26

「ナマエ? どうした?」
 思案に沈んでいた私に、ネロが不思議そうに声を掛けた。パーティーでのことがあるだけに、またぞろ何か落ち込んでいると思われたのだろうか。ネロの瞳は探るように、しかし踏み込み過ぎないようにと適切な距離を見定めようとしているようにも見える。
 いや、それはさすがに邪推のしすぎか。
 だんだんとドツボにはまり始めた思考を振り払い、私は首を振った。ネロへの気持ちを自覚して、数か月。うじうじと思い悩んでいるのは得意だが、それだけではどうしようもない。もっと、ネロのことを知らなければ。そうしなければ、本当に話したいことはいつまで経っても話せないままだ。
「ネロ。もうこんな時間だけど、少しだけ飲みなおしませんか?」
 私が提案すると、ネロは僅かに眉根を寄せた。訝しむ視線が、まっすぐ私に向けられている。
「俺はいいけど、あんた酒強くないだろ」
「はい。だから、少しだけ。実をいうと早めに外に出てしまったので、ちょっとお腹が空いてます。お酒もほとんど飲んでませんし」
 実際、小腹は空いていた。食べ足りていないし、飲み足りてもいない。うっかり食べすぎクロエの作ってくれたドレスがきつくなることのないよう、パーティーでは手加減して食べていたからだ。本当はまだまだ食べられる。
 ネロは、暫し悩んで視線を泳がせた。
 けれど結局、私の提案に乗る気になったらしい。
「ちょうど昼間に作った料理の試作品があるんだ。そんなもんでよければ酒のつまみに出すよ」
「十分すぎます……!」
 一日の締めくくりにネロの料理を食べられるなんて幸福すぎる。さっそく口の中に涎が溢れてきた。
 着替えの手間も惜しんで、私たちはそのまま食堂へと向かう。シャイロックのバーでもよかったが、この時間に食堂にも談話室にも誰もいないということは、シャイロックのバーには先客がいそうだ。なんとなく、今夜はふたりで飲みなおしたい気分だった。
「俺は部屋からつまみを取ってくる。あんたはバーで酒だけ調達してきてくれるか? シャイロックに言えば何かいいのを出してくれると思うから」
「はい」
 と、それぞれ酒盛りの用意を調達するため分かれようとしたところで。
「なんだ、てめえら。またつるんでやがんのか。なんだその恰好?」
 どこから現れたのか、ブラッドリーが私たちの前にふらりと姿を現した。
 見たところ、ブラッドリーもバーに顔を出すつもりなのだろう。その証拠に、彼の手には見るからに上等そうな酒瓶が握られている。ブラッドリーは時々、何処で手に入れたのか分からないが上等なお酒を持ってバーに顔を出し、居合わせた魔法使いたちに酒を振る舞っているらしい。
「ブラッド……」
「こんばんは、ブラッドリー。私たち、ネロの知り合いが主催したパーティーに行ってたんですよ」
 あからさまに面倒くさそうな顔をするネロに代わって、私がブラッドリーの質問に答える。ブラッドリーは品定めでもするように私とネロを頭の先から爪先までじろりと眺め、それから鼻を鳴らして笑った。
「ハッ、パーティー? くだらねえ」
 まあ、そうだろう。ブラッドリーにはパーティーはあまり似合わないような気がする。今日のパーティーはおおむね和やかな内輪の集まりだったが、基本的には華やかな場であるパーティーよりも、無礼講でがやがやとした飲み会の方がブラッドリーには似合っている。
 しかし、ネロはばつが悪そうな、不機嫌そうな顔をしている。私はとりなすように、
「ブラッドリーの好きそうな美味しい肉料理もありましたよ」
 とどうでもいいことを口にした。
 我ながら本当にどうでもいいことだったので、ブラッドリーも当たり前のように私の言葉を無視した。それよりも、ブラッドリーにはほかに気になることがあるらしい。
「大体お前、気安く俺のこと呼んでんじゃねえ。ブラッドリー様、な。前に教えてやっただろうが」
