22

「私は……、自分がネロと一緒にいるときも、そうでないときも、その、私のことでネロに嫌な思いをさせたくない……みたいなことを、思っているんですけども」
 つっかえながら、悩みながら、私はゆっくり言葉を紡ぐ。
 賢者の書を著すにあたり、賢者様が言っていた。賢者様が新たに賢者の書の編纂に乗り出したのは、魔法使いたちに嫌なこと、苦手だと思うことをさせたくないからだ、と。たとえいつか今の賢者様がいなくなるとしても、次の賢者やその次の賢者にもそうであってほしいのだ、と。
 だからこそ、賢者様は私に賢者の書の置き場を教えてくれたのだ。賢者様がいなくなったのち、それが次の賢者の手に、間違いなく渡るように。
 賢者様のその気持ちが、少しだけ私にも分かるような気がする。大切な人が嫌な思いをするところなんて、できれば見たくはない。賢者様が「賢者」によって魔法使いたちに嫌な思いをさせずに済むようにと願うように、私もまた、自分のせいでネロに嫌な思いをさせたくはない。
「だけど、それだけじゃなくて──私は、自分で自分のことを嫌いになるのも嫌なんです。大した人間ではなくても、人に誇れるようなところなんかなくても、自分で自分が嫌になるような人間にはなりたくないというか」
「嫌いになりそうなのか? 自分のことが?」
「……少しだけ」
「それは、俺のせい?」
「違います。私のせい」
 間髪を容れず、私は答えた。ネロの琥珀色の瞳が、訝し気に揺れている。ひと呼吸つくように深く息を吐き出して、私は言葉を続けた。
「この間、私が子供の姿になっていたとき、ネロは優しく接してくれましたよね。いつもネロは優しいけれど、いつも以上に、特別に」
 呪いのせいで子供の姿になってしまった私に、ネロは親身になってくれた。困っているところに手を差し伸べてくれて、転びそうな危うい足取りの私のために手まで繋いでくれた。一緒に食べたビスケットは美味しかったし、ネロの眼差しは陽だまりのようだった。
 多分、本来ならば私が望んでも手に入れることのできなかったはずの、あれは特別な優しさだった。
「私、あれはネロが子供に対して優しくあろうとか、そういう気持ちで優しくしてくれてるって分かってたんです。ネロの仕草とか眼差しとか、そういうので、ああ、ネロって普段はあんまりそういう素振りを見せないけど、子供が好きなんだなっていうことが分かったから」
 あの優しさが、私という個人に向けられたものではないこと。あれは呪いというイレギュラーが生んだ、かりそめの触れ合いだったのだということ。そのことを、ちゃんと知っていた。知っていて、線引きをしなければならないのは私の方だったのに。
「それなのに、私はネロの優しさに付け込むというか、なんというか、こう……ネロの善意を利用する、みたいなことを、して。それで、そんな自分がすごく嫌になってしまって」
 ネロは黙って耳を傾けていた。あれほど口ごもってうまく言葉にならなかった思いは、ひとたび切り出してしまえば呆気なく、まるで濁流のような勢いで流れ落ちていく。
 それなのに、言っても言っても心は軽くはならなくて。降り積もった鉛粒は、いつしか質量を増して私を内側から圧迫する。
 苦しくて、苦しくて。
 自分の矮小さも、胸に棲みついた怯懦も、何もかもが嫌になって仕方がない。こんなもの、今までの人生で感じたこともなかったのに。
 ふと、頭の中に浮かんだのは、オーエンさんに飛ばされた北の国の果ての果てにある、汚濁の澱の水面だった。あぶくがたった禍々しい水面。いつか自分の心もあんなふうになってしまうのだろうか。ぞっとするような醜悪さは、醜い心の成れの果てにも思える。
 あんなふうになってしまうくらいなら、ネロから距離を置きたかった。清廉とまではいわずとも、自分で自分を許せるくらいに、ましな人間でありたかった。
 けれどもそれすら、自分の都合。
 全部が全部、自分の問題。
 嫌になるほど堂々巡りの無限ループに、気付けばすっかり陥っている。
