20

 それにしても──ネロとともに部屋を出た私は、早速頭を悩ませていた。
 つい先日ネロから距離を置かれ直したばかりだというのに、これはどういうことだろう。今日のネロは随分と好意的だし、何なら相当に私を気に掛けてくれているような気がする。ネロの性格を思えば、たとえ気に掛けてくれていたとしても、表面上はそうとは見せず距離を保ちそうなものなのに。
 近づいたと思えば離れていく、そんなネロのやり方にもだいぶ慣れてきたと思う。しかし今日のネロは、いつになく私に対して友好的だ。いや、友好的というのともまた違うのか。思考をこねくり回しながら、頭の中を整理する。
 ネロはいつでも適度に距離を保っている。自らが引いた線をみだりに侵すことなく、また侵すことをこちらにも許さず。その距離で、最大限の優しさを与えてくれる。それはネロなりの誠意なのだろうと、私は勝手に解釈している。近づきすぎず、期待をさせすぎない。こちらの思いを裏切らないための、ネロなりの誠意であり、防衛線。
 しかし、今日のネロはいつもに比べて線引きが相当甘い。困っているところを助けてくれるのはいつものことだが、そこからこうしてジュースを取ってこようと提案してくれたり、あまつさえ私を伴って食堂に向かうなど。いつものネロならばまったく、まったく考えられないような奇行だ。椿事といってもいい。
 いつもなら、ドアを開けてくれて終わりだろう。何かあったら声を掛けてくれ、くらいは言ってくれるかもしれないが、それだけだ。率先してこちらに関わろうとはしてこない。
 ネロの心情に、何かしらの変化があったのだろうか。普段のネロのスタンスを崩すほどの、何か。
 考えてはみるものの、これといって思い当たることもなかった。もちろんネロの行動のすべてを把握しているわけではないから、私が知らないところで何かしらの心情の変化があった可能性もある。が、私に対して余計に頑なになることはあったとして、その逆はあるだろうか。ネロが私に対してなあなあな態度を示すなど、相当自分に都合のいい妄想でもしない限りはあり得ないことのように思えた。
 となると、変化があったのは私の方か。ネロに甘い対応をとらせるだけの何かが、私にあるということ。
 私の変化いえば、身体が縮んで幼児になってしまっていることこそが、目下最大の変化だが──そこまで考え、気が付いた。
 もしかして、ネロって子供が好きなのだろうか。そういえばリケやミチルに対しては、ネロはなんだかんだでとことん甘い。私が子供の姿をしているから、それで知らず識らずのうちに甘い対応になってしまっているとしたら。
 子供の姿って、そんなに悪くないのかも?
 呪いって、逆にラッキーでは……?
 思わず、そんな不謹慎きわまることを考えてしまった。いやいや、呪い様様だなどと思ってはいけないのだが。しかし今の私は精神が太いので、転んでもただは起きぬ精神がしっかりと心に根付いていた。
 と、そんなことを思案してはニヤニヤしていると、ふと隣を歩くネロが私にじっと視線を注いでいることに気がついた。慌てて表情を引き締める。
「ネロ、どうかしましたか?」
 尋ねると、ネロははじめて自分が私をじっと見つめていることに気付いたようだった。いささかばつが悪そうに、ネロは首の後ろを掻く。
「いや、ここまで小さい子供と一緒に歩くのって久し振りだからさ。歩幅ちいせえなーって」
「あ、すみません」
 慌てて私は謝った。
 考え事に夢中になっていたせいで気が付かなかったが、ネロは部屋を出てから今まで、ずっと私の幼児サイズの歩幅に合わせて歩いてくれていたのだった。ただでさえ足の長いネロだ。相当ちまちま歩く羽目になり、普通に歩くより却って疲れるに違いない。何より、単純に歩みが遅くなる。
「おいそぎでしたら、わたしのことはおいてさきに行ってください。あとからおいつくので」
「いや、別にいいんだけどさ。結局ヒースたちとやってた訓練も、今はヒースとシノの基礎錬になっちまって俺はやることないし。お嬢さんに付き合う時間くらいはあるよ」
「おじょうさん……」
 なんだか不埒に聞こえるのは、私の捉え方の問題だろうか。当のネロは気にせず笑っている。多分、本当に子供が好きなのだろうと思わせるような、内から滲み出てくるような笑みだった。