 そう言って、ブラッドリーはずいと私に顔を寄せる。存外根に持つタイプらしい。ネロがぎょっとした顔をしたが、それでふたりが揉めても悪い。ネロが何か言うより先に私は数歩後ずさり、ブラッドリーから距離をとった。
 ブラッドリーの目が、面白がるように私を眺めている。ごくりと息を呑んで、恐々と口を開いた。
「でも、ネロのことも今はもうネロと呼んでいますから……ブラッドリーのことも呼び捨てでかまわないのではないかと」
「なんで俺がネロ基準で呼び方を左右されなきゃいけねえんだ。ネロが俺に合わせろ」
「どういう理屈だよ。つーか絡むなよ……」
 ネロが心底呆れたとでもいうように溜息をついた。
 ブラッドリーとちゃんと話をしたのは一回だけだ。そのわりには、彼は随分と気安く話しかけてくる。隣にネロがいるからだろうかとも思うが、このふたりが仲良くしているところをそう見ることもない。
 ブラッドリーは愉しそうに笑っている。なんだか私もネロも、ブラッドリーの玩具にされているようだ。それでいて、彼の愉しそうな瞳はつねに抜け目なく私たちを観察している。正直、気が気じゃない。
 いつまでこうしてブラッドリーに遊ばれていればいいのだろうか。そうしている間にも、ネロと飲みなおす時間はどんどん少なくなっていってしまう。そのことを思い、そろそろ行きます、とそう切り出そうとした、ちょうどそのとき。
「ん? つーか呼び方変わったのか。どういう心境の変化だ?」
 ふと、ブラッドリーが不審そうに私とネロを交互に見遣った。心境の変化も何も、みんなが呼んでいるように呼ぼうと決めただけだ。しかし、改めてそのことを突かれると妙に恥ずかしい。
「いえ、心境の変化というほどのことは……」
 もごもごと返事をする私に、さらにブラッドリーが言い募る。
「なんだよ、おまえら寝てんのか?」
 その突拍子のない発言に、
「寝っ!?」
「おいこら! ブラッドリー!」
 私とネロの声が重なった。そこにさらに、ブラッドリーのけらけらと軽い笑い声が重なる。
 が、私にとってはとてもではないが笑いごとではない。何せ私とネロにとってはその手の話はご法度なのだ。
 私はネロのことが好きで。ネロは私の気持ちを知っていて。
 知っていながら、触れないことにしている。互いにそこには触れないことで、私とネロは今の関係を維持している。微妙な均衡を崩さぬよう、互いに探り探りで適性な距離を探している。
 しかし、私とネロのそんな事情がブラッドリーに通じるはずはない。ブラッドリーは私とネロのあからさまに狼狽した態度を見て、私たちの微妙な状況を察したようだった。ははん、と呟き、そしてにやりと笑う。
「なんだ、違うのかよ。そっちの女があからさまにネロに気がありそうな感じだったから、てっきりそういう話になってんのかと思ったが……、そういやネロは昔からそういうタイプじゃなかったな」
「やめろ、ブラッドリー」
 発したネロの声は、私がはっとするほどに厳しいものだった。ブラッドリーもさすがに笑みを引っ込め、むっとしたような顔つきになる。
「んだよ、まだ話すらしてねえのかよ。てめえらがちんたらしてっから、俺がぺろっと言っちまっただろうが」
 理不尽なことをぼやきつつ、ブラッドリーは大きく舌打ちを打った。そうして私の頭をぐしゃりと撫でると、
「悪かったな」
 と一言詫びる。その声はさすがに多少ばつが悪そうだったので、これ以上ブラッドリーを責めようという気にはなれなかった。もとより、事情を知らないブラッドリーがうっかり失言をしたところで、私が怒る筋合いもない。
 それでも、何もなかったことにはできない。現にネロはブラッドリーを睨んではいるが、気まずげな表情が隠しきれていない。私も多分、顔がこわばっている。
 ブラッドリーが逃げるようにその場を立ち去るのを、私とネロはぼうと突っ立って見送るしかなかった。私の頭の中にはとにかく、この後ネロに何と言って誤魔化そうかということばかりがぐるぐる巡っていた。
