幕間 その1

(※ネロ視点)

 夜も更けてきたというのに、一向に眠気は来なかった。明日の朝も早い。いくらカナリアさんがいるといったって、厨房を任されている者が寝坊などしては、料理人の名折れだ。
 クロエの仕立ててくれたスーツに皺が残らないよう、きちんとハンガーに掛けておく。それから部屋着に着替えると、ようやくベッドにごろりと寝そべった。シャワーを浴びる気力もない。風呂は明日の朝に回しても、こんな日くらい罰は当たらないだろう。
 照明をつけっぱなしの天井を眺め、大きく息を吐き出す。
 まさか、こんなタイミングで気持ちを打ち明けられることになるとは思ってもみなかった。これまでだってそれらしい機会がまったくなかったわけではないが、互いに空気を読み合って、踏み込むようなことは言わない、言わせないようにと注意を払ってきたはずなのに。
 そこを、ブラッドリーのやつがぶち壊しにしやがった。
 ふらりと現れては場を引っ掻き回して去っていく、迷惑なたちのかつての相棒を思い出し、知らず識らずのうちにまたも溜息が漏れる。魔法舎で再会してからというもの、すでに幾度となくブラッドリーからは迷惑を掛けられている。しかし今回の一件は、今までの比ではないほどの爆弾だった。はっきり言って、取り返しがつかないほどに。
 明日から、一体どんな顔をしてナマエに会えばいいのだろう。
 もちろん、ナマエはこれまで通りの距離感を望んでいるはずだ。そのことは、俺だって嫌というほどよく分かっている。そもそも共同生活を営むにあたって、勝手に気まずくなったりしては周囲に迷惑をかけるだけだ。余計な勘ぐりを避けるためにも、絶対に今まで通りに接していかなければならない。
 それでも、まったく今までと同じとはいかないだろう。
 そんなことをすれば、勇気を出して気持ちを打ち明けたナマエに対して、あまりにも不誠実な対応をとっていると思われかねない。ナマエの気持ちを受け容れられないと言っておきながら勝手なものだが、ナマエに不誠実だなんだと思われることだけは避けたかった。
 ナマエの前では、せめていい人でいたい。ナマエが好きになってくれた、「なんだかんだ言いながら、本当は面倒見がいい優しいネロ」を演じていたいと思ってしまう。
 そんなものを演じたところで、ナマエの気持ちを受け容れるつもりなどないというのに──
 自分の身勝手さに辟易し、すでに何度目かもわからなくなった溜息をついたところで、ふいに部屋の外からドアを叩く音がした。咄嗟に壁の時計に目を遣る。もうじき日付が変わろうという時刻。さすがにさっきの今でナマエが訪ねてくることはないだろうから、夜更かしをして腹をすかせたシノあたりが食べるものを求めてやってきたのだろうか。
 のろのろと身体を起こし、ドアを開ける。
 しかしドアの向こうに立っている人物を確認し、すぐにドアを開けたことを後悔した。
 そこに立っていたのは、酒瓶とグラスを手にしたブラッドリーだった。
 素早くドアを閉めようとする。が、それより先にブラッドリーが空いた手でドアを掴み、半開きになったドアの隙間に革靴を突っ込んだ。けして安い靴でもないだろうに、ブラッドリーは頓着することもなく、こういうことをする。怯んでしまうのはいつも俺の方で、今もやはり、ドアを閉めようとしていた力をゆるめてしまった。
 その隙を見逃すことなく、ブラッドリーが力任せにドアを押し開ける。俺は諦めて嘆息し、ブラッドリーを部屋の中へと招き入れた。

 勝手知ったる顔で入ってきたブラッドリーは、許可を求めることもなくテーブルにつく。顎でしゃくって俺にも座るように指示すると、「あの気取った服は脱いじまったのかよ。なかなか悪くなかったぜ」
 にやりと笑ってそう言った。
