17

 魔法舎に戻るとすぐ、私はフィガロ先生の部屋に担ぎ込まれた。寄り道をしながら帰ったが、実際にはネロは相当急いで箒を飛ばしてきたらしい。それが極寒の沼に放り込まれた私を心配してのことだというのは言うまでもない。
「魔法使いならいざ知らず、人間は本当に些細なことでもすぐに死んでしまうからね。それなりに長く生きている魔法使いならば皆、そのことは嫌というほどよく知っている。ネロも多分、気が気じゃなかったと思うよ」
 というのは、私を診察したフィガロ先生の言だ。本当ならばすぐにでも魔法舎に私を連れ帰ろうとしていたところを、予定変更してまで私のわがままを聞いてくれたのだ。つくづくネロには迷惑しか掛けていない。
 診察時、南の国出身のフィガロ先生に聞いたところによると、私を襲ったあの木は正しくは月光樹ではないらしい。ただ、月光樹によく似た葉と実がつくので、知らずに間違い実を採ろうとする人間や動物も少なくないそうだ。そうして近寄ってきた生き物を、あの蔦で絡めとって地面に叩き落とす。絶命した生き物の血肉を養分とし、蔦や根から吸い上げる。あの木はもう、そうして何年もあの場所に佇立し続けているのだ。
 本来は南の国にも自生していたが、開拓に伴い南では伐採された。人間が暮らしていくためには、あまりにも凶悪な植物だったから。
 汚濁の澱の沼のほとりに草木のたぐいがなかったのも、恐らくはあの木のせいだろう。あんなにも寂れた場所であれば、生き物が通りかかることの方が少ない。足らない養分を、木はほかの植物を養分とすることで賄っていたのだ。

 明くる日。
 可愛らしく包んだケーキを持って厨房を出ると、ちょうどオーエンさんがひとり、ふらふらと食堂に入ってきたところだった。彼がすすんで食堂に顔を出すことは珍しい。甘い匂いにつられてやってきたのだろうか。厨房と食堂は今、ひと嗅ぎしただけで胸がいっぱいになりそうなほどの甘いにおいが充満している。
 オーエンさんはにおいの元を探しているのか、きょろきょろと周囲を見回していた。
「オーエンさん」
 声を掛ければ、オーエンさんがつとこちらに顔を向け、それからにたりと笑う。自分でも強張った声だと思ったが、やはりオーエンさんにも私の緊張は伝わったらしい。愉しそうに口角を上げると、ゆったりとした歩調でこちらに歩み寄ってきた。
「なんだ、無事に帰ってこられたんだ。残念」
 悪びれることなく言い放たれ、私はぐっと言葉に詰まった。謝ってほしいとまでは思っていなかったが、さすがにこうも開き直られると、どうしていいか分からなくなる。オーエンさんへの評価は「要注意」に書き換えたとはいえ、それでもまだ心の何処かでは嫌うべきではないのではないか、という思いがわだかまっている。
 そも、注意することと嫌うことも、まったく同じことではない。しかしオーエンさんのあからさまな悪意の前では、その区別をつけることはひどく困難だった。自分を嫌いな相手を、嫌わないまま警戒するということは。
 ごくりと喉を鳴らし、私はオーエンさんに一歩近づいた。オーエンさんはわずかに目を瞠り、私のことをまじまじと見つめる。その瞳は冷ややかで、ひとつでも受け答えを間違えればすぐにでも痛い目にあわされそうな恐ろしさがあった。
 私はただの人間だ。賢者の魔法使いでもなければ、まして賢者様でもない。唯一無二の存在ではないから、オーエンさんが殺すことを躊躇う理由がない。
 それでも、私はオーエンさんと対峙し、口を開いた。
「き、昨日は、行き先を間違えてしまわれたようで残念です」
「何それ。皮肉?」
 オーエンさんの返事を聞き流し、私は手に持った包みをオーエンさんに差し出した。
「それで、よければこれをどうぞ」
「……何これ」
「北のルージュベリーでつくったムースケーキです」
 オーエンさんが、ほんのわずかな躊躇ののち、私の手から包みを受け取った。長くしなやかな指が、ラッピングのリボンをするりと解く。包みの中の箱に入っていたのは、先ほど完成したばかりのケーキだった。
「残念ながら、月光樹の実は見つかりませんでした。でも、オーエンさんが北の国に『間違って』飛ばしてくれたおかげで、貴重なルージュベリーを安く手に入れることができました。これはそのお礼です」
 オーエンさんは何も言わない。視線はケーキに釘付けになっているが、それはケーキを楽しみにしている者の目とは言い難かった。
 疑っているのだろう。私のケーキが、オーエンさんにとって何らかの害をなすものではないのかと。
