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その日の夕方になる頃に、自然と私の幼児化は元に戻った。元に戻った際に賢者様とふたりで一緒にいたのは、私にとっては不幸中の幸いだ。いきなり身体だけが大きくなったものだから、小さな衣装を身に着けていた私は大層悲惨な目に遭った。みんなが夕食を食べ終えた頃になってようやく、ファウストさんは「夢見が悪い」状態から回復したらしい。この上なく不機嫌そうな顔で部屋から出てきたファウストさんに、ひとまず元に戻った姿を見てもらうことにした。意味があるかは分からないが、魔力や呪いの残滓だけでも残っているならば、何かしらの役に立つかもしれない。
「下手な呪い屋の下手な呪いだったせいで、効果がそう長く持続しなかったのだろう」
それがファウストさんの所見だった。
呪いというのは魔法以上に複雑で、呪い屋の魔力が強ければそれだけ強い呪いが使える、というものでもないそうだ。念入りな準備と術式があって、その術式が高度あればあるほど、効果の強い呪いを使える。無論、誰でも高度な術式を用いることができるわけではないので、最終的には魔法使いとしての素質や魔力の量がものを言う部分はある。逆に入念な準備と知識、そして多少の素質があれば、人間でも簡単な呪いくらいは扱える。
「術者が魔法使いが人間かはともかく──今回君を呪ったのが大した術者ではないことはたしかだよ。ただ単に身体を幼児化させるだけなら、普通に魔法を使った方が早いに決まってる。そのうえ、見たところ君に掛けられた術式はめちゃくちゃで、ひとつも理論的な部分がない。まあ、だからこそ命にかかわるような効果が得られなかったのだろう」
そんな物騒なことを言うファウストさんは、部屋から出てきた後もひどく不機嫌そうだった。よほど嫌な夢でも見たのだろう。
それでも、ファウストさんは呪いを跳ね返すための小さな欠片のようなものを、私にひとつ持たせてくれた。きらきらと光るその欠片は、朝焼けのような淡いピンクと夜更けの濃紺を併せ持つ、不思議な輝きを発していた。
「これ、マナ石の欠片ですか?」
同席していた賢者様の質問に、ファウストさんはぞんざいに頷いた。
「僕よりも強い魔力の持ち主からの呪いには効力を発しないだろうが、魔法舎には結界が張ってあるから、それと合わせれば大抵の呪いは跳ね返せるだろう」
ファウストさんは陰鬱な顔で、私に視線を遣る。
「しかし気を付けることだ。魔法使いを厭う人間は何処にだっている。<大いなる厄災>を恐れ、<大いなる厄災>への対抗手段である賢者の魔法使いや賢者に手を出すことはできなくても、その代わりにと君を害することを思いつくような輩だっているだろうからな」
ファウストさんからの忠告は、私の心にすっと冷たい手を差し込むようだった。
反魔法使いを公言してはばからない人間は、どこの国にも一定数存在するものだ。中央の国は比較的魔法使いに寛容だが、それでも完全に歓迎され、人々の日々の生活の中に魔法使いが溶け込んでいるとは言い難い。
東の国──特に私の生まれ育った雨の街では、互いに距離を取り、監視し合うことで社会が成り立っていた。都合の悪いことは魔法使いに押し付けて、法典で民衆を縛ることで平和を実現した。
中央の国は、東の国と比べるとだいぶ開放的だ。私は中央の国の、そういうあっけらかんとしたところが好きだった。
本当はあまり疑心暗鬼にはなりたくない。しかしファウストさんの忠告は、けして聞き流せるものでもなかった。
一介の小間使いに過ぎないとはいえ、私はすでにここで暮らす魔法使いたちと深く関わっている。魔法使いたちの身代わりのように私がひどい目に遭えば、彼らのうちの何人かの心に影が落ちることは必至だ。心で魔法を使うという魔法使いたちに、私のせいでそんな悪影響を及ぼしたくはない。
当面は出掛けるときは極力誰かと一緒に、という話を賢者様から提案され、結局はそうする運びとなった。
談話室を後にした私と賢者様は、揃って書庫に向かった。
ここのところの賢者様は魔法使いたちから聞き取りをし、その内容を賢者の書として纏めているらしい。すでに書庫は歴代の賢者の書でいっぱいなので、新たな賢者の書の収納場所を確保するついでに一緒に書庫の掃除をする約束をしていた。