「私、自分のことも嫌だったし、その浅ましさみたいなものがネロに伝わってしまったら、きっとネロにも嫌な思いをさせるだろうなと思いました。だから、結局、全部私のせいで、私がひとりで気にしていることで……。ネロのせいでは、ないんですよ。誤解させてしまってすみません」
 頭を下げると、鼻の奥がつんと鋭く痛んだ。ぐっと奥歯を強く噛み、こみあげてくる途方もない熱を押しとどめる。すでにネロの前では一度泣いてしまっているから、これ以上面倒を掛けたくもなかった。
 暫し、ぐっと堪えるように全身に力をこめていた。ようやく感情の波が引いてきて、肩の力を多少抜けるようになった頃、ずっと黙って私の話を聞いてくれていたネロが、やにわに口を開いた。
「それって、そんなに悪いことかね」
 ネロはそばの壁に身体を寄りかからせ、視線を下げたまま呟いた。独白のようにも聞こえた言葉は、しかし間違いなく私に向けられた問いかけだ。私は一度唇を引き結んでから、感情の堰が切れてしまわないよう気を付けて、
「悪いですよ。すごく」
 そう返事をした。
 ネロは、その答えに小さく笑った。
「そうか。俺にはあんたがすごく善良な人間だって、自分で告白してるように聞こえたよ」
 意地が悪いことを言う。ネロのような人柄なら、私の言わんとするところだってきっと分からないはずはないのに。
 言葉を返す代わりに、私はじっとネロを睨んだ。
 ネロはまた、困ったように笑った。
「あんたは俺のことをいいやつだって思ってくれてるけど、俺なんか昔はもっと悪かったよ──っていうのは、この場合的外れだよな。人と比べてどうって話じゃないもんな。自分で自分に、嫌気がさすって話だろ?」
 私は首肯する。ネロはふっと笑いをこぼし、言葉を継いだ。
「言っておくけど、俺は別にいいやつじゃないよ。俺をいいやつだって思えるなら、それはあんたが人のいいところをちゃんと見ようとしてるからだ。あんたこそ、いいやつだよ」
「そんなこと──」
「俺は何か嫌なことがあったら普通に腹を立てるし、あてつけみたいな嫌な態度をとることもある。誰彼構わずってわけじゃないし、気は長いほうだけどな。でも、俺にだって嫌だと思うことはある」
 そう言ってネロは、どこか自嘲めいた笑みを口の端に浮かべた。
「なんていうか、嫌いなんだ。利用されたり、いいように騙されたり、そういうのが。だって、お礼とか労いとか──そういう当たり前のことがなくなっちまったら、人間だろうが魔法使いだろうが、信用も信頼もできなくなっちまう。相手に敬意がなくなっちゃ、人間関係おしまいだろ」
 利用という言葉に、私の胸がずんと重くなる。
 語るネロの瞳は、ここではないどこか遠くを見つめているようだった。過去に何か、利用されたり騙されたり、そういうことがあったのかもしれない。あるいは、今も。
 暗がりに浮かぶネロの表情を窺う。私の視線に気付いたネロは、眉尻を下げ、いつものように笑った。それが私を安心させるための笑顔だということは、言われるまでもなく明らかだった。
「ナマエは俺を利用したって言うけどさ、でも、あんたはちゃんとお礼も労いもしてくれる。俺が飯作ったらお礼言うし、うまいうまいって喜んで食べる。ごちそうさまでしたって手を合わせて、食べた食器の片づけをする。ここのやつらはみんないいやつだから、まあ大抵はあんたと同じようにしてくれるけど、関係を築いていくうえで必要なことは、ナマエはちゃんとしてくれてる」
 出されたものは残さず食べる。
 食事を終えたらお礼を言う。
 そんな当たり前のことが、多分ネロにとっては大切なのだ。
 私にとっては当然で、至極ふつうの礼儀のようなものが、ネロにとってはきっと、ずっと。
「気休めにしかならないかもしれないけど──俺はナマエが思ってるみたいな、利用されたとか付け込まれたとか、そういうのをナマエから感じたことはないよ。この間のことだって、実際困ってただろ?」
「それは……まあ、はい」
