14

「うーん……うーん……うううーん……」
 数歩歩いては方向転換し、足跡をなぞるようにして今踏んだのと同じ場所を歩く。私がネロの部屋の前をうろうろとし始めて、すでに三分近くが経過しようとていた。
 昼下がりの魔法舎は大抵、騒がしいながらものんびりとした空気が流れている。しかし今日はみんなそれぞれ訓練やら何やらと忙しいらしく、いつになく人気に乏しく閑散としていた。私が仕事をするでもなく、こうしてうろうろと冬眠前のクマのように歩き回っているのも、今日は忙しくもないからと夕飯までの数時間、カナリアさんに休むように言い渡されてしまったからだ。
 もっとも、休みといってもぐうたらしていていいわけではない。常の仕事とは別に、賢者様から特別な仕事を任されている。ネロの部屋の前でうろうろしているのも、その仕事を果たすためなのだが──
 と、私が数十度目の反転をしたちょうどそのとき。
 目のまえのドアがつと開き、中からネロがひょっこりと顔を出した。「わっ!」と思わず声を上げ、すぐに自分の口を手で塞ぐ。部屋の中にネロがいることは分かっていたし、分かっていたからこそうろうろしていたわけだが、いざネロが出てくると声を上げて驚くなど、我ながら愚の骨頂のような行いだった。
 ネロは狼狽える私を見下ろすと、
「さっきから何を人の部屋の前で唸ってんだ?」
 と怪訝そうに首をひねった。
「用があるときには普通、ドアをこう、コンコンって叩くんだ。それを人間の世界ではノックって言うらしい」
「そ、それは知ってます」
「あはは、悪い悪い。けど、じゃあノックしない理由は?」
 冗談めかして問われ、私は返答に窮した。いや、別に隠さなければいけない事情など何処にもないのだ。普通に用件を伝えればいい、それだけなのだが──
「その……」
「ん? そういや今日はやけに張り切った格好してるな」
 ネロは私の言葉を待たず、私の全身を眺めて怪訝そうに目を細めた。
「どうしたんだ? その服。クロエに仕立ててもらったのか?」
 ネロの指摘に顔が熱くなる。身体の中で、心臓がばくばくと騒ぎ立てていた。
 今日の私はいつもの仕事着であるエプロンドレスを着用していない。しかし雨の街から出てくるときに持参した、ぱっとしない普段着でもない。
 シンプルながらも全体に控え目な装飾と刺繍が施されたワンピースは、腰の部分が身体の線に沿うようにぎゅっと絞られている。反対にスカートの裾や袖はゆったりと品よく広がり、私のような庶民の娘もいいところの令嬢のように見せてくれる、奇跡のような逸品だった。
 ネロの言うとおり、クロエが仕立ててくれた衣装だ。私などには勿体ないからと言ったのだが、私のサイズに合わせて作ったものだから私以外に着られそうな人はいないと言われ、受け取るしかなかった。聞いたところでは賢者様やカナリアさんもクロエの仕立てた服を贈られたことがあるらしい。そう言われれば、なおさら断りづらかった。
 私は恥ずかしさから身をぎゅっと縮こまらせる。有難く受け取ったはいいものの、このような素晴らしい衣装が私ごときぱっとしない庶民にふさわしくないことは、私自身が一番よく分かっている。
「クロエが……、その、私の服があまりにもこう、地味でぱっとしないのを見かねて……」
「クロエにそう言われたのか?」
「クロエはそんなふうに言いませんけど、ムルが……」
「怒るに怒れないやつだな」
「はい……」
 とにもかくにも、そういう事情なのだった。元々クロエは、私が仕事着以外には一着しか外出着を持ってきていないことをずっと気にしていたらしい。部屋着は別にあるので別段困りもしていなかったのだが、おしゃれなクロエにしてみれば年頃の女が一着しか外出着を持っておらず、それもなんだかどんよりした曇り空みたいな色のくたびれたワンピースだけとなれば、気にせずにはいられなかったに違いない。