「ナマエさんの命が脅かされているかもしれないという、こんな時にこういうことを言うのは不謹慎かもしれないんですけど……、でも、これはチャンスだと思うんですよね!」
うきうきとガッツポーズをつくる賢者様に、私は首を傾げる。ファウストさんの前では深刻そうな顔をしていた賢者様だったが、今は若干のうしろめたさを秘めた笑顔をにこにこと私に向けている。
「チャンス、ですか?」
私が問うと、賢者様はにやりと笑って、「ネロとのことですよ!」と小声で、しかしはっきりと、歌うように言った。
ネロ。賢者様の口から出たその名前に、私は顔の筋肉がかすかに強張るのを感じた。賢者様はそのことには気づかず、何故だか妙に意気込んでいる。
「出掛けるときには誰かと一緒にっていう話です。さすがに毎回は無理でしょうけど、それでもこれを口実にネロとお近づきになることもできるのでは? ネロもなんだかんだでナマエさんのことを気に掛けてるみたいですし、ナマエさんが小さくなったときだって、ネロが一番ナマエさんのことを手助けしているように見えましたよっ」
この手の話をするとき、賢者様の口調は驚くほどに熱っぽくなる。私もけして恋愛の話は嫌いではないし、ここでそういう話で盛り上がることができるのは賢者様とカナリアさんくらいだ。特に賢者様は魔法使いたちと親しいので、何かあれば頼りたいと思うこともある。
けれど。
「賢者様、そのことなんですけど──」
ぽつりぽつりと、綿の塊を吐き出すような心地で、私は賢者様に胸にわだかまる思いを伝えた。私が言葉を連ねるごとに、賢者様の表情は暗く曇っていく。
話を終えたあと、書庫へと向かう賢者様の背中は、心なしかいつもよりもしょんぼりと丸まっているように見えた。
★
それから数日後の、ある晩のこと。
「あ、ポケットにお財布入れっぱなしだ」
部屋に戻って部屋着に着替える直前、エプロンドレスのポケットに小銭入れを入れっぱなしにしていたことに気が付いた。昼間、レノックスさんに付き添いを頼んで買い出しに行った際、食堂から持ち出して返すのを忘れてしまっていたのだ。
普段、買い出し用の財布は食堂の奥のパントリーに置かれた金庫にしまっておくことになっている。今日はお城からの来客があってばたばたしていたせいで、すっかり忘れていた。
小銭入れなので大した金額は入っていない。しかし自分のものでない現金を手元に置いておくというのは、やはりあまりいいことではないだろう。何かあった時に責任を問われても困る。
「面倒だけど、お風呂に入る前に気付いてよかったな」
誰にともなく呟いて、私は食堂に向かうため部屋を出た。
夜の魔法舎はそこはかとなく暗闇に沈んでいる。天井から吊るされた灯りが淡い橙色の光を発しているが、それでも影に沈んで見えるのは、ここが不思議の力を操る魔法使いたちの根城だからだろう。シャイロックのバーまで出向けばまた違うのかもしれないが、すでに静まり返った廊下などは、歩いていても何処か心細い気持ちになる。
けれど今は、ただ魔法舎の独特な空気に飲み込まれ、そんな気持ちになっているというだけではなかった。今日の昼間、レノックスさんとふたりで市場に買い出しに行った時もやはり、この言いようのない心細さのようなものは、常に私の足元に纏わりついて離れなかった。
中途半端な出来だったとはいえ、呪いをかけられたことが原因だろうか。
しかしそれが理由のすべてではないことを、すでに私は自覚している。身体が小さくなったとき、これといって恐れや害意を感じなかったように、あの呪いには実際には私を害そうという意思が感じられなかった。
無論、不思議の力や魔法、呪いのことなどまるで知らない私の肌感覚に過ぎないから、これを過信することはできない。ファウストさんの助言を聞き入れてレノックスさんに買い出しの同伴を頼んだのも、自分の感覚をいまいち信用しきることができないからだ。
とはいえ、それほど気にしていないのはたしかだった。だから今私が感じている不安は、呪い云々とはあまり関係ない。
私が気にしているのは、ネロへの気持ち。そしてネロへの気持ちを抱く、自分自身への不安だ。
呪いを受けた日以降、ネロのことを思うにつけ、寄る辺のない思いが胸に募るのを感じている。これまではネロだけが故郷の私とつながる、唯ひとりここでの私のよすがだったというのに。