 軽口は無視して、俺は対面のブラッドリーを睨む。大した迫力がないことも、ブラッドリーには俺のひと睨みなど何の意味もないことも、いずれも分かっている。ただ、唯々諾々とこいつに従うのも癪だった。特に、ブラッドリーのせいで最悪な気分になっている、こんな晩には。
「なんの用だよ」
 我ながらぶすりとした声音で問うも、ブラッドリーは何処吹く風だ。ハッ、とバカにしたようにひと笑いしたかと思えば、
「用がなきゃ悪いかよ」
 と開き直った返事が返ってくる。
「仕方ねえだろ。バーに人が多かったんで引き返してきたんだ」
「だったら自分の部屋で、ひとりで飲めばいいだろ」
「いいだろ、たまには付き合えよ」
「たまにって……」
「たまにだろ」
 そう言う割には、そこそこの頻度で俺の部屋に酒を持ち込むブラッドリーなのだ。何を言ったところで無駄だった。再び溜息をつく。そうしている間にも、ブラッドリーは持ち込んだグラスに手酌で酒を注ぎ、早速始めてしまっている。部屋に入れた以上、ブラッドリーひとりを飲ませておくのも忍びない。
「一杯飲んだら帰れよ」
 戸棚からグラスを取り出すと、俺は渋々、ブラッドリーの晩酌に付き合うことにした。

 暫し、どうでもいいような世間話をぽつりぽつりと交わしながら、互いにちびちび酒を飲んだ。ブラッドリーは何かにつけて大雑把なところのある男だが、料理や酒に関しては、案外きちんと楽しむということを知っている。バカみたいに肉をかっ食らうときもあるにはあるが、そこはそこ、場所と時間はわきまえている。
 今も、俺が出してやった料理をつまみに、美味そうに酒を飲んでいる。そういうところが憎み切れなくて、なんとなくこいつのずるいところでもある。
「それにしても、相変わらず料理作る以外何もすることがねえ部屋だな」
「文句言うなら帰れ」
「文句じゃねえだろ。感想だ、感想」
「ったく……」
 ちょっと見直してやろうかと思えば、すぐに口を滑らせる。まったくもってどうしようもないやつだった。
 大体、さっきだってこの口の滑らかさが災いしたのだ。こいつさえ余計なことを言わなければ、今頃俺はナマエと食堂で飲みなおしていたはずだ。それがどうして、ブラッドリーを相手に酒なんか飲んでいるんだか──
「さっきは悪かったな」
 俺の思考を読んだかのような、絶妙なタイミングで差し出された謝罪に、俺は一瞬呆けてブラッドリーを見た。いや、タイミングが良すぎたこともそうなのだが、それよりも。
 その話を、ブラッドリーの方から蒸し返すのか。
 俺の向ける驚いた目つきに、ブラッドリーは俺が何を謝られているのか分かっていないのだと勘違いしたらしい。大きく舌打ちをしてから、おそろしく言いにくそうに、
「あれだよ、女の」
 と言葉を継いだ。
「いや、それは分かるけど……、つーかお前、名前も知らねえで絡んでたのかよ」
「名前くらい知ってるぜ。ナマエ──だっけか」
 呼び慣れていないのが丸わかりの、なんだか妙にぎこちない呼び方。
 しかしブラッドリーの声で呼ばれたナマエの名前に、俺の心は無性に苛立った。今度はブラッドリーが呆れ顔をする。
「それ見ろ、俺が名前で呼んだらそういう顔するじゃねえか。だから呼ばねえんだよ」
「別に──」
「回りくどいくせに分かりやすいな、昔から」
 ブラッドリーの言葉に、俺は口をつぐんだ。
 大して他人の気持ちが分かるわけでもなくせに、こいつは昔から、異様に勘も察しもいい。おおかた、俺とナマエの間にある微妙な距離感というか事情についても、説明せずとも察しているのだろう。
 その察しの良さを、もう少し早く発揮してくれていれば、あんな悲惨なことにはならずに済んだというのに。
 そんな恨み言を胸に、俺はブラッドリーに向けてできるだけ不愉快に見えるよう、露骨に顔を顰めて見せた。
「知ったような口利くなよ」
「おうおう、ひでえ言い方だな、おい」