 ともあれ。
 この衣装を贈られたとき、たまたまその場に居合わせたのが賢者様だった。そうして賢者様から特命を受けるにいたった。
 私は伏せていた視線を上げ、ネロを見る。まだ半開きのドアの向こうにいるネロは、私の視線に気付くと何かを察したのか、わずかに眉根を寄せた。
 長く息を吐き出して、それから私は言った。
「それで、ですね……これは賢者様からの依頼なんですけれども、魔法舎から少し離れたところに新しくできたケーキ屋さんで、ネロと一緒にケーキを買ってきてほしいそうで……」
「はぁ? なんで俺が」
 ネロが今日一番の胡乱げな声を上げた。私は首を竦める。
 ネロが疑問に思うのも当然のことだった。今日は人気が少ないとはいえ魔法舎の中にはネロ以外にも魔法使いがいる。それにそもそも、賢者様はあまり人におつかいを頼むことはしない。人を顎で使うことなく自らの足で動こうとするのが、賢者様の良いところでもあり、多少危なっかしいところでもある。
「私だって、わか、分かりません……」
 むっつりとした顔のネロに、私はそう答えるしかない。
 もっとも、その返事は嘘だった。本当はどうしてネロに白羽の矢が立ったのか、私はもちろん知っている。賢者様は私のネロへの気持ちを知っており、私とネロが親しくしつつもいっこうに距離を縮めないことに、ひそかにじりじりしていらしたのだ。
 なんというお節介──いや、ご配慮。
 尊敬する賢者様にそこまでお膳立てしていただいては、私もそのご厚意を無下にするわけにはいかなかった。
 居たたまれない気分になりつつ、私はちろりと上目遣いにネロの様子を窺う。果たして、ネロはどこまで事情を読んでいるのか、困惑したような戸惑うような、そんな顔をしていた。
 ネロは首の後ろを掻く。それから再び私に視線を定めると、
「……それ、俺断ってもいいやつ?」
 と、遠慮がちに問うた。
「えっ……あ、はい……駄目なら仕方ないです」
「俺が断ったら、あんたはどうするんだ?」
「それは……まあ、ひとりでおつかいに行きますが……」
 ぼそぼそと口ごもりながら、私は答えた。
 残念でないと言えば嘘になる。が、無理にネロを引っ張っていくわけにもいかない。ネロは賢者の魔法使いとしてここで生活をしているのであって、賢者様の使い走りをするためでも、まして私のお守りをするためにここにいるのでもない。
 がっかりしているのを顔に出さないように努め、私はネロに一礼した。ひとりで行くというのなら、これ以上ここに長居をしても仕方がない。賢者様としては本来私とネロに一緒に行動してほしいだけで、別にケーキを買ってきてほしいわけではないのだろう。が、一度頼まれたおつかいはたとえひとりでも遂行しなければならない。
「それでは、ええと……お邪魔しました」
 そう言って踵を返した直後、「待った」とネロが私の肩を引いた。驚いて振り向けば、ネロは深々と溜息をつく。
「ったく、誰から誰までが確信犯の片棒担いでんだ? 賢者さんは黒として、クロエもか?」
「えっと、それはどういう意味ですか?」
「いや、別に」
 よく分からないことを独り言のように呟いて、ネロは私の肩から手を離す。そうしてもう一度これみよがしに嘆息すると、半開きのままのドアに手をかけ言った。
「いいよ、俺も付き合う。支度するからちょっと待ってな」
「は、はい」
 まだ何事かぼやきながらドアを閉めたネロに、私は慌ててお礼を言った。

 そう長く待たされることもなく、ネロは部屋から出てきた。見た目には先程までと変わりないが、よく見るとエプロンは外し、靴も普段履きではないきちんとしたものを履いている。
