19

 その後、遅れてやってきた南や西の魔法使いたちが朝食を摂り終え、朝の忙しい時間にもようやく終わりが見えてきた頃。
 食器の後片付けをネロに任せ、私は次の仕事に移ることにした。この小さな手では皿一枚持つのにも一苦労だし、握力もないから皿を何枚か割りかねない。そんな危険を冒すくらいならば、余計な手出しはしない方がいい。
 食堂用のエプロン──これもスノウ様が魔法でサイズを調整してくれたものだ──を外し、掃除用のエプロンに着替える。普段はカナリアさんとある程度分業しているので着替えることも少ないが、ひとりで仕事となるとそれなりに慌ただしくもなる。
 人目につかないよう食堂の端でこそこそエプロンを変えていたのだが、今の私は小さいせいで却って人目を引くようで、
「待った。どこ行くんだ?」
 食堂をこっそり出ていこうとした寸前、ネロから声を掛けられた。その声には、何となくだが私が勝手に歩き回るのをよしとしないような響きがある。
 魔法舎の基本規格は成人を対象にしている。だから今の私の身体のサイズでは、何かと不自由なこともあるだろう。実際、皿洗いはできそうにないということもさっき分かった。
 しかし、私は食客としてここに滞在しているわけではないのだ。働かざるもの食うべからず──ではないが、働かなければお給料はもらえない。身体が縮んだからと言って、遊んでいるわけにはいかない。
「まほうしゃの、おそうじに」
 やめろと言われるだろうか。小声で答えた私の声には、食事を終え、シノと今日の訓練の計画を立てていたヒースクリフ様の方から返事が返ってきた。
「掃除って、今日はもういいんじゃないかな。一日くらい掃除しなくたって大丈夫だと思うけど……」
「でも、ヒースクリフさま、おしごとですから」
「そのちびっこい身体で、掃除の道具をちゃんと扱えるのか? 高い場所に手は届くのか?」
 シノの手厳しい指摘に、私は言葉に詰まった。皿洗いよりはましだろうと思って掃除を挙げたのだが、実際この身体でどの程度きちんと掃除ができるかと言われると、甚だあやしいものだ。何せ自分の部屋をちょちょっと掃除するだけとは訳が違う。何につけても広くて大きなこの魔法舎の掃除となると、大人でもそれなりの力仕事になる。
 返答に窮し、私は暫し無言でシノを見つめた。シノの言葉はそっけないが、実際には別に私がどうしようと関係ない、と思っているだろうことがひしひしと伝わってくる。シノはあくまでヒースクリフ様の意見に同調しただけで、ついでにいえば現実的な意見を述べたに過ぎない。
 働かざる者食うべからずの原則は、恐らく私よりもシノの方が身に染みて知っている。そしてまた、役に立たないものが無理に働こうとしたところで、誰も得をしないということも。
 そんな私とシノの間に入ったのは、やはりネロだった。ネロは私の頭をまたぽんと叩くと、
「賢者さんもああ言ってたことだし、今日はあんたも呪い休暇ってことにしておけよ。アーサーに後で言えばいいだろう」
 そう言ってさりげなく私の作業用のエプロンを取り上げた。せっかくスノウ様に用意してもらったものだが、多分ここはネロとヒースクリフ様、そしてシノの方が正しい。
「はい……」
 しょんぼりと頷くと、私は食堂を後にした。

「とはいっても……きゅうにおやすみいただいたところで、とくにやりたいことも、このからだでできることもないしなぁ……」
 食堂を出た私は、ほとんど愚痴のような独り言をつぶやき溜息をつく。
 ただでさえ長い廊下が、今日はさらに長く感じられる。子供の歩幅ではこんなものなのかと思う一方で、視線の位置が低いことで目新しい風景にも感じられた。リケやミチルはもう少し身長が高いが、双子とはあまり変わらないくらいまで縮んでいる。双子はいつもこういう景色を見ているのかと思うと、なんとなく不思議な気分になった。
 人間と魔法使いというだけで、何もかもが違っているように感じることもある。しかしたとえばこうして視線の高さが変わる、ただそれだけで、目に見える景色は一変する。
 だから如何というわけではないのだが、そのことを思うと、もしかしたら人間と魔法使いの間にある差異だって、案外その程度のものなのかもしれない──というのは、さすがに楽観が過ぎるだろうか。
 そんなことを徒然と考えながら、私は書庫へと足を運んだ。書庫といっても、置いてあるのは歴代の賢者様が残した賢者の書ばかりだ。何かを読みに来たわけではなく、掃除をしにきただけだった。踏み台を使っての叩き掃除ならば、この身体でもできる。
