13

 その日、私は結局、母のもとを訪ねなかった。どうすべきか夜まで悩んだが、あんなふうに別れた手前、なんでもない顔をして会いに行くことはできなかった。それに、行ったところでどうせまた私への小言と、魔法使いたちを貶める台詞を吐かれるのがオチだ。そう思うと、折角母が中央の都に来ているのだから、という親孝行精神よりも、自分が嫌な思いをしたくないという感情の方が勝った。
 どのみち、この先故郷に帰るつもりもない。いつまでここで雇ってもらえるかは分からないが、<大いなる厄災>の脅威がなくならない限り、魔法舎だってなくなることはないはずだ。私の仕事が突然なくなるということもないだろう。
 必要以上に大きくふかふかなソファーに身体を沈め、私は重く長い溜息をつく。昼間の出来事が、思った以上に心身ともに負荷となって尾を引いていた。
「もう、動く気力がない……」
 ベッドに移動することもせず、私は半ば気を失うように眠りの中に落ちていった。

 翌朝、日が昇るより先に目が覚めた。身体を起こし、重い頭を振る。部屋の中は適温に保たれているが、ソファーで眠ってしまったせいで身体がぎしぎし強張っていた。それでもソファーの質がいいためか、思ったほど身体に不調は感じられなかった。
 枕元の時計を見ると、二度寝をするには微妙な時間だった。ここで惰眠を貪るよりはむしろ、昨日予定よりも長引いてしまった買い出しのせいでカナリアさんにかけた迷惑を帳消しにすべく、さっさと仕事に取り掛かった方がよさそうだ。
 溜息をつき、ソファーから立ち上がると、壁に掛けられた身だしなみ用の鏡を覗く。そこには気力十分とはとてもいえない、疲れた自分の顔がぼんやりうつっている。
 溜息をもうひとつ吐き出して、私は朝の身支度に取り掛かった。

