25

 店を出てガーデンに出ると、ガーデンの隅から、店の裏口に続く細い道が伸びていた。そのわきに植わった楓の木が大きく枝葉を伸ばして、夜の中に一層の闇をつくっている。木の根元にはガーデンにレンガ畳を敷いた時の残りなのか、レンガが並べて積まれていた。その上にハンカチを敷き、腰を下ろす。クロエが作ってくれたドレスを土や埃のせいで汚したくはない。
 一歩ガーデンを外れてしまえば、小さな灯りがひとつ灯っているだけだ。きっと声を出さなければ誰も、私が此処にいることに気付きはしないだろう。こちらからはガーデンがよく見えるので、ネロが出てきた頃を見計らって戻るつもりだった。
 グラスにはまだ半分ほどのお酒が残っている。すでに炭酸も抜けてぬるくなったワインを、舐めるようにちびちびと飲んだ。
 ほかの招待客たちに先駆けて、ネロがガーデンへと出てきたのは、それから二十分も経たない頃だった。

 ネロの姿を見つけて小走りに駆け寄る。すでに挨拶を済ませていたらしいネロは、そのまま私を伴うとまっすぐに門を出た。
 魔法舎までの帰りは、来た時と同じく、のんびりと歩いて帰ることにした。大した距離ではないし、私もネロもお酒を飲んでいる。箒には乗らない方がいいだろう。
「あんたのことは、酒を醒ますために外で待ってるって言っておいた」
 最初にひと言そう口にしたきり、ネロは店を出てからというものずっと口を閉じたままだ。会話の糸口を探しているような気配はあったが、どう切り出していいものやら悩んでいるように見えた。
 気を遣わせるのも忍びない。長らく沈黙の落ちるままにしていたが、魔法舎が近づいてきたこともあり、私の方から切り出すことにした。
「ネロ、さっきは嫌な思いをさせてしまってすみませんでした」
 ネロが視線を下げ、私を見る。以前私の母が魔法使いのことを侮辱した時よりもよほど、その顔は嫌悪感をあらわにしていた。
「俺のことはどうでもいいよ。それより、ありゃ何だ? 見たとこ知り合いっぽかったけど」
「私の実家の近所に住んでた本屋のご主人です。昔からよくお世話になっていて、それで」
「そういう間柄には見えなかったぜ」
 ある程度事情を察しているだろうに、ネロの言葉は厳しい。要らぬ厄介を巻き込んだ私に苛立っているのか、場所をわきまえないあの店主に苛立っているのか。おそらくはその両方なのだろうと思うと、申し訳なさと情けなさが綯い交ぜになって私の胸を襲った。
 道のわきの街灯が、点いたり消えたりを繰り返している。ちらちらと飛び回る虫をちらと眺めて、私はもう一度ネロに謝った。
「あそこのお店の店主さんが雨の街の出身と聞いた時、もしかしたら父のことを知っている人がパーティーに来ているかもしれないとは思ったんですけど……。まさか本当に鉢合わせることになるとは思いませんでした。すみません」
 私の父は罪人で、雨の街の牢に投獄されている。
 雨の街は東の国の首都だけあり、広い都市だ。しかし私たち家族が住んでいた地区は昔ながらの下町なので、ほかの地区に比べて特に、雨の街らしい性質の人間が多い。要するに、根は親切でも基本的には排他的で、猜疑心の強い住人が多いのだ。
 そんな地域から犯罪者が出ようものならば、あっという間に地域の人間に知れ渡る。囚人本人のことはもちろん、家族の名も顔も、事件の翌日には住人のほとんどが知っている。
 路上での噂話が法典で禁じられていたところで、人の口に戸は立てられない。人の噂も七十五日。しかしあの街では七十五日を凌いだところで、その先もずっと針のむしろに座る気持ちで生きていかねばならないことに変わりない。
「ネロは魔法使いだから、ひどい言葉を言われることにも慣れているって、前にたしか、そう言いましたよね」
 私の言葉に、ネロが「まあ、多少は」と歯切れ悪く返す。
「ネロの気持ちが、まったくすべて分かるとは思いません。でも、私も少しくらいは分かるつもりです。私は囚人の娘だから……ネロみたいに慣れてはいないけど、でも、覚悟はしてました」
 昨日まで笑顔で挨拶をしてくれた人が、今日は目を合わせてくれない。気安く天気の話をした相手が、今日は出歩いているというだけで舌打ちをする。
 もちろん魔法使いたちに向けられた忌避の目は、そんな程度のものではないのだろう。それでも。
「だから平気です」
 それは掛け値なしの、私の本心だった。強がりでも、虚勢を張っているわけでもない。本当にただ、平気なのだった。
 だってここはもう、東の国ではないのだから。ここは私を囚人の娘だと知っていて、それでも受け容れてくれる人たちのそばだから。
 心無い人たちから向けられる忌避の目の冷たさを、魔法使いたちはみな多かれ少なかれ、知っている。それでもなお、彼らの大半は人間である私にもあたたかい。雨の街の人たちも親切ではあるのだが、彼らは一度手のひらを返せばその手をふたたび差し出すことはまれだ。それこそネロの料理のように、偏見や嫌悪を覆すほどのものでもなければ。
 ネロが思案するようにじっと黙り込む。そのまま長い時間、私たちは黙ったままで歩き続けていた。
 やがて魔法舎の前まで戻ってきたとき、ネロはようやく戸惑いがちな声音で言った。
「あんた、俺がパーティーに行かないかって声を掛けたとき、こうなる可能性もあるって気付いてたんだよな?」
