと撫でた。その仕草はネロがよくする仕草と動作自体は似ていたが、手つきの荒っぽさは似ても似つかないものだった。
「そうだ。お前今晩暇か? 暇だな?」
「ええっと」
 不意打ちで問われ、私はどもる。ブラッドリーは私の頭をぐしゃぐしゃにしたまま、
「西の兄ちゃんのバーに集合だ。この間の詫びにてめえにも一杯奢ってやるよ」
 私の返事も聞かず、そう言った。
「いえ、私はお酒は──」
「なんだ? 俺様の酒が飲めねえって?」
「きゅ、急に凄まないでくださいよ……怖い……」
 いきなり北の魔法使いらしさを全面に押し出したブラッドリーは、尋常じゃなく恐ろしかった。顔の傷痕が凄みに拍車をかけ、ただ凄まれているだけなのに銃口を突き付けられているような気分になる。
「よし、決まりだ。逃げんじゃねえぞ」
 背中を冷汗が伝うのを感じながら、私は必死にこくこくと頷いた。

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