 無造作に置かれていた踏み台を壁際まで押していくと、その上によじ上り、窓を開けた。古くなった紙とインクのにおいに満ちた空気が、新鮮な緑のかおりを含んだ空気と混ざりあう。吹き込む風はさわやかで気持ちいい。
 ふと窓の面した中庭を見ると、そこではすでに東の魔法使いたちが、何やら魔法の訓練らしきことを始めていた。ついさっきまで食堂にいたのに、切り替えが早い。その様子を眺めながら、以前ネロから聞いた話を思い出す。
 東の国の授業は、実践的な訓練よりも座学に重きを置いているらしい。ヒースクリフ様もシノも魔法使いとしては若く、今はまだ知識を付ける段階だから、ということらしい。だからだろうか、今中庭で実践的な自主練をしているヒースクリフ様とシノは、真剣ながらも楽しそうに見えた。
 そんなふたりを、審判役なのか隣で眺めていたネロが、つと視線を上げる。咄嗟に私は踏み台の上にしゃがみ、外から見えないよう身を隠した。悪いことをしているわけではないが、今日はもう休みと決めてしまった手前、こうして掃除にいそしんでいるのがばれるのは恥ずかしい。本来そう勤勉な人間でもないので、真面目で堅物だと思われても困る。
 暫し身をひそめたのち、恐る恐る窓の外をふたたび覗く。すでにネロの視線は目のまえの訓練に向けられており、私はほっと息を吐いてから掃除を再開した。

 換気や片づけ、掃除をしていたら、いつのまにか結構な時間が経っていた。書庫には時計がないので正確な時間は分からないが、お腹の空き具合からしてもうじきお昼だろうか。
 いや、今の私の身体は大人の身体ではないのだ。朝もたくさん食べたとはいえ、いつもの半分も食べられていない。腹時計などまったくあてにはならない。
「とりあえず、へやに戻ろうかなぁ」
 みんなの昼食はネロが作ってくれることになっている。この小さな身体でも多少の給仕くらいはできるだろうから、それまでは自分の部屋で過ごすことにした。
 しかし、ここでひとつ問題が発生した。
 自室の前までやってきたはいいものの、今の私ではドアを開けられないのだ。
「あらまぁ……」
 呑気な声が口からこぼれるが、呑気にしている場合でもなかった。
 書庫のドアは入室時にはドアを押せばよかったので、ドアの取っ手に手が届かずとも入室することができた。ドアはそのまま開けっ放しにして掃除をしたから、退室にも問題はなかった。
 しかし、自室のドアはドアノブを回すタイプの開き戸だ。ドアノブに手が届かなければ、ドアを開けることもかなわない。いつもスノウ様とホワイト様はどうしているのだろうか、と考えたところで、ふたりは魔法使いなのだからドアを開けることくらいは造作ないのだろうと気付く。いや、スノウ様もホワイト様も私の身体よりは大きいので、ドアノブには手が届くのかもしれないが。
 とにかく、ドアが開かなければどうにもならない。異様に大きく見えるドアの前で、私は途方に暮れていた。背伸びをすればぎりぎり、中指の爪の先がドアノブに触れることができるくらいだ。何か踏み台になるものがあればいいが、生憎とそう都合のいいものが転がっているはずもない。
 さて、如何したものか。
 腕を組んでドアを睨むこと数分。私とドアの膠着状態は、
「何してんだ?」
 たまたまそこを通りかかったネロによって、唐突に打開された。
「ネロ!」
 思わず見た目の年相応にはしゃいだ声が出た。恥ずかしくなって、慌てて口をおさえる。ネロは一目見て、私の現在置かれている状況を理解したようだった。
「ドア、開けられねえのか? あんたが部屋に戻ってから結構経つけど、まさかここでずっとドアと格闘してたなんてことはないよな?」
「だいじょぶです、まだ三ぷんほど」
「そこそこ格闘してるじゃねえか」
 苦笑して、ネロは私の部屋のドアノブを回してくれた。普段から就寝時以外はろくに鍵もかけていない。ドアはいとも容易く開いた。
 ネロにお礼を言い、部屋に入る。朝出てきたときにドアを開けるために使った椅子が、出入口の前にどんとそのまま置き去りになっていた。朝の時点で椅子を使わなければ部屋を出られなかったというのに、それを忘れて部屋のドアを閉めてしまうあたり、朝はそれなりに動揺していたのだろう。
 と、そこで私はふと気付いた。
「そういえば、ネロはどうしてわたしが部屋にもどったって知ってたんですか?」
