15

 ある日の昼下がり、私は人のいない談話室で、カナリアさんから借りたお菓子のレシピ本を捲っていた。大きな窓から差し込む陽の光があたたかく、うっかりするとこのまま微睡んでしまいそうな長閑さだ。喧噪とはほど遠い。
 ここのところ、魔法舎の裏方である私とカナリアさんは目が回るほどの忙しさを味わっていた。国外から貴賓を招くため人手が必要、とカナリアさんがお城に呼ばれ、数日間私はひとりでふたり分の仕事にてんやわんやになっていた。私がここに来る前はカナリアさんひとりで回していた仕事のはずなのだが、小間使いがふたりに増えたことを受け、いつのまにか魔法舎内での仕事はずっと増えていた。
 そんなわけで、今日の午後の休みは慰労休暇ということらしい。羽を伸ばしてきてね、とカナリアさんににっこり言われ、私は片づけをしていた倉庫をぽいと追い出されてしまった。
 とはいえ私は職場と住居が同じ場所にあるうえに、中央の国には特に知り合いもいない。町に出て無駄遣いをするよりは節制、倹約を好むたちでもあるので、休暇を言い渡されたところで特に何をするわけでもなく、こうして本を眺めているくらいしかすることがない。
 しかし、暇でやることがないから仕方なしに本を眺めている、というわけではない。このぽっかり空いた時間を有効活用するべく、カナリアさんおすすめのお菓子のレシピ本を借りたのだ。お菓子を贈る相手にはあてがある。今はひとまず何を作ろうか、メニューを決める段階だった。
「うーん……何がいいかな、ネロへのお礼のお菓子……」
 気だるげなネロの顔を思い浮かべながら、私はページを捲った。お菓子を贈るあてというのは、言うまでもなくネロだ。
 なんだかんだと忙しくしているうちに遅くなってしまったが、かねてからネロにはお礼をしようと思っていた。何のお礼なのかといえば、私がここで働き出してから、何くれとなく面倒をみてくれていることへのお礼だが、一番は母との一件で色々とお世話になったことへのお礼だ。
 普段厄介ごとに巻き込まれるのを厭うネロが、他人の家庭の問題という面倒なことこの上ない問題に行きがかり上しかたなく巻き込まれ、そして見事私と母の仲裁をしてくれた。
 あれ以降、母との関係は良好だ。時々は母から返事の手紙もくるし、そこには魔法使いの皆さんによろしくといった、以前の母からはとても聞けなかったであろう一文まで添えられるようになった。
 すべてはネロのおかげだ。だからどうにかして、ネロにはお礼をしたかった。
 もちろん、ネロと話す口実がほしいという下心もあるが──それはそれ。悪いことをしているわけではないのだから、ちょっとの下心くらいは大目に見てもらえるはずだ。
 そんなことを考えながら、視線はページの上を滑っていく。私に調理スキルがないことは今更言うまでもないので、できれば簡単そうで見た目が華やかで、かつ手が込んでいそうに偽装できるものがいいのだが──
 と、ページをさらに捲ったちょうどそのとき。
「そこ、ぼくが座ろうと思っていたんだけど」
 誰もいなかったはずの談話室で声を掛けられ、私は驚き悲鳴をあげた。ばくばくと騒ぐ胸を手で押さえ、私は背後を振り返る。そこにいたのはすらりとスーツを着こなした、オッドアイの美男子だった。
「お、オーエンさん……」
「君、誰だっけ。ケーキを運んでくる従僕、だっけ」
「違いますが……」
 ひやりとした刃のような声ですっとぼけたことを言う。どうやら先日、私とネロが大量にケーキを買い込んできたのを覚えていて、それで私とケーキを結び付けて記憶したようだ。私がここで働き出したのはそれよりずっと前なのだが、ただ小間使いとして働いているだけの人間など、恐ろしい北の魔法使いのオーエンさんの目には部屋の中を塵が舞っているのと大差ないのかもしれない。
 いや、そんなふうに思うのは、これも魔法使いへの偏見か。
 よからぬ思考を振り払い、私は椅子から腰を上げた。
「すみませんでした、オーエンさん。今どきますので」
 しかしオーエンさんの目は、話しかけている私にではなく、テーブルの上に置かれたレシピ本に釘付けになっていた。
「甘いものつくるの?」
 意外な問いかけに、私は聞き間違いかと首を捻った。
「え? 今、なんて──」
「聞き返すな。殺されたいの?」
「す、すみません……」
 やはりオーエンさんは容赦ない。その言葉からは、冗談らしさというものが微塵も感じられない。オーエンさんはきっと、やるといったらやるのだろう。そう思うと背筋がぞっとした。
「あ、いいえ……ではなく、はい……」
「何が」
「ケーキを作る予定です」
「へえ。僕に?」
 もちろんオーエンさんにではない。何故今の今まで話したこともなかったオーエンさんに、私がケーキを作らなければならないのか。
 もちろんそんなことを言えば八つ裂きにでもされそうなので、私は努めて笑顔で──多分、口の端が引き攣ってはいただろうけれど──「……お望みであれば、オーエンさんの分も作ります」と答えた。私が退いた安楽椅子に腰かけたオーエンさんが、満足そうに笑む。