この居心地の悪さはいずれ、放っておいても時間が解決してくれる類のものなのだろうか。それとも自分で何か行動を起こさなければ、いつまでも胸のなかでわだかまり続けるのだろうか。
それすらも、今の私には判然とはしない。
最低限まで照明を落とした食堂に入る。厨房から、やわらかな灯りが漏れていた。ここには夜更かしの魔法使いもいるから、この時間でも食堂や談話室に人がいることは珍しくない。しかし厨房となると話は別だ。厨房への立ち入りが禁じられているわけではないが、ネロとカナリアさんが厨房を取り仕切っている手前、無人の厨房に立ち入ろうとする者は限られる。
夜食になるものがないかとパントリーを漁りにきた、夜更かしな魔法使いのうちの誰かだろうか。
そう思いながらそっと厨房を覗く。
厨房の中ではくすんだ水色の髪の人物が、この夜更けに一人、おたまで大なべをかき回していた。
「ネロ……」
戸惑う声が、半開きになった口の端からこぼれた。
自分でも不思議なことに、ここでネロと鉢合わせたことに私は驚いていた。厨房にいる人間となれば、真っ先にネロのことを思い浮かべてもおかしくないはずなのに。いや、これまでの私ならばまず間違いなくネロだろうと、ネロだったらいいのにと思っていたはずなのに。
厨房からは美味しそうなコンソメのにおいが漂ってくる。オレンジ色の灯りに照らされたネロが、首を巡らせこちらを向いた。
「ああ、ナマエか」
ネロの声は普段と変わりない。そっけなくも、拒むような冷たさはない。恐々足を踏み出して、私は厨房の中へと踏み行った。
厨房の中はしんと静かだ。鍋からはうっすらとした湯気が立ち上り、コンソメと野菜の溶け合ったにおいが私の食欲を刺激する。ネロの隣に並んで鍋の中をのぞきこむと、黄金色のとろりとしたスープが、おたまの動きに合わせてゆったりと回っていた。
味見をするまでもなく、美味しいことが分かってしまう。
ネロはコンダクターが指揮棒を振るように、音もなくスープをかき混ぜた。スープがはねることも、おたまと鍋がぶつかることもない。静謐でおごそかな作業は、まるで秘密の儀式を行っているようにも見えた。
「美味しそう……。明日の朝食の仕込みですか?」
「うん。明日は中央のやつらが朝から訓練に出るらしいから、いつもより朝が早いんだ」
スープから目を離さず、ネロが答える。料理を目のまえにしたときのネロの瞳は飾ることなくまっすぐで、胸の真ん中のあたりがぐっと苦しくなる。
知らず識らずのうちに胸元を手でおさえ、私も微笑んだ。
「じゃあ私も早起きしないと」
「別に大丈夫だよ。カナリアさんにもいつも通りでいいって伝えてあるし。リケはともかく、みんな子供じゃないんだから」
「でも、ネロは早く起きるんでしょう?」
「まあ、多分……?」
ネロが言い淀む。けして朝に強いとは言い難いようだが、ネロはきっと、求められれば早起きをして、朝早くから訓練に出る魔法使いたちのために最善を尽くすのだろう。たとえそれが中央の魔法使いたちから直接求められたことではなくても。
ネロに向けていた視線をつと床に落とし、静かにネロのそばを離れた。金庫があるのは厨房の奥のパントリーだ。ネロの背後を通り過ぎ、私はパントリーに向かう。
「じゃあ、私も頑張って早起きしますよ。やることはたくさんありますし」
ネロを見ないまま言うと、
「駄目とは言わないけど」
と、かすかに呆れ笑いを含んだ声が返ってきた。そんな声音を聞くのも数日ぶりになる。心に染み込むような声音に、またしても胸がきゅっと痛んだ。
ネロが立つキッチンは、パントリーから死角になっている。向こうからは私の顔は見えないはずだし、私の位置からネロの顔を見ることもできない。ただ声と気配だけでのみ、ネロがそこにいることを感じている。
今はあまり、ネロと顔を合わせたくはない。この距離感は、今の私にはちょうど良かった。
「なあ、ちょっと聞きたいんだけど」
おもむろに、ネロが切り出した。
表情の見えない位置関係のまま。私は息を呑む。
「俺、あんたに何かしたか?」
はっとした。ネロの声は、彼の感じる惑いを示すようにかすかに揺れていた。そんな声を聞くのははじめてだ。私はどう返事をしたらいいのか、うまい言葉を見つけられなくなる。
ネロはきっと、気が付いているのだ。身体が小さくなったあの日から、私がネロのことを微妙に避け、距離を置こうとしていることに。その距離は私がネロへの恋心を自覚した頃のものとは違う類の、ともすればここで関係が途絶えてしまうかもしれないような、そういう感情による距離なのだということに。