 ブラッドリーのあっけらかんとしたところが、今はとにかく俺の神経を逆撫でする。
 やがて、室内に沈黙が落ちた。ブラッドリーとふたりで飲んでいると、会話が途切れて無言になることもけして珍しくはない。ブラッドリーはおしゃべりではあるが、のべつ幕なし喋っているわけでもない。俺もどちらかといえば、静かに飲む方が性に合っている。
 ただ、ブラッドリーと飲んでいて空気が重くなるというのは、そうないことだった。ブラッドリーと飲む酒をまずいと思ったことは、長い付き合いになるが実はそれほどない。
 今、沈黙をわずらわしく感じるのは、ブラッドリーが意図的にそういう空気にしているのだろう。それが分かるから、余計にむかつくのだ。
 俺はブラッドリーのせいでこんなにも気分を悪くしているのに、何故この上さらに、ブラッドリーに沈黙でもって責められなければならないのか。そもそもブラッドリーに俺を責めるような理由があるのか。
 いや、それはあるのだろうが。しかし、今はそのことは関係ないはずだ。
「別に、お前が誰とどうなろうと俺には関係ねえけどな」
 たっぷりの沈黙ののち、ブラッドリーは言った。手にしたグラスの中で、魔法で丸く削りだした氷がからりと揺れている。そういう仕草がいちいち様になるのがブラッドリーという男だった。
「どうにかしろよ、あの女」
「関係ねえなら首突っ込んでくるんじゃねえよ」
「さすがに女にあんな顔させたら、俺様でもフォローのひとつくらいはしておこうかと思うぜ」
 どうやらブラッドリーが俺の部屋を訪ねてきたのは、俺に対する罪悪感からではなく、ナマエに対して思うところがあってのことのようだった。胸にうっすらとした違和感を感じつつ、しかしそれはそれでブラッドリーらしいかと納得もする。こういうところがあるから、昔からこいつは女にはモテる。
 が、次のブラッドリーの一言に、呑気なことを考えてもいられなくなった。
「あの女にも一言言っておくかな」
「やめろ。それは絶対やめろ。てめえは余計なことするな、絶対に」
 思わず椅子から腰を上げ、ブラッドリーにはっきりと釘をさす。直後にやりと笑ったブラッドリーのその笑みに、自分がハメられたことに気が付いた。
 何のことはない、ブラッドリーは俺の反応を見て面白がっているだけなのだ。苦々しい気持ちを感じながら、俺はどすんと椅子に腰を落ち着けなおした。
 勢いよく酒を呷る。大きく息を吐き出すのを待ってから、ブラッドリーがようやくまた口を開いた。
「そんなに気に掛けてんなら、なんで何も言ってやらねえんだよ?」
 こいつの口から正論を吐かれる日が来ようとは。ただでさえ苛立たしい心境が、さらに輪をかけてむかむかと腹立たしくなってきた。
「……それこそ、ブラッドには関係ねえだろ」
「ねえよ」
「だったら──」
「けどな、見ててイラつくんだよ。てめえで傷つける勇気もねえなら、一端に迷うそぶりなんて見せてんじゃねえよ」
 面倒くさそうに吐き出されたその言葉は、思いがけず俺の心を強く揺さぶった。言葉もなく、俺は俯く。
 ブラッドリーの言葉は正論だ。おまけに俺が一番触れられたくない部分に、遠慮も躊躇もなく、まっすぐに手をつっこんでくる。そういう無遠慮なところが憎らしくて、けれどその裏表のなさが眩しかった。
 俺がブラッドリーのような男なら、ナマエはあんな顔をしなかったんだろうか。そんな益体のない考えが、胸の中で首を擡げる。
 さっき見た、誰かの真似をして失敗したような、下手くそで似合わないナマエの笑顔が脳裏をよぎる。俺がブラッドリーだったなら、直視することもできないようなあんな痛々しい笑顔を、ナマエにさせたりはしなかったのだろうか。
 ブラッドリーに何も言い返せないのは、俺自身、ブラッドリーの言うとおりだと思っているからだ。