「そう。それじゃあ僕、これがいい」
 オーエンさんが指したのは、ちょうど開いていたページに大きく描かれたイラストだった。イラストの下に記された文字を、私は読み上げる。
「月光樹のタルト……」
 タルト生地の上に、たっぷりのクリームと半分に切られた月光樹の実が溢れんばかりに盛り付けられている。イラストでは分かりにくいが、月光樹の葉も、飾りとしてあしらわれているようだ。
 月光樹といえば、シャーウッドの森にもたくさん自生している。ただ、あの辺りはブランシェットの領地なので、勝手な植物の採取や収穫は法典で禁じられている。ブランシェット様に許可をもらった地元の住民だけが森番の案内で収穫し、一部をブランシェット様に献上したのち市場に出すことができる。
「月光樹……中央の市場では見たことがない材料だけど、何処か近くで売ってるところあるのかな」
 市場に出ていなくても、専門店ならば仕入れていることもあるだろう。ネロに聞けば一発で分かるのだろうが、そもそもネロのために作るケーキなのだから、できるだけネロにはケーキが完成するまで秘密にしておきたい。カナリアさんが知っていたら助かるのだが──
「南の国に自生してるよ」
 顎に手を当て思案していた私に、オーエンさんが横から教えてくれた。驚いてオーエンさんを見ると、彼はにこにこと妖しげな笑みを浮かべている。
「えっ、そうなんですか? というかオーエンさん、詳しいんですね」
「南の国の、どろどろした泥濘が腐敗したような沼のほとりに、その果実が実る木があるんだよ。その沼に沈んだ人間たちの味を知ってまるまると実った木の実が、月光樹の実」
「へ、へえ……」
 もしかして、南の国にある病の沼のことを言っているのだろうか。たしか南の国に、そんな名前の湖沼があるはずだった。一度は南の国に移住しようと思っていたので、有名な土地や場所の名前はそれなりに頭に入っている。
 しかし、記憶が確かならば病の沼はそのような怪しげな土地ではなかったはずだ。病の沼は観光名所とまでは言えずとも、珍しい水鳥が飛来することで有名な、それなりにゆたかな土地だったはず。
 だが、私の目のまえにいるのはオーエンさんなのだ。オーエンさんの言葉に変換すれば、如何な地上の楽園も腐敗した泥濘扱いされてしまうのかもしれない。ひとまず、私は納得した。
「でも、南の国ですか……。さすがに材料を取りにそこまでは行けないので、この辺りで材料を買いそろえられるものを作りたいんですが……それに、勝手に南の国のものを収穫してもいいものか」
「沼のほとりに生えている分は誰でも自由に採っていいことになってる。人間たちがつくった農園のものは駄目だけど」
「本当に詳しいですね……?」
 何故オーエンさんが南の国の事情にそこまで精通しているのだろう? オーエンさんは北の国の魔法使いなのに。それに、オーエンさんに限って南の国の植生図やそれらの取り扱いについて詳しいとも思えない。
 何か裏があるのだろうか。それとも、甘いもの好きが高じて知識を豊富に持っているだけなのだろうか。オーエンさんの妖しげな様子からは彼の考えや思惑が読み取れない。
 というか、オーエンさんの思惑がどうであれ、そもそも南の国までケーキの材料を採りにいくわけにはいかない。私がもらっている休暇は今日の午後だけ。列車に乗って南の国まで行ったとしても、今日中に帰ってくることは不可能だ。
「連れて行ってあげようか」
 まるで私の思考を読み取ったように、オーエンさんはやはり笑いながら言った。私は思わずオーエンさんを凝視する。
「ええっ!? お、オーエンさんが……ですか……?」
「空間転移魔法はミスラしか使えないわけじゃない。君ひとりを送るくらいなら、僕でもできないことはないよ」
「そう、なんですか……というかミスラさんはそんなことができるんですね……」
「僕もできるって言ったの聞いてなかったの?」
「ひっ、す、すみません……」
 謝りながらも、やはり怪訝に思う気持ちがむくむくと擡げてくる。
 オーエンさんとはこれまであまり話したことがない。だから私がオーエンさんに抱く印象は、ほかの誰かの口から聞いた彼の姿に依っている。そしてそれら人づてに聞いた話では、オーエンさんはこうして人間に親切にするようなタイプではないはずなのだ。
 けれど──
「僕が連れて行ってあげる。だけど今すぐに出発だよ、それ以外は認めない」
「今ですか!?」
 言うが早いか、オーエンさんは私の返事も待たずに呪文を唱えた。
「≪クーレ・メミニ≫」
「わっ!?」
 途端にその場に、ぐねぐねと縁の歪んだ穴のようなものが穿たれる。オーエンさんの手により談話室の空間に突如として出現したその穴は、一見しただけでは何処につながっているのかも分からない。穴の向こうに見えるのはただ真っ暗な闇。うねる闇だ。熱くも冷たくもない、それなのに人を不快にさせる微風が、かすかな生臭さを乗せ漂ってくる。
 この穴が、病の沼とつながっているのだろうか? 本当に?