 ひとまず、この気まずい空気は払拭しなければならない。明日からも私はこの魔法舎で、ネロと一緒に生活をしていくのだ。意図的に距離を置こうとするのではなく、こんなふうに無理やりに気まずくされ、関係をぐちゃぐちゃに踏み荒らされたままで放置しておくというのは耐えがたいことだ。
 そう思っていたのは、私だけではなかったらしい。
「ええと……なんか……なんか、悪かった」
 私以上に困り果て、ネロがぼそりと呟いた。先程ブラッドリーに食って掛かっていったのとはまるで違う、まるで迷子の子供のような覚束ない声だった。
 前も後ろも分からずに、途方に暮れているように、ネロは言葉を見つけあぐねている。その声を聞いていると、私の方まで自分の考えに自信を持てなくなってくるような心地になった。
 何故だろう、思考を埋めつくしていた「どうにか誤魔化さなければ」という考えが、本当は正しくないもののように思えてくる。このままではいけないような気がしてくるのだ。たとえ切っ掛けがブラッドリーの投げ込んだ荒々しい一石だとしても。
「ブラッドリーのやつが、なんか余計なことを言っちまって……。なんていうか、気にするなよ」
 ネロの言葉は、多分もっとも正しい台詞なのだろう。
 この場を丸くおさめ、先程のブラッドリーの巻き起こした嵐をなかったことにするのには。無理やりにこじ開けられそうになった秘密の匣の蓋をしっかりと閉じなおし、見て見ぬふりをするためには。
 明日からもずっと、今日までと同じ関係を続けていくためには。
 けれど。
 そんなものを、本当に私は望んでいるのだろうか──?

「ネロは、どうなんですか?」

 気が付けば、そんな言葉を口にしていた。ネロは虚を突かれたように、ぽかんと私を見つめている。自分でもそんなことを言うつもりはなかった。そのはずなのに、口に出した言葉は驚くほどに、私の本心を言い表しているような気がした。 
「え?」
「ネロも、気にしないことにするんですか? 私に気にしないようにと言って、自分も──ネロも、気にしないことにしますか? それとも、本当に何も思わないですか? 何も気になりませんか?」
 ネロが困惑の表情を浮かべている。それはそうだろう。ネロにしてみれば、いきなり何をと思わないはずがない。
 せっかくここまで、ちょっと親しい知人程度の距離を保ってきたのだ。ネロも私も傷つくことはない、誰も損しない、おだやかな距離。互いに踏み込み過ぎず、しかしけして離れすぎない、絶妙に居心地がよくて、ぬるま湯のようで、でも何ものにもなることができない、ひたすらに安全なだけの距離。
 だけどそれではいけないのだ。何ものにもなれない距離に甘んじているには──昨日と同じ今日、今日と同じ明日を繰り返すだけで良しとするには、人間の一生はあまりに短すぎる。
 ぎゅっと目の奥に力を込める。ネロがわずかにたじろいだのが分かったが、それでも躊躇はしなかった。クロエの作ってくれたドレスと靴のおかげで、いつもよりもずっと、身体の内側に気力がみなぎっている気すらした。
「ブラッドリーの言うとおりです。私は多分、誰の目にも明らかなくらい、全部駄々洩れになってるくらい、ネロのことが好きです」
「どうしたんだ、急に。大体俺は魔法使いで──」
「ネロが魔法使いで、私が人間で、だけどそれは……いつか道が分かれてしまうことは、今この瞬間の気持ちを伝えない理由にはならないはずだから」
 私の言葉に、ネロが肩をびくりと震わせる。私の言葉のどれかが、恐らくはネロの心の繊細な場所を乱暴に荒らしたのだ。そのことが分かっても、ひとたび伝えると決めた言葉をここで止めるわけにはいかなかった。
 ここでやめたら、きっともう、二度と言葉にするチャンスは与えてもらえない。ネロはそのくらい用心深く、慎重で、警戒心が強かった。