 ネロが私のもとを訪ねてきたのは、その日の昼食の準備を終えた頃だった。調理に携わるのはカナリアさんとネロなので、私の仕事はといえばもっぱらテーブルセットと給仕だ。それも大多数が身の回りのことは自分でできる大人ばかりの集団の中では、そう必要な仕事でもない。
 もうじき正午になろうという頃だったが、今日はまだ誰も食堂に顔を出していなかった。厨房から漂ってくる料理のにおいに、私は鼻をひくつかせる。気分がよいとは言えないが、こんな日でもお腹は空く。
 ぐうとお腹の虫がないた。その音と、壁掛け時計がボーンと低く響く音が重なる。つられて時計を見れば、時計の針は正午を示していた。
「行かなくていいのか? おふくろさん、今日帰っちまうんだろ?」
「ネロ……」
 いつの間にか、ネロが食堂の中にいた。急な買い出しにでもいっていたのか、腕に重そうな紙袋を抱えている。ネロの視線から逃れるように、私はふいと顔を俯けた。
「……いいんです。元々、すごく仲のいい家族というわけではないので」
 ネロの顔を見ないまま、私は答える。
 父が無体を働き投獄される以前から、我が家はけして家族三人仲が良いわけではなかった。もちろん家族仲が特別悪かったわけではないし、家族三人でネロの店に食事に行くこともあった。
 が、それはネロの作った料理が美味しかったからだ。家族で外食をしたくて食事に行っていたわけではない。たまたま家族全員、ネロの料理が好きだっただけのこと。
 だから、別にいいのだ。
 今生の別れというわけでもない。わざわざ会いに行って、これ以上腹を立てる必要はない。
 厨房から、美味しそうな料理の匂いと合わせて、カナリアさんの鼻歌が聞こえてくる。暫しの沈黙ののち、ネロが切り出した。
「あのさ。さっき、買い物に出たときに、魔法舎の周りをぐるぐるしてる人がいて……それで、これをあんたにって」
 ネロが、抱えていた袋を私に手渡す。受け取った袋はずしりと重い。ネロは何気なく抱えていたが、私にはかなりの重量に感じられた。
 ネロに「開けてみな」と促され、私は袋を一度テーブルの上に置いてから、袋の中身を確認する。中に入っていたのは、一本の瓶だった。瓶と言ってもかなり大ぶりで、ほとんど甕と変わらない。中身は無色透明。瓶のふたを開けてみたが、何のにおいもしなかった。
「何ですか、これ? ……水?」
 訝しく思いながら尋ねた私に、ネロがこくりと頷いた。
「雨の街の水だってさ。あんた、腹が弱くてちょっと街の外の水を飲んだだけで体調崩すんだって?」
「そ、そんなの昔の話で……っ!」
 笑うネロに反論しようとして、はっとした。
 たしかに私は昔からお腹が弱かった。というより、そもそもあまり丈夫な子供ではなかったのだ。私が雨の街からあまり出たことが無かったのも、環境が変わるとすぐに熱を出し、お腹を壊すからだった。
 おかげで母は、自分の生まれ故郷であるブランシェット領にすら、数年に一度しか帰ることができなかった。父が家にいるとはいえ、幼い私を置いて家をあけるということが、母にはできなかったのだ。
「……これ、母から?」
 信じられない気持ちで呟く。ネロはまた、こくりと頷いた。
「荷物になるからそのひと瓶しか持ってこられなかったけど、って。昨日のことも、俺にちゃんと謝ってくれたよ」
 実家にいた頃にもほとんど使っているところを見なかった、大きくて重い旅行鞄。たった一泊中央の都に泊まるだけで、母があれほどの荷物を持ってくるとも思えない。
 あれは、この瓶を入れるために、わざわざ引っ張り出してきた鞄だったのだ。昔お腹が弱い子供だった私に、故郷の水を届けるために。私ですら覚えていなかったことを、母はいつまでも忘れず、気に掛け続けていた。
 胸の中にわだかまっていた母へのもやもやとした感情が、気付けばするすると解け、どこかに消え去ろうとしていた。
 この重たい瓶を抱え、母は昨日どんな気持ちで宿に向かったのだろう。この瓶を抱え、母は何度、魔法舎の周りを歩き回ったのだろう。魔法で出入口の隠されたこの魔法舎を、どんな気持ちで見つめていたのだろう。
「似てるよな、ナマエとおふくろさん。ぐいぐい来たかと思えば急に遠慮がちになるところとか、だけど多分、根は親切なところとか」
 ネロの言葉が、ひたひたと心に染み込んでいく。昨日はあれだけ母と自分が似ていることを恐れていたのに、今日は不思議と、すんなりとその言葉を受け容れることができた。
「そうですよ。私たち、似たもの親子なんです。だから、余計に」
「そりが合わない?」
 私は浅く、頷いた。考えが合わないわけではない。むしろ、私と母は昔からよく気が合った。だから、嫌だった。
「嫌なんです。母を見ていると、自分が隠したい嫌な部分を見せつけられているみたいな気分になるから」
 魔法使いを嫌悪する母の姿は、鏡うつしになった自分の姿に見える。
 私も雨の街から出ることなく、魔法使いという存在を遠巻きにしか感じることがなかったなら、もしかしたら、あんなふうに魔法使いを悪しざまに言っていたのかもしれない。それはあり得ない話ではなかったし、むしろそうだったのだろうとすら思えた。
 ここに来なければ。
 ネロの料理を、また口にしなければ。
 あの限界まで空腹を感じた状態で、ネロと再会しなければ。
 私はきっと、魔法使いに偏見を持ったままだった。
 じっと瓶を見つめる私を、ネロはやわらかな眼差しで見つめていた。彼が母とどんな言葉を交わしたのかは、私には分からない。けれどネロの雰囲気から察するに、それはけして私が恐れるような刺々しいものではなかったのだろう。
 やがてネロも瓶に視線を移し、先程までよりもやや遠慮がちに切り出した。
「まあ、親子だからって仲良くしてなきゃいけない法もないしな。俺の家族も、碌なもんじゃなかったし」
 けど、とネロは言葉を継いだ。
「あんたらは違うだろ。少なくとも、うちの店で親子三人で食事をしているあんたたち親子は、どこからどう見てもちゃんと家族だったよ。家族っていうのも悪くないなって──、俺はそう思ったけど」
 そう言って、ネロは壁掛け時計を指さした。
「おふくろさん、昼一番に出るって言ってたろ? 今ならまだ間に合うぜ」
「でも……、今からじゃ走っても」
「走って間に合わないなら、魔法使いの手を借りればいい」
 どこからともなく取り出した箒を手に、ネロはにやりと笑って見せた。

「母さん!」
 箒を降りながら、母に向かって叫ぶ。駅舎の中へ入っていこうとしていた母は、私の声に気付くとはっと足を止めた。中央の駅には人が多い。人にぶつかり、足がもつれそうになる。それでもなんとか、私は母のもとへと駆け寄った。
 昨日と同じ恰好をした母は、エプロンドレス姿の私を見て、一瞬驚いたように目をしばたたかせた。そんな母の手をとって、私は言った。
「……水、ありがとう。ネロから受け取った」
 母は、何も言わずに頷いた。昨日のことを謝ってくれるかとも思ったが、それは期