 私の視線に気付くと、ネロは「あんたがきれいな恰好してるのに、俺だけ適当な恰好してたら悪いだろ」とぞんざいな口調で言う。それだけで、ネロが私とネロにおつかいを頼んだ意図を理解しているのだと分かり、私は咄嗟に「なるほど」と気の利かない返事をした。
 魔法舎を出ると、ひとまず町の方に向かって歩き出した。
 魔法舎は比較的便利な立地にあり、周辺には店も多い。ここのところは魔法使いの巣窟である魔法舎に対する中央の国民の抵抗も薄まりつつあるのか、以前よりもさらに活気が増しているという。新しくできたケーキ屋さんも、この空前の賢者の魔法使い人気にあやかって出店されたそうだ。
 どっちの方角、と示さなくてもネロは迷いなく歩いて行くので、おそらく店の大体の方角はネロも知っているのだろう。料理人らしく、飲食店の情報には耳が早い。
「詳しい店の場所、分かるか?」
 しばらく歩いて行くと、ネロが尋ねた。ぼんやりネロについていっていた私は、
「あっ、はい。賢者様から地図をあずかってきましたので……」
 急いで鞄から折りたたまれた地図を取り出し、開く。それを横からネロがひょいと覗き込んだ。急に近づいた距離に、思わずどきんと胸が鳴る。
「この距離なら歩いてすぐだな。ケーキは人数分?」
「は、はいっ」
「南の魔法使いたちは揃って出てるはずだけど……、それでも結構な量だな」
「そう、ですね……!」
「これ、あんたひとりじゃ無理だっただろ」
 呆れたようにネロは言って、ふたたび歩き出した。私は胸の鼓動がはやく静まるよう念じつつ、慌ただしく地図を鞄に戻す。
 少し先を歩くネロが、小走りで追いつこうとする私を振り返る。と、そのはずみにネロの手が私の手に触れた。
「ひっ……!」
 弾かれたように手を胸の前に持っていく。ネロがぽかんとした顔で私を見ていた。途端に顔が熱くなる。ちょっと手と手が触れたくらいで、こんなにも過剰な反応をしてしまうなんて。なんと自意識過剰なのだろう。大体、手が触れるくらいのことは今までだってあったことだ。それこそ、箒に乗せてもらった時には背中にしがみついていたのに、何をいまさら。
 それでも、心臓はばくばくと早鐘を打つように鼓動を続けている。それはこの衣装をクロエから受け取ったとき、賢者様から掛けられた言葉が頭の片隅でちらついているからだった。
 ──デートにぴったりの素敵な服ですね!
 デート。そのたったの三文字の言葉が、私の心をこうも浮つかせ、自意識を過剰に膨らませ、挙動をかくも不審にいたらしめていた。
「ナマエ?」
 ネロに名前を呼ばれ、はっとした。あまりの衝撃に、私は足を止めフリーズしてしまっていた。挙動不審の私を前に、ネロは完全に戸惑っている。
「……大丈夫?」
「な、なにがですか!?」
「いや……うん、大丈夫ならいい」
 溜息まじりにそう言って、ネロはふたたび歩き出す。私もその後を追った。今度は手が触れ合うようなアクシデントが起きないよう、慎重に、不自然ではない程度に距離をとる。
 なんだかむしょうに顔が熱かった。手で顔をぱたぱたと仰ぐと、クロエが作ってくれた衣装の裾がひらひらと揺れた。

 それから間もなく、目的のケーキ屋に到着した。夕刻が近いからか、店内には私たち以外には客はいない。人気店と聞いていたから、空いていてほっとした。
 甘いにおいに満ちた店内には、所せましと洋菓子が並べられている。ショーケースの中には色とりどりのケーキが、コンポート皿の上には焼き菓子が盛られ、お客に選ばれるのを待っている。人数分のケーキを買っていくとなると、全てのケーキをひとつずつは買えるだろうか。
「俺、この後少し用事があるから、さっと買ってさっと戻ろう」
 腰を屈めてショーケースの中身を眺めながら、ネロが言った。
 賢者様には買い物だけでなく、折角だからネロとふたりでケーキを食べてきてと言われている。賢者様はあくまでもおつかいを口実にしたデートをしてきてほしいとお思いなのだ。しかし、今はとてもではないがそんなことを言い出せる雰囲気ではなかった。