 もちろん、そんな細工はしていない。オーエンさんに渡したのはただのケーキだ。しかもホールで作ったものを切り分けたひと切れ。ケーキはオーエンさん以外の相手にも振る舞うつもりだった。
 オーエンさんは何も言わない。突き返されるのならそれでもいいと思っていたが、その気配はなさそうだった。
「あの、それでは、私はこれで」
「待ちなよ」
 厨房に引き返そうとした私を、オーエンさんが引き留めた。まさか引き留められると思っていなかった私は、足を止め、恐る恐る振り返る。
 オーエンさんは一瞬つまらなさそうな表情を浮かべた。しかしそれを瞬きほどの短い時間で消し去ると、またいつものような妖しげな笑みを私に向け、呪文を唱えた。
 すわ攻撃かと、思わず身構える。しかしオーエンさんの呪文は、ケーキの入った包みを宙に浮かばせただけだった。
 ラッピングリボンの端が、ケーキの包みが上下にぷかぷか揺れるのに合わせて翻る。私の怯えた顔を見て、オーエンさんは満足そうに声を立てて笑った。
「また何処か行きたい場所があったら、僕が飛ばしてあげる。もちろん行き先を『間違える』かもしれないし、見返りはもらうけど」
「ど、どうもありがとうございますっ」
 今度こそ、私は食堂から厨房へと逃げ帰った。これ以上オーエンさんの目を見ていると、自分の中の何かがぐらつき壊れてしまいそうな気がした。

 駆けこんだ厨房では、ネロが調理器具の片づけをしていた。食堂での私とオーエンさんの対決──もとい会話は筒抜けだったようで、気の毒そうな顔を私に向けている。
「お疲れさん。オーエン相手によく頑張ったよ」
「オーエンさん、すっごく怖い顔してたんですけど……」
「まあ大丈夫だろ。ムースケーキは文句なしに美味しいものができたし」
「ありがとうございました。ネロがつきっきりで教えてくれたおかげです」
 そう言って私は、厨房に置かれた作業台の上を覗き込んだ。
 作業台の上には、つるりと滑らかなムースの上に紫色のルージュベリーが飾られた、目にも美味しいムースケーキが置かれている。初心者にもやさしいレシピを使ったとはいえ、普段料理を一切やらない私には、それなりにハードルの高いケーキだ。ネロがいてくれなかったら、きっとここまできれいなケーキは完成しなかったに違いない。
 北の国でルージュベリーを見つけ、ムースケーキを提案してくれたのもネロだ。だから正真正銘、一切の誇張なく、これはネロがいなければ作ることができなかったケーキと言える。
「お役に立ててよかったよ」
 調理器具を洗い終え、ネロはゆるりとこちらに近づいてきた。私はケーキを大きめにひと切れ切り分け、それをお皿にうつし、やってきたネロに差し出した。
「それで、はい。切って載せただけで申し訳ないんですけど、これをネロに」
「いや、俺はいいよ。さっき味見させてもらったし」
 ネロの目が、少々の困惑と申し訳なさを滲ませて、ケーキの断面に注がれる。その目を見て、おや、と思った。
 私はてっきり、ネロのためにケーキを作ろうとしたことが当のネロにバレているかと思っていた。私が必死で材料を採りに行ったのも、元をたどればネロへの恋心に起因する。私の気持ちを知っているネロならば、北の国──本当は南の国のつもりだったが──までケーキの材料を採りにいったことと、私の奥歯にものが挟まったような説明だけで、すべての事情を理解するだろうと思っていた。
 しかしネロのこの反応から察するに、もしかしたらネロはまったく気が付いていなかったのかもしれない。
 ケーキを贈られるのが、自分自身だということに。
 はっとした。それと同時に、言いようのない感情がお腹の底から喉元へ、急速にせり上がってくるのを感じる。
 もどかしくて、苛立たしくて、切なくて、悲しくて。私が何かを思うのはお門違いと分かっていても、こみあげる感情を、情動を、なかったことにはできない。
 どうしてこうも、不器用なのだろう。私も、ネロも。
「あー、でも折角あんたが頑張って作ったものだし──」
 まだ何やらもごもごと言うネロの言葉を遮って、私はケーキの皿をネロに突き付ける。
「これは元々はネロのために作ったものなので! ネロに食べてもらえなければ、死にかけた甲斐がないんです!」
 勢いに任せ、はっきりと、そう告げた。ネロが怪訝そうに私を見る。やはりまだ、よく分かっていなさそうな、覚束ない顔つきをしていた。もどかしさが、またせり上がってくる。
「俺? あんたが俺にケーキを?」
「はい。その、ここで働き出してからネロには色々とお世話になりっぱなしですから。少しでもお礼がしたくて……。ネロに一番気持ちが伝わるのは、やっぱり料理だと思ったので」