「そうですね……黙っていてすみません。ネロに嫌な思いをさせてしまって」
 私が頭を下げると、ネロはまた溜息をつく。
「そうじゃなくてさ。ああいう目に遭うかもしれないって分かってたなら、どうして俺と一緒に来たんだ? 嫌な思いをする可能性が少しでもあるのなら、別についてこなくたってよかったじゃねえか」
「すみません」
「謝ってほしいわけじゃないけど……」
 ネロの言いたいことは分かっていた。嫌な目に遭う可能性が少しでもあるのなら、嫌な相手に近づかないでいられるのなら、そうする方が余程懸命な選択なのだろう。実際、ネロはそうして生きていた。魔法使いであることをひた隠しにして、雨の街で多少窮屈でも平和な生活を送っていた。わざわざ禍の中に飛び込むような真似、きっとネロならしない。
 私だってそうだ。東の国で暮らせなくなってほかの国で暮らすことにしたのは、少しでも自分が暮らしやすい場所を求めていたから。生まれてからずっと住んでいた故郷を捨ててでも、私は安全で、向けられる害意の少ない場所を選んだ。
 まして、今は呪いのこともある。中央の国に来たばかりの頃の私なら、おそらくネロの誘いは断っていたはずだ。
「でも、ネロが、誘ってくれたから」
「え?」
 私の返事を聞き落としたのか、ネロが首を傾げた。
 もう一度、私は繰り返す。
「だって、ネロが私を誘ってくれたから。たとえほかに相手がいないから、それで仕方なくだったとしても……、ネロが、私を選んでくれたから。ネロとふたりで、きれいな服を着て出かけられると思ったから。そんな想像をしたら、自分から断ろうなんて思えなくなってしまったんです」
 想像したら、胸がドキドキした。
 夢を見ているようで、わくわくした。
 そんな素敵な夢を見てしまったら、断ることなんてできるはずがなかった。たとえ嫌な思いをするかもしれないと、その可能性があるのだと分かっていても。
 分かっていても、止められなかった。
「ネロに嫌な思いをさせてしまったことは申し訳ないと思ってます。けど……、けど私は、今日行かなければよかったとは思ってないですよ。ネロと一緒に出掛けられて、嬉しかったし、……よかったです」
「あんた──」
 まだ何か言葉を連ねようとするネロを置いて、私は小走りに魔法舎の中へと戻った。これ以上話していると、言うべきではない余計なこと──余計な感情まで、口にしてしまいそうだった。
 ネロへの思いは日増しに大きくなっていて、今はもう、油断するとうっかり言葉にしてしまいそうなくらい、私の中で大きく大きく膨らんでいる。
 私が走るのに合わせてヒールがかつかつと鳴る。部屋に戻るための大階段へと向かおうとしたところで、ふと、談話室から灯りが洩れていることに気が付いた。まだ夜更けというには早いが、話し声などが聞こえてくるわけではない。
「あれ、談話室に灯りが点いてますね。誰かまだお酒でも飲んでるんでしょうか」
 振り返ってネロに言う。ネロは顎をしゃくって談話室を示した。見てみれば、ということらしい。
 半開きになった談話室の重い扉を開く。追いついてきたネロとともに談話室の中をそろりと除くと、立派な安楽椅子の背に体を預け、すっかり眠り込んでるリケの姿があった。膝の上には子供向けの絵本が一冊、物語の途中のページで開かれたままになっている。
 リケのほかには誰もいないようだった。
「絵本、読みながら寝ちゃったんですね」
「みたいだな。ったく……」
 ぞんざいな口ぶりのわりには、リケを見下ろすネロの目はどこまでも優しかった。その優しさに胸をときめかせながら、私もリケの顔を覗く。
 覗き込んだリケの寝顔は、まるで天使のようにすこやかだ。十六歳というにはやや小柄なリケは、こうしているとまるきり子供のようだった。
 魔法舎の中はつねに快適な温度と湿度が保たれている。しかし深夜や明け方にもなれば、こんなところでうたた寝していては身体が冷えてしまうだろう。そうでなくても、子供はきちんとベッドで眠った方がいいに決まっている。
「どうしましょう、部屋まで連れて行ってあげたいけど、リケって勝手に部屋に入られたりするの嫌なタイプかな」
 リケは人懐こいいい子だけれど、半面自分にも他人にも厳しいところがある。小さなころから教団で生活をしていたためか、やや潔癖なふしもあった。私もネロも汚くはないのだが、そういうこととは別として、リケは自らの許可なく他人に部屋に踏み込まれるのは嫌がるかもしれない。
「どう思います? ネロ」
「いや、別に気にしないと思うけど……」
「じゃあ部屋まで連れて行ってあげましょうか」
「そうだな。俺が抱えるよ」
 小柄とはいえ、リケは十六歳の男子。私ひとりではリケを運ぶことなど到底できない。しかし、ネロだってけして屈強な男性というわけではない。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ。力仕事には慣れてるし。ま、そう見えないかもしれないけど」
 さらりと言って、ネロがリケを抱きかかえた。
「さ、行こうか」
 さして苦しそうにもせず、ネロが言った。私は両手の塞がったネロのかわりに談話室の扉を開けると、先導するように歩き出した。

