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 途方に暮れているときや困り果てているとき、あるいは極限状態になったとき。人間は案外簡単に都合のいい幻覚を見てしまうものだ。
 けれどその時私の視界を横切った人物は、けして私に都合のいい幻覚などではなかった。

「あっ」
 人通りの多い市場。中央の国の市場は、大陸の真ん中で人も物も集まる土地だけあり、活気に満ち満ちている。そこに行き交う人の中、私が短く発した声など到底“ 彼 ”に届くとも思えなかった。
 雑踏の中では、近くにいてすら声を聞き取ることは難しい。何よりその時の私は喉も乾いて、途轍もない空腹を抱えていた。こぼれた声は意図したものでもない。だから私のかさついた声がその人に届いたのは、半ば奇跡に近かった。
 石畳の先にいたその人は、私の声に気付き、振り返った。ハーフアップにした水色の髪が、首の動きに合わせてかすかに揺れる。
 私の方に視線を向けると、彼はむっと眉根を寄せた。私が吸い寄せられるように歩み寄ると、彼は一層眉間の皺を濃くした。どうやら記憶を遡り、私のことを思い出そうとしているようだった。
「あー……」
 束の間、視線がぶつかったまま、私たちは見つめ合う。
 と、彼のすぐ隣に立つきれいな少年が、
「ネロ、知り合いですか?」
 不思議そうに首を傾げて彼を見た。色素の薄い容姿は、少年とも少女とも思えるような中性的な雰囲気を醸し出している。
 天使のような風貌のその少年は、私と彼を交互に見遣った。すでに私と彼の距離は知り合い同士の間合いにまで近づいている。
「悪い、会ったことがあるのは分かるんだが……」
 やがて、記憶を遡るのを諦め、彼は私に対してとも少年に対してともつかない声を漏らし、嘆息した。どうやら彼は私を思い出せなかったようだ。もっとも、私も彼が覚えていてくれるかもしれないなんて期待はほとんど持っていなかった。
「無理もないです。多分、名乗ったこともありませんから」
 そう言って、私は力なく笑った──と思う。もとより空元気に見せかけるだけの気力も残っていなかったので、どのみち表情は最初から力ないものだっただろう。
「私は雨の街の店主さんのお店で、何度か食事をしたことがあるんです」
「あー、そうか。そうだった。たしかよく親父さんとおふくろさんと来てたな」
「そうです。家が近所で」
 ぽんと手を打った彼、店主さんの言葉に、私はゆるりと頷いた。それと同時に、口の中にじわりと涎が溢れる。私の頭の中では店主さんの声と姿は、美味しい食事ときっちり紐づいていた。
「店主さんが此処にいらっしゃるということは、この辺りに新しいお店が?」
「いや、そうじゃない」
「あっ、そうか。賢者の魔法使い──なんでしたっけ」
 そういえば、そんな話を聞いた気がする。胡乱な記憶だったが、幸い正しい情報だったようで、店主さんは「なんだ、知ってたのか」と苦笑した。
「はい。風の噂で。おめでとうございます」
「別に、祝われるようなことでもないけどな」
 そういうものなのだろうか。生憎と私には賢者の魔法使いというものがどういう役職なのか分からないので、それが謙遜なのか本音なのかの判別ができない。
 それに何より、私はそんなことを考えられるだけの気力を、すでに失っていた。店主さんの姿を見かけた瞬間に抱いた、美味しい食べ物にありつけるかもしれないという淡い期待は、呆気なく打ち砕かれてしまった。
「そうですか。もうお店はやっていらっしゃらないんですね」
 思わずぽろりとこぼすと、店主さんが小さく顔を顰めた。私は何か、失言をしたのだろうか。けれどその考えを先に進めるより先に、これまで静かにしていた店主さんの連れの美少年が、
「ネロの作った食事が食べたいんですか?」
 と私に尋ねた。
「ネロ……?」
「俺の名前だよ」
 少年のかわりに店主さんが答える。そういえば、先程も店主さんはネロと呼びかけられていた。
 ネロ。美味しそうな名前だ。ごくりと生唾を飲み込んで、それから私は答えた。
「そ、そりゃあ食べたい、かと言われれば──」
 その時、ぐうと間の抜けた音が鳴る。それはまぎれもなく私の腹の虫の鳴き声。空腹はいよいよ限界に近いのだということを声高に主張していた。
「し、失礼いたしました……」
 赤面しながら、服の上から腹をさする。なんとか腹の虫を宥めすかそうとしていると、店主さんが目を眇め、訝しむように私を眺めた。
「あんた、もしかして食うものに困ってるのか?」
「えっ」
「以前に店に来ていたときより、ずいぶん痩せた気がする」
 その言葉に、赤面していた顔がさらに熱くなる。男の人たちの前でお腹を鳴らしたことも恥ずかしいが、食べるものに困っているとばれてしまったことは、それとはまた別の次元で恥ずかしかった。元々裕福な暮らしをしていたわけではないけれど、これではまるで行き倒れの浮浪者も同然だ。
 とはいえ、見栄を張れるほどの気力もなかった。すでに私が空腹なのはばれているのだ。
「恥ずかしながら……その、あまり手持ちに余裕がないので」
 まったくの無一文ではない。けれど、後先考えずに浪費できるほど、ふところに余裕はなかった。
 そんな私を見かねてなのか、少年はほんの一瞬思案するような顔つきになった後、見た目にそぐわずきっぱりとした声音で、私に呼びかけた。
「よければ一緒に魔法舎にいらしたらどうですか?」
 途端に店主さんが顔を顰める。
「おいおい、リケ。勝手にそんなこと決めていいのか」
「でも、お腹を空かせた人をそのままにしておくわけにはいきません」
「だったらそれこそ、その辺で飯でも何でも奢ってやりゃいい」
「でもナマエは、ネロが作った食事が食べたいのでしょう? 僕もネロの作ってくれる食事が好きだから、その気持ちはとてもよく分かります」
 ネロの作った食事。そう聞いただけで、乾いた口の中に涎が溢れてくるようだった。想起されるのは以前食べた店主さんの美味しい料理の数々だ。街の料理屋としてはけして豪勢なメニューではなかったけれど、どれも優しくて滋味深く、心もお腹もあたたかくなるような料理ばかりだった。
「大丈夫です。賢者様もオズも、きっとダメとは言いません」
 一歩も退かない少年の物言いに、折れたのは店主さんの方だった。溜息をつきながら頭をかくと、店主さんは私ではなく少年に向かって、
「……煩いやつらに叱られても知らねえからな」
 と、うんざりしたようにぼやいた。

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