 結局、すべてのケーキをひと切れずつと、不在の南の魔法使いたちのために、日持ちのする焼き菓子をいくつか購入した。店にはそう長居しなかったが、量が量だけに箱詰めするのに手間どった。店の外に出る頃には、日が傾き始めていた。
 ネロとふたり、ケーキの箱を携え帰路につく。本当はもっとゆっくり歩きたかったが、ケーキが傷んでしまってはいけないし、ネロには用事があるらしい。私のわがままでネロに迷惑をかけるわけにはいかない。
 深い青に染まった空に、茜色の雲がたなびいていた。<大いなる厄災>が、東の空にうっすらと浮かび上がっている。その景色は美しく胸を打つのと同時に、なんだかさびしいような切ないような、胸がぎゅっとするような感覚を私に与えた。隣のネロも、先程から言葉少なに空を見上げている。
 どうかしましたか、とは聞けなくて、私はただネロと一緒に黙って歩き続けた。

 魔法舎につくと、私はネロからケーキの箱を受け取った。箱三つに分けられたケーキは、ネロがふた箱、私がひと箱持ち帰ってきた。足を踏み入れた食堂には、まだ誰もいない。厨房からは物音がするから、カナリアさんが夕飯の支度を始めているのだろう。
「あの、ネロ。ありがとうございました。賢者様には私が声を掛けておきますから、ネロはもう戻ってもらって大丈夫です。用事が、あるんですよね?」
 首を傾げて尋ねると、ネロは少しばかりばつが悪そうな顔をした。
 ネロの言う「用事」がどんなものなのかは分からないが、大方私とのおつかいを早めに切り上げるための口実だったのだろう。そのくらいのことは、さすがに私でも想像がつく。
 私がネロへの気持ちを自覚したとき、ネロはすぐにそれを察し、私のことを避けた。母の一件でなんとなくそれも有耶無耶になっていたが、本来ネロは、私と必要以上に親密になるつもりはないのだろう。今もまた、私の気持ちが膨らみすぎてしまわないように、適度な距離を保とうとしている。
 私もまだ、心の奥底では迷っている。好きだと自覚することと、その感情を受け入れることの間には、どうしようもなく大きな隔たりがある。その隔たりをどうにもできないうちには、ネロに何かを求めることなどできるはずがない。もとより、こちらが好きになったからあなたも好きになってくれ、などと自分勝手なことは言えない。
「ケーキ、夜ごはんの後に出しますね」
 そう言ってネロを送り出すように笑って見せる。ネロは逡巡ののち、
「まあ、うん。じゃあお言葉に甘えて……」
 と歯切れ悪く答えた。
「はい。今日は本当にありがとうございました」
 カナリアさんに戻ったことを伝えるべく、私は厨房へと向かう。建前とはいえネロに用事があると言う以上、今日は私が厨房を手伝わなければならない。腕に自信はないが、まあいないよりはましだろう。
 と、ネロに背を向け歩き出そうとしたところで、
「あのさ」
 ふいに背後から呼び止められた。「なんでしょう?」と振り返ると、ネロは口許に手を添えて、ひどく言いにくいことを口にするように、咳払いをしてから言った。
「その服、あんたによく似合ってるよ。いつもが悪いってんじゃないけど、なんていうか、見違えるな」
 それだけ言うと、ネロは「じゃあ、後よろしくな」と、足早に部屋へと戻っていった。その場に取り残された私は、ネロの背中が見えなくなるまでその場に呆けて立ち尽くしたのち、ようやく、へなへなとその場にしゃがみこんだ。
「ううー……」
 最後の最後、去り際にあんなことを言うなんてずるい。熱く火照った顔を両手で覆って、私は暫しそこから動けずにいた。

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