 愛しさというよりは、慈しみから溢れて出るような。
「まあ、俺から見ればいつもの姿と感覚そう違わないけどな。若返ったって言ったって二十年かそこらだろ? 誤差だよ、誤差の範囲内」
「まほうつかい基準ではごさかもしれないですけど、にんげんにとっては大事です」
「そりゃそうだ」
 それにこの姿ならば、いつもと違ってネロも近い距離で接してくれるようだし──とまでは流石に言わなかった。ネロの私に対する距離がぐずぐずになっていることは、当面は私だけの秘密だ。ネロに気付かれるのは、あまりにも惜しい。呪いなんてものに巻き込まれているのだから、このくらいの役得を望んだって罰は当たらないはずだ。
「それにしても、その靴歩きにくそうだな」
 藪から棒に、ネロが言う。視線は私の足元に向けられていた。
「これですか? スノウさまのくつを借りてるんです。一応まほうでサイズは合わせてもらったんですけど、やっぱり自分のものではない、ふくやくつなので」
「あんたが元々着てたものを小さくすればよかったんじゃないのか?」
「おそれながら、わたしもそう進言したんですけど」
「聞いてもらえなかったんだな」
 こくりと、私は頷いた。
 スノウ様とホワイト様は、さながら着せ替え人形のように私に服を見繕ってくれたあと、服と合わせた靴やソックスも貸してくれた。その際に私のサイズに合うように魔法で調整してくれたので、それならばいっそ元から私が持っていたもののサイズを変えてくれればよかったのでは、とさりげなく尋ねてはみたのだ。
 結果は、
「ほほほ、そういう考え方もあったかのう?」
「ほほほ、でもこっちの方が楽しいじゃろ?」
 と笑われておしまいだった。
 そんなわけで、私が着ているのはエプロン以外はすべてスノウ様の私物だ。もう着る予定がないから、といただいてしまった。古着とはいえ私が普段着ているものよりも、ともすれば先日クロエに仕立ててもらったものよりも高級な代物だ。私が元の大きさに戻れた暁には、私本来のサイズに直してもらえないだろうか。いや、デザイン的に大人の私が着るのはきついか。
 閑話休題、自分のものではない靴なので、ネロの言うとおり歩きにくいのは事実だ。サイズが合っていたところで、こればかりはどうしようもない。
 そう説明すると、ネロはほとんど思考することもなく、
「抱えてやろうか?」
 と当たり前のように切り出した。その突拍子もない言葉に、驚いたのは私の方だ。
「えっ!? か、かか!?」
 驚いた拍子に、うっかり転びそうになる。ネロが咄嗟に腕を差し出し庇ってくれたおかげで、何とか転ばずに済んだ。よかった。スノウ様からいただいた衣装を転んで汚すのは忍びない。
 いや、そんなことを考えている場合ではなかった。私は驚いて、ネロの顔を見上げる。ネロは困ったように眉尻を下げ、私を見ていた。
「いや、だって本当に転びそうで見てられないんだよ。中身はナマエだって分かってても、見た目はいたいけなちびっこなわけだし」
「でも、その、抱えてもらうというのは……いくらなんでも、はずかしいのですが……」
「ちびっこでも?」
 逆に、ネロはちびっことはいえ私を抱きかかえて恥ずかしくないのだろうか。私は一応成人した女であって、ネロに好意を抱いているのだが。
 聞いてみたい気もしたが、やはりこれも結局聞けなかった。恥ずかしいと言われたら居たたまれないし、恥ずかしくないと言われたら、それはそれで私がショックだ。そこまで意識されていないとは思いたくない。
 私が返事に困っていると、ネロがくしゃりと私の頭を撫でた。ネロはたびたび私の頭に手を乗せるが、自分が小さくなっているせいで今日はその手が随分大きく、厚く感じられた。
「あんたが嫌ならやめる。行こう」
 そう笑って、ネロはまた歩き出す。その隣を歩きながら、私は降って湧いたような話に、ひたすら心を焦らせ悶々としていた。
 いくら外見が子供だからといったって、抱きかかえられるのは流石に恥ずかしい。だからといってみすみすこの機を逃すのは如何なものか。未だかつてないほど、ネロの方から私に歩み寄ってくれているのだ。これはやはり、好機とみるべきだ。