 ナマエに好意を持たれて困る一方で、無理を通さず静かに慕ってくれるナマエのことを好ましくも思っている。それでもやはり、今日のようなことがあると困るから、できれば何の行動も起こさないまま、ずっとこのままでいてほしいと身勝手なことを考える。
 俺の気持ちを汲んでくれないくらいなら、いっそ好きだなんて思ってくれなくても構わない。変に波風立たせるくらいなら、ずっとただの知り合いのままでいい。俺のことなんて、放っておいてくれたらいい。
 そう思っているはずなのに、自分で傷つけ、遠くに追いやる勇気がない。自分で傷つける勇気がないから、ナマエが勝手に傷ついてくれるのを待っている。ナマエが勝手に傷ついて、思いを諦めてくれるのを、ただ息をひそめて待っている。
 滑稽なのは、そんな建前を持ちながら、ナマエが傷ついて、それでもそばにいてくれるのではないかと、心のどこかで期待もしていることだ。
 ナマエの思いを厭うのと同じくらい、愛おしいとも思っている。ちぐはぐで、ばらばらな感情。そんな自分に、心底嫌気がさす。
 ブラッドリーならば、きっとこんなことでは悩まないのだろう。こいつは根っから北の魔法使いだから、欲しいと思えば手に入れる。怯懦も惰弱も知ることなく、ナマエの声すら聞こうとせず、自分の思うままにナマエを捕まえておくのだろう。
 俺がブラッドリーだったなら。
 しかし俺はブラッドリーではなかったし、北の魔法使いなんて身分も、随分昔に廃業にしてしまった。
 今ここにいるのは根暗で猜疑心の強い、東の魔法使いのネロだ。ナマエが好きになったのも。
「なんだよ、黙りこんじまって」
 ブラッドリーがつまらなさそうに鼻を鳴らす。俺は俯けていた顔を上げ、髪をかき上げブラッドリーをまっすぐ見据えた。今更だが、なんだってこんな夜更けに、こいつとこんな話をしなければならないのだろう。酔いが回っているせいか、俺がブラッドリーだったらなんて莫迦なことまで考える始末だ。
「ブラッド、お前、俺のことを焚きつけにきたのか」
「ああ? 違ぇよ。言っただろうが、フォローだって」
 ブラッドリーが面倒くさそうにぼやく。
「女の方に行ってお前に睨まれるよりは、お前の方に言いたいこと言ってやった方がよっぽどいいだろ」
 その言葉に嘘はなさそうだった。そも、こいつは自分の得にならないところで余計な嘘をつくことはしない。自分本位に振る舞って、相手が如何思うかなどブラッドリーには関係ない。問題は自分が気分よくあれるかどうか、だ。
 改めて、自分がブラッドリーと同じ生き方はできなかったであろうということを、ひしひしと実感する。今更過ぎる感慨を胸に感じながら、ふとブラッドリーの手元に視線を遣れば、グラスの中身はすっかり氷だけになっていた。
「おい、一杯飲んだら出ていくって約束だろ。さっさと出て行けよ」
 しっかり邪険にしてやれば、ブラッドリーは舌打ちして恨みがましい目で此方を見る。
「ったく、つれねえな」
 それでも、ちゃんと腰を上げるのがブラッドリーだった。これ以上長居をするつもりはないらしく、ぶちぶち言いながらもドアに向かって歩いて行く。一杯引っかけただけなので、足取りがふらつくこともない。もっとも、俺はこいつが酒でふらついているところなど、数えるほどしか見たことがないのだが。
 部屋を出ていく間際、ブラッドリーが声をひそめ、「なあ」と呼びかけた。
「なあ、あの女。お前が適当にあしらえないくらいのいい女なのか? 悪くはねえが、あんなもんほとんどガキだろ」
 何を言い出すかと思えば、突拍子もない話だ。俺はドアノブに手を遣って、興味津々なブラッドリーを締め出しながら、短く答えた。
「そういうのじゃねえよ」
 ナマエはただ、俺なんかには勿体ないくらい、善良な人間だというだけで。

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