「な? 困ってたところに手を貸して、それであんたはお礼を言って俺の助けを受けた。それで十分だって、ちゃんと釣り合いがとれてるって、俺はそう思ったよ」
 励ますようでもなく、甘やかすようでもなく。ネロの言葉は淡々としている。ネロの言葉はネロにとっての事実をただ言葉にして、それを私に向けて発しているだけのように聞こえた。
 だから、なのだろうか。
 胸のうちの鉛粒がゆっくりと崩れて消えていくように、徐々に気持ちが軽くなっていくような気がした。胸のつかえがほろほろと形を失くし、息苦しさが和らいでいく。
 深く吸い込んだ空気には、まろやかなスープのにおいが溶けていた。
 ネロの固い手が、私の頭の上に載せられる。撫でるわけでも、髪を梳くわけでもない。けれどその手に触れられていると、自分が特別なものとして扱われているような、そんな気分になった。
 ネロの手は、慈しむことを知っている人の手だ。その手のひらを今、ネロは私のために差し出してくれている。いたいけでもない、小さくもない、等身大の私のために。
 やがて、ネロは表情をゆるめて言った。
「まあ、こういうのって自分の問題だろうから、結局俺が何を言ったって嫌なものは嫌なんだろうけど……。それでもナマエが、もし少しでも俺の気持ちを想像して落ち込んでるなら、それはやめてくれ。そうやって落ち込まれる方が、俺はよっぽど気になる」
「う、すみません……」
「いいよ。大体、ナマエが此処に来た時からずっと、俺はあんたに面倒かけられっぱなしだぜ。今更しずかに殊勝にってされる方が気になって仕方ない。俺のためを思うなら、当面は今までのままいてくれると助かるかな」
「今のまま……」
「適当に騒がしくして、時々ほんのちょっとしたことで頼りにしたりしなかったり、ってこと」
 そう言うと、ネロはようやく私の頭から手を退けた。
「そんなことより、いつまでそんな薄暗いところにいるつもりなんだ?」
 ネロはパントリーから動こうとしない私の手を握り、やんわりと手を引く。繋がれた手のぎこちなさは、この間子供の体でつないだ手のぎこちなさとは別の頑なさを感じさせた。
 子供の手を引く、大人の手、ではない。
 その手が感じさせるささやかな戸惑いと、じわりと滲むような熱。それは私も少なからず知っている手の温もりだった。男の人の、手。
 ネロに手を引かれ、私は厨房へと戻る。すぐに手と手は分かたれて、私の手は行き場を失いぶらりと揺れる。呆けたようにネロを見るも、ネロはすでにコンロの前まで戻っていた。直前まで私の手を握っていたネロの手が、まるで私の見た幻だったかのように。
「あの、ネロ──」
「ん? それより何か飲むか? もう遅いし、あたたかくて気持ちが落ち着く紅茶か何かがいいかな」
 躊躇いがちに呼んだ名前は、いつも通りのネロの言葉で、余韻も残さず宙に消えた。暫し、逡巡する。けれどネロは、私がそれ以上の言葉を口にすることを望んでいないように見えた。私もやはり、これ以上はやめにした。
 その代わり、強張った顔に笑顔のようなものを何とか浮かべ、ネロの誘いに乗ることにした。
「それじゃあ、あの」
「お、リクエスト?」
「前にネロがつくってくれた、ホットミルクがいいです。ほんのりお酒のかおりがするやつ」
「ああ、あれか。いいよ。じゃあ部屋から酒とってくるから少し待ってな」
「あっ、ネロ」
 厨房を出ていこうとするネロを呼び止め、私は駆け寄る。ネロは表情を変えず、「ん?」と首を傾げて私を見下ろした。
 拳をぎゅっと握りしめる。ごくりと喉が鳴る。言おうと決めていた言葉が、まだ喉に引っかかる。
 そうして私が束の間躊躇していると、私の言葉を待たず、ネロの方が口を開いた。
「あんたさえよければ、ご一緒していいかな」
 ネロの青みがかった琥珀色の瞳が、悪戯めいて揺らめく。喉に引っかかっていた言葉は、絡まる糸がほどけるようにするりと消えた。
「はい、喜んで」

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