 言葉にしながら、私はネロの反応を窺った。ネロにしては随分と、反応が鈍い。もしかして重いとか、迷惑だとか思われたのだろうか。私は慌てて言葉を継いだ。
「あっ、でもあの、カナリアさんや賢者様にもお渡しするものなのでっ! 感謝以外の含みというか他意みたいなものはなくてですねっ!? でも、あの、だけど──」
 だけど、一番はネロのために。
 ネロのために、何かをしたかった。
 結局は、そんな言葉に落ち着いた。ネロは途方に暮れたような顔をして、居心地悪そうに立ち尽くしている。そんなネロを、私はじっと見つめていた。ただ、見つめていた。
 やがてネロが、ぽつりと言った。
「ありがとう。ありがたく食べさせてもらうよ」
「……こちらこそ、ありがとうございます」
「なんであんたがお礼を言うんだよ」
 ネロが笑う。私も合わせて笑った。それ以外に、どうしたらいいのか分からなかったからだ。
 胸がつきんと小さく鈍く痛んで、全身を遣る瀬無さが襲う。
 ネロに優しくすることは難しい。ネロは当たり前のように私に優しくしてくれるのに、ネロ自身は優しさを扱いあぐねているような気がするのだ。彼から湧き出るものを与えることはできても、人から与えられることにはとことん不得手。こちらがよかれと思ってしたことが、ネロの心を傷つけかねない。
 先程ネロが途方に暮れた顔をしたとき、本当は少しだけ後悔した。下心を出して余計なことをしなければよかったと、そう思った。ネロが作った「適切な」距離感を、みだりに乱すべきではなかったのかもしれないと、そう思ったのだ。
 今もまだ、その思いは胸に残っている。自分は余計なことをしたんじゃないだろうかと、疑問が胸にわだかまっている。
「ん、どうした?」
 私が棒立ちになっていることに気付き、ネロが視線を合わせた。こういうとき、何と答えるのが正しいのだろう。何と答えれば、一番ネロの優しさに応えられるのだろう。
 賢者様なら、何と返事をするのだろう。
 詮無いことを考えて、それで結局、私は思ったままを口にする。
「その……正直に答えてほしいんですけど、迷惑でしたか?」
 私の問いに、ネロはかすかな微笑を崩さぬまま首を傾げた。
「なんで?」
 ネロが問う。声音は優しい。少しだけ、ほっとした。ほっとしたら、言葉がつるりと口からこぼれた。
「困ったなって、ネロの顔に書いてありました」
「ナマエって結構人の顔色を窺うよな。東の人間の習性?」
「ネロだって、人のこと言えないじゃないですか」
 たしかに、とネロが笑う。そして視線を私からケーキに移し、ネロは言った。
「職業柄、人に料理を振る舞うことは多いけど、誰かからこうやって俺のためにって料理やデザートを贈られるっていうのは、もう随分と久し振りだったんだ。最後に誰かが俺のためにって料理を作ってくれたのがいつだったか、自分でも曖昧になるくらい久し振りだった。だから、嬉しかったんだよ。思いつきもしない嬉しい贈り物をされたら、誰だって最初は戸惑うだろ?」
 ネロの言葉は淀みない。その言葉にきっと、嘘はひとつもないのだろう。
 ただ、それがすべてではないはずだ。本当にそう思ってくれているのなら、喜びだけを感じてくれているのなら、ネロはきっともっと、違う顔をした。違う言葉で、違う目をした。
 私は視線を床に落とし、それからまたネロを見据えた。
 また、距離をとられた──そう感じながら。 
「じゃあ、ネロは喜んでくれたと思っていいんですか?」
「もちろん」
「それなら、よかったです」
 それ以上の追求はできなかった。ちょうどそのとき、食堂にぞろぞろと入ってくる魔法使いたちの声がしたからだ。
 中途半端で不完全燃焼な思いを胸の奥に押し込んで、私は頭を切りかえる。ネロと話したいことは山のようにあったが、どのみち今の状態では何処から手を付けるべきかも分からなかった。
 微妙な気まずさを空気の中に感じとったのか、ネロが彼らしくもなく陽気に切り出した。
「そうだ。折角だから紅茶でも入れるか。西の魔法使いたちと賢者さんからの土産がここに置いてあるんだ。あんたも一緒にどうだ?」
「それでしたら残りのケーキも切り分けます。珈琲も淹れましょうか」
「そうだな、それがいい」
 しこりのように残った気まずさに見て見ぬふりをして、私とネロは慌ただしくお茶の用意を始める。近づいたと思えば離れていく。自分は誰より優しいのに、人から優しくされることに悲しくなるほど不得手。ネロという魔法使いの複雑さを思い、人知れず私は嘆息した。

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