 ぐっと、拳をにぎりしめる。たとえそれが「子供には優しくしたいから」「子供が好きだから」という私自身とはまったく無関係の理由からであったとしても。
 それでも、そのことを分かっていても、私はなお、ネロの優しさに触れたかった。
 逡巡ののち、私はゆっくりと歩くネロの袖を小さく引いた。私が足を止めると、ネロも立ち止まる。
「あの、ネロ」
 ネロの優しさは、言うなれば中毒性のある甘味のようなものだ。一度その味を知ってしまえば、何度でも優しくしてほしくなる。何度でも、ネロの優しさに触れたくなる。
 たとえ少しくらいずるいことをしたって、私はネロに近づきたい。そう思う心を止めることはできない。
「その、抱きかかえるかわりといってはなんですが、てを、つないでもらえませんか?」
 恥を忍んで、私は言った。ネロが、私を見下ろし怪訝そうにしている。その顔を見ていると、自分から切り出したことなのに、恥ずかしさがこみ上げてきてたまらなくなった。
 しかし、今更「やっぱりなしで」とも言えない。これはあくまで、転ばないようにするための提案。ネロの提案に乗っかっただけの、それだけのこと。そう自分に言い聞かせる。
 顔が熱くなるのを感じながら、私はもう一度ネロの袖を引いた。
「その……だめですか……?」
 祈るような気持ちで、ネロからの返事を待つ。
 暫しの沈黙ののち、ネロは小さくにやりと笑って答えた。
「いいよ」
 そうしてネロは、ネロの袖を引いていた私の手をそっと、まるで壊れ物でも扱うような優しい手つきで握った。女の手を握る手つきではなく、あくまでも小さな子供の手を引く、あたたかなやさしさと、少しの戸惑いを感じさせる手つきで。
「ちっさい手」
 ネロが、独り言のように呟く。その瞬間、はっと、息が止まったような気分になった。
 人と関係を築くことを避けてきたネロが、子供と触れ合う機会をあまり持たずに生きてきたことは想像にかたくない。子供は大人以上にはやく成長する。そして大人以上に、低い視点から色々なものを観察している。いろいろなものを看破してしまう。
 魔法使いであることを隠し、人と必要以上に深い仲になることを避けて生きてきたネロ。彼はきっと、子供に優しく触れる機会も持たなかったはずだ。仮にネロが望んだとしても、彼が彼らしく生きていくためには、そこに情を育んではならなかったはずだから。
 そのネロの純粋なやさしさを、子供に対する不器用な慈愛を肌で感じたのと同時に、このちっぽけな胸がぎゅっと、内側から潰されたように苦しくなる。ネロの善意を利用して、子供の姿を利用して、ひどくずるいことをしている気がした。
 もちろん、これがずるだと私は分かっていたのだ。分かっていて、それでもネロの手に触れたくて、私は自分のずるさに目を瞑った。役得だなどと誤魔化そうとした。
 それなのに、ネロの手のぎこちなさを感じるたび、罪悪感がひとつずつ、小さな鉛粒のように胸の中に降りつもる。
 不器用ながらも誠実なネロに対して、自分はなんと姑息で怯懦な性格をしているのか。そのことを目の当たりにして、人知れず打ちのめされる。
「これ今日どのみち仕事したところで大して何もできなかったんじゃねえのか?」
 私の胸のうちを知らず、ネロの声はやさしい。
「そうかもしれないです」
 答える声が、固くなっている。ネロは気付かず、笑っていた。
「まあ、たまにはこういう日もあるさ。ファウストが部屋から出てきて元の姿に戻してもらえるまで、ゆっくりちびっこライフを満喫すればいい」
 手と手を繋いだままでネロから与えられる言葉は、やさしい言葉のはずなのに、何故だか私の心をちくちくと刺す。ネロがやさしければやさしいだけ、こうして手をつなぐために自分がずるいことをしたのだということが、じわじわと私の中の善の心をむしばんでいく。
 それなのに、この手を離したいとは思えないのだ。
「ネロ、ありがとうございます」
 食堂につくまでの短い時間、私はずっと、ネロの手を強く握っていた。

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