 はやる気持ちをどうにか抑え、私は何度か深呼吸を繰り返す。幸いにして、ネロは今この場から逃げ出すつもりはなさそうだった。少なくとも、私の言葉を聞いてくれる心づもりはあるらしい。
 視線は合わない。それでも、私は続けた。
「本当は、言わないつもりだったんです。私の気持ちでネロに迷惑を掛けたくなかったし、ネロと一緒にいると、どんどん嫌な自分が見えてくるから。私は高望みはしないで、身の丈に合った恋愛をするものだと思っていて、だからつまり、ネロのことを好きになるつもりはなかったし、好きになっても何も望まないつもりで、いた、けど」
 言葉が切れ切れになる。こんなにもはっきりとした形で私の真ん中にあるはずの感情は、言葉にしようと思うと途端にいびつで粗く、取り留めもなく、みっともないばかりの一方的な言葉になってしまう。
「でも、やっぱりネロのことが好きな気持ちは変わらないし、この気持ちを伝えないまま、ただ胸の中にしまっておくなんてこと、私にはできないです。身勝手だって、分かってるけど……」
 視線はやはり、合わないまま。
「好きです。ネロのことが、すごく。なかったことになんて、できないくらいに」
 陳腐でありきたりな告白の言葉は、果たして何百年もこの世界を生きているネロの耳に、どのように響いたのだろう。ネロの瞳は伏せられたままで、私には彼が今なにを思っているのか、いまいちはっきりとは分からなかった。
 いや、それは今に限ったことではないのだ。ネロはいつだって、考えていることを相手に読ませない。悲しくなるくらい、ネロは大切なことを何ひとつ、教えてはくれない。
「悪い」
 ややあって、ネロが答えた。低くて小さな声は、ほとんど夜の中に消えていってしまいそうな声だった。
 それでも、私に向けられた声だ。私の耳がその声を聞き洩らすようなことは万に一つだってあり得ない。
「俺じゃあ、あんたの気持ちには応えられないよ」
 息苦しそうなその声音に、一抹の罪悪感が胸を掠める。ネロからの返事自体は、予測していた通りだった。ネロが私の気持ちに応えてくれないからといって、今更傷つくこともない。
 けれどネロを困らせている、苦しめているという事実は、分かっていてもやはりきつい。自分が抱える恋心が、ネロに窮屈な思いをさせている。そのことを目の当たりにしたような気がした。身勝手な思いだと、分かっていたのに。
「大丈夫です、気にしないでください」
 少しでもネロに与えた罪悪感を軽くしたくて、私はことさらに明るく笑う。へらへらとした顔つきは、多分私のくすんだ顔色にはまったく似合っていなかった。それでも、笑う。ネロの瞳がうつろに私に向けられる。そこに映った私も、やはりうつろな笑顔を浮かべていた。
 それでも、笑うしかない。
 笑わなければ、もっとネロを困らせてしまうだけだから。
「私がネロのことを見つめる気持ちは、以前とは変わってしまいましたけど……でもそれは、私が変わってしまったというだけの話なので。ネロまで私につられて変わったとは思ってないですし、それを望んでいるわけでもないんです。でも、ただ、好きだって気持ちを、なかったことにはしたくないし、今夜のことを気にしないでなんて、そんなふうにはできないだけで」
 一番の山場を越えたからか、言葉はすらすらと、自分でも驚くほど滑らかにあふれてきた。
「というか、何百年も生きてきたネロに今更変わってほしいなんて言いませんよ。そんなの、無理──かは分からないけど、難しいことでしょう? ただそこで、変わらず美味しい食事をつくってくれるネロのことが、私は好きです」
 だから、これでいいんです。
 そう言うとネロはもう一度、低く詫びの言葉を口にした。

 結局その日は飲みなおすのをやめにして、各々が自分の部屋へと戻ることにした。
 ネロの瞳は最後まで、私に焦点を結ぶことはなかった。

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