ずくずくと、胸が内側から鈍く疼く。ネロは今、どんな表情をしているのだろう。知りたいような気もしたし、知らないでいたいような気もした。自分のせいでネロが傷ついていたら嫌だと思う一方で、ネロが何も思わないいつもの一歩引いた顔をしていたら、それこそ悲しいような気もする。分からないのだ。私にも、自分がネロに何を望んでいるのかが。
それでも、ネロの問いかけを無視しているわけにはいかない。
財布を金庫に戻しながら、私はネロに問い返した。
「何か、とは」
ひどく間の抜けた問いだと、発したそばから実感する。けれどこれが私の精いっぱいだった。できることならばネロにはこれで、この話題を打ち切りにしてほしい。「やっぱり何でもないよ」と、いつもの他人同士の距離感を律儀に守って、深く追求はしてこないでほしかった。
ネロからの返事はない。金庫に鍵をかけ、重たい沈黙に細い息を吐き出したそのとき、
「あんたのことを傷つけるようなこと、した?」
ネロが、自信なさげに呟いた。
「いや、違うならいいんだ。俺の気のせいなら、聞かなかったことにしてほしい。けど、なんか……なんていうかさ」
直後、ぱちんとコンロの消える音がして。
重たい作業靴がゆっくりと床を踏む音。
気が付けば、ネロのつくる大きな影が、背を向けた私の上にかかっていた。
「あんた、急に俺の方見なくなったような気がしたし……賢者さんに聞いても、困った顔ではぐらかされてさ……」
「賢者様に、尋ねられたんですね」
責めるつもりはなかったが、随分と感じの悪い言い方になってしまった。背中の向こうで、ネロが溜息をつくのが分かる。私はただ、賢者様を巻き込んでしまったことを申し訳なく思っているだけだ。
ネロもまた、申し訳なさげに言った。
「いや、まあ……うん。直接ナマエに聞かない方がいいことだったら、あれかなと思って。何かあったっていうんなら、賢者さんが何かしら聞いてるだろうから」
ネロの不器用で回りくどいやり方に、うっかり笑いだしそうになる。けれど実際には、笑いなどひとつも湧いてこなかった。
息を吐き出し、それから意を決して振り返る。顔を上げると、ネロが気まずげに視線をそらした。思っていたよりもずっと近くにネロが立っていて、手を伸ばしさえすれば肩でも頬でも、すぐにでも触れてしまえそうだった。
厨房の灯りはここまでは届かない。パントリーの前に置かれた小さな灯りとりの光だけが、ネロのばつの悪そうな顔をうっすらと照らしていた。
何百年も生きているとは思えない、自信のなさそうな顔。整った顔立ちの中に感じる頑なさは、私が手を伸ばすことを拒んでいるようにも見える。
「ネロは、こっちがやっと少し近づけたと思ったらすぐに離れていってしまうのに、こっちが少しでも遠慮をすると、こうやってすぐに気に掛けてくれて……、なんだかちぐはぐですね」
ぽつりと呟いた言葉に、ネロが身じろぎする。
私が好意を自覚すればやんわりと距離を置き、避ければどうかしたのかと気に掛ける。今だってそうだ。背を向けていた私には踏み込むような言葉を掛けられても、いざ向かい合うと途端に視線を逸らす。ネロと関係を築いていくことは、波打ち際で足を濡らすことに似ている。
ややあって、ネロは苦り切った表情で、こぼすように発した。
「そうかな。自分ではそうは思わないけど」
「本当ですか?」
「……そりゃあ、まあ、まったく思い当たるところがないわけではない」
そう言って、ネロはようやく視線の焦点を私に結んだ。
「つまり、そういう態度が嫌だったってこと?」
「いえ、そうじゃなくて。そういうのではなくて……」
そういうことでは、なくて。
ネロの不器用でもどかしい接し方に嫌気がさしたとか、そういうことではなくて。
そういうことではないはずなのに、いざ言葉にしようとするとうまく伝わらない。
「違うんです。違って、ネロは何もしてないんですよ。ただ、自分がちょっと……」
「ちょっと?」
「なんだか、自信を失ったというか……いえ、元から自信なんて大してないんですけど、でも、なんでしょうね……」
口ごもった言葉は、ネロと手をつないで食堂まで歩いたあの日から、私の心の中に積もったまま消えない鉛粒そのものだった。