 たまたま通りかかったものだとばかり思っていたが、それだと先程のネロの台詞に説明がつかない。たまたま通りかかったというのなら、私がここで数分にわたってドアと格闘していたことは知らないはずだ。
「書庫の窓が閉まったから」
 あっさりとネロが言った。見ると私がまた出入りに困らないように、ネロはわざわざ部屋のドアを押さえてくれている。
「書庫で掃除してただろ? だから窓が閉まったとき、掃除が終わって戻ったんだなと思ったんだよ」
「お気づきでしたか」
 ばれたら気恥ずかしいので、こっそり掃除していたつもりだったのだが。しかしネロは苦笑交じりに続ける。
「あんた、あれで隠れたつもりだったのか。俺だけじゃなくシノたちも気付いてたよ」
「おはずかしいかぎりです……」
「まあ手持無沙汰っていうのは、なんとなく居心地悪いよな」
 そう言って、ネロは笑った。私は余計に気恥ずかしくて、顔を俯けた。
 それにしても、私が困っているときには決まってネロが助けてくれる。別にネロに助けてほしくて困っているわけではないのだが、こうもタイミングがいいと、私の思いがまるで神様に応援されているような気分だ。
 本当に神様に応援されている人間は、きっと小さくなる呪いなど掛けられないのだろうが、それはそれとして。
 私はソファーによじ登ると、部屋の窓を開け、それからネロに向き直った。
「ネロ、ありがとうございました。またお昼のじゅんびのころになったらちゅうぼうに行きますので、あとはだいじょぶです」
 ネロは短く「ああ」と返事をする。が、返事をするだけでドアの前から動こうとはしない。
 ぼんやり立ったままのネロからの視線を感じ、意図せず小さな体がぎゅっと熱くなる。ネロの視線に他意はなさそうだったが、それでもやはり照れてしまうものは仕方がない。好きな人からの視線なんて、それだけで心を乱す劇薬のようなものだ。
 なんだろうか。小さくなったということ以外、特におかしなことはないはずだが。ドキドキしながらネロの言葉を待っていると、ややあって、ネロがしみじみと発した。
「しかし小さい身体っていうのは不便だな。自分の部屋ひとつ入れないんじゃ困るだろ」
 心底同情するとでも言いたげな物言いだった。察するに、どうやらネロは私以上にこの身体の不便さを感じているらしい。そりゃあ自室に入ることすらできなかったのだから、間違いなく不便ではある。
「そうですね。とりあえず、きょうはもう部屋のドアはぜんかいにしておくしかないかもしれません」
「それは物騒だからやめといた方がいい。ここ、手癖悪いやつもいるぞ」
 誰のことかと聞くまでもなく、ブラッドリーのことを言っているのだろう。彼は囚人で、元盗賊の首領だ。ここでその手の悪事を働いたとは聞かないが、やろうと思えばやれないわけではないに違いない。
 しかし、それこそ杞憂だ。
「だいじょぶですよ、かねめのものはもってないので」
「そういう問題でもないと思うけど……」
 まあいいや、とネロはあっさりその話題を切り上げた。それからようやく室内に背を向けると、首だけ巡らせ、にやりと笑う。
「ジュースでも持ってきてやろうか? 厨房にたしかビスケットの残りもあったっけ」
「そ、そんなこどもあつかいはよしてください」
「じゃあジュースだけにしとくか。昼飯の前におやつ食べるとご飯食べられなくなるもんな」
「ぐう……」
「冗談だよ。今持ってきてやるから待ってな」
 そう言って部屋を出ていこうとするネロを、私はソファーからぴょんと飛び降り、慌てて呼び止めた。
「まってください。わたしも行きます」
「いや、ジュース取ってくるだけだから」
「わざわざネロをいかせるなんて、それじゃあわたしがネロのことをつかいばしりにしてるみたいじゃないですか」
「別に構わんけどね」
 ネロが構わなくても私が構う。ただの小間使いに過ぎない私が賢者の魔法使いであるネロを便利に使うなど、逆ならばともかく、あってはならないことなのだ。
 慌ててネロに駆け寄った私に、ネロが小さく肩をすくめた。芝居がかった仕草は、彼にしては珍しい。そういう仕草をしても、ネロならば格好がついてしまうのが凄い。
「まあいいや。あんたも部屋にいても暇だろうし。いっちょ探検に行くか」
「またそうやってこどもあつかいを!」
 言い返した私に、ネロが楽しそうに声を立てて笑った。

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