「さあ、はやく」
「はやくって、オーエンさんは行かないんですか」
「じゃあ、生きていたらまた会おう」
「えっ」
 どん、と背中を突き飛ばされ、油断していた私の身体は大きく前に傾いだ。ひ、と声を漏らすより先に、手が宙を掻く。穴の向こうには縁も底も見えない。ひと度体勢を崩せば、そのままどこまでも落下していきそうだった。
「ちょ、オーエンさん!」
 倒れる寸前、私の背後で愉しそうな笑い声が聞こえた気がした。けれど傾いだ身体は穴の中に真っ逆さまに落ちていき、振り返ったそこにはすでに一縷の光すら残っていなかった。

 閉じた瞼の向こうがにわかに明るくなった気がした。足の下からは軟らかな地面の感覚が伝わってくる。ゆっくりと瞼を開くと、見たこともない場所に自分ひとりが、置き去りにされたようにぽつんと立っていた。
「ここが……南の国の病の沼……?」
 私を此処に送り込んだオーエンさんの姿は周囲に見えない。おそらく本当に私ひとりを飛ばしただけで、彼はまだ談話室の安楽椅子に腰かけているのだろう。
 周囲を見回す。病の沼──想像していたよりもずっとおどろおどろしい雰囲気の場所だった。たしかに湖沼が、あるにはある。私が飛ばされたのは沼のほとりのようだ。飛ばされた場所が数歩ずれていたら、今頃私は沼の中だったに違いない。
 しかしそれは沼というよりも、どちらかといえば大きなヘドロだまりのような様相を呈している。オーエンさんの「どろどろした泥濘が腐敗したような沼」という表現も、あながち間違っていない。というか、これ以上なくぴったりだ。
 が、そんな呑気なことを考えていられる状況ではなかった。
「さ、寒い……!」
 南の国だと思い油断していたが、病の沼というのは恐ろしく寒い場所だった。見渡す限り、視界に入るのは大きな沼とむき出しの地面。民家はおろか、周囲には植物すら少ない。荒涼とした土地には、吹きつける風を遮蔽するものが何もなかった。
 こんなにも寒いのに、不思議と雪は降っていない。ただただ寒く、そして静かだ。本当にこんな場所に水鳥たちが飛来したりするのだろうか。およそ生物の息遣いというものが、この場所からはまるで感じられなかった。
 それでも、目的の月光樹は生えていた。ちょうど沼の反対岸に、大きな木が一本、まるで忘れ去られたかのように生えているのが見える。そして大きく伸ばしたその枝葉の先には、この場所に相応しいひやりとした色の実が生っていた。
「あれが、月光樹か」
 侘しい雰囲気を少しでも和らげるべく、ひとりきりだというのにやたらと元気に独り言を発する。月光樹。果実が売られているのは見たことがあるが、木そのものを目にしたのはこれがはじめてだった。想像していたよりもずっと、さびしげな佇まいの木だ。
 寒さのため歯の根が合わず、身体はガタガタと震える。寒さの中でも分かるほどの沼の臭気に顔を顰めつつ、私はエプロンドレスの袖をうんと伸ばして指の先まで格納した。
「これ、どうやって帰るのか分からないけど、……多分、私が月光樹の実を収穫できたら、オーエンさんが察してまた空間をつなげてくれるはず……だよね……?」
 暫くすると、風が止んだ。自らの身体を抱きながら、月光樹を目指し、ひとまず沼の縁に沿って歩いて行くことにした。

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