 夜の魔法舎は、静かで怖い。ひとりで歩き回るたび、私はいつもそんなことを思う。けれど今日はネロとリケと一緒に歩いているためか、まったく心細さのようなものを感じることはなかった。眠っているリケを起こさぬよう、私とネロの間に会話はない。どのみち直前まで交わしていた会話の内容は面白いものでもなく、互いに黙っている方が気分が楽だった。
 リケの部屋のドアに鍵はかかっていなかった。ネロがリケの靴を脱がせ、そっとベッドに寝かせる。リケは小さく呻いて身じろぎしたものの、目を覚ますことなくそのまますぐに眠りについた。丁寧に足元に畳んであった毛布を掛け、リケの寝顔を眺める。長いまつげと、最近ようやく少しだけふっくらしてきた頬。白い肌は暗い部屋の中でも浮かんで見え、見るものに神聖な印象を与える。
「おやすみなさい、リケ」
 囁くように言って、私とネロはリケの部屋を後にした。

 ★

「リケ、起きちゃわなくてよかったですね」
「だな」
「絵本読みながら寝落ちしちゃうなんて、子供らしくて可愛い」
 リケの部屋を出た私とネロは、目を見合わせて笑い合う。出自のせいか、リケは年齢以上に幼い部分もあれば、逆に不自然なほどに大人びている部分もある。私がここで働かせてもらえるようになったきっかけはリケなので、私はリケには相当の恩を感じている。しかしそうでなくても、子供はすこやかに育ってほしいと思う。そうでなければ、大人がそばにいる意味がない。
「子供、好きなの?」
 唐突に、ネロが言った。先程まで口許に浮かべていた笑いはない。ネロは至って真面目な顔をしていた。
「ええ? どうしてですか?」
「雨の街にいたとき、仕事で子守りもしてたって言ってたから。それにほら、今もさ」
「別に、特別好きってこともないと思いますけど……というか、正直あんまり得意ではないですけど。でも、リケのことは好きです。子守りをしていたちびっこたちも可愛かったなぁ」
 子供ならば誰でも彼でも可愛いというわけではない。無論、子供は大切にされてしかるべきだとも思っているが、それとこれとは別の話だろう。リケが可愛いと思うのは、リケがいい子だから。ミチルのことを可愛いと思うのも、やはりミチルがいい子だから。ともに生活をしているうちに芽生えた情は、彼らが子供だからというだけで芽生えたものではない。
 しかし、どうだろう。たとえばリケやミチルの性格が可愛げのかけらもなかったとして、可愛くないかと言われるとそれはそれで怪しかった。もっとも、可愛げのないリケやミチルなど想像もできないが。
 そんなことを思っていると、ネロがぽすんと私の頭に手を置いた。
「きっといい母親になるよ、あんた」
「ええ? どうでしょうね」
 思ってもみなかったことを言われ、私は思わず怪訝な顔をする。ネロが何を理由にそんなことを言ったのかは分からないが、自分ではまったくそんなことを思わなかった。母親になりたいという願望もない。
「私なんて、自分のことでいっぱいいっぱいですから」
 そう答えてからふと、ネロはどうなのだろうかと考える。私よりもずっと長い時間を生きているネロ。恐らく、子供と触れ合うことが少ないまま今日まで生きてきたネロ。
 ネロは、自分の子供を持ちたいとは思わないのだろうか。
 父親になりたいだとか、そういうことを考えたことがあるのだろうか──
 聞いてみたいと思った。どんなふうに生きていきたいかというのは、ネロという魔法使いの根幹に関わる部分だ。子供が欲しいのなら、どんな憧れが胸にあるのか。子供がいらないのなら、どういう理由でそう思うのか。
 しかし、世間話の延長で聞く話題としては、あまりにも内容が重すぎる。人間と魔法使いでは家族や生命へのものの考え方だって違うだろう。私は魔法使いたちの考え方を知らなさすぎるし、それを知らないままに個人的な部分に踏み込むというのは、いくら何でも不躾で無作法だ。
 溜息をつく。結局、いつでもこうなのだ。ネロに聞きたいことはたくさんあるが、実際に聞けることはほんの僅かしかない。ネロを傷つけないようにと思うほど、ネロには何も言えなくて、何も聞けなくなる。
 最初の頃よりは確実に近づいているはずなのに、それでもまだ、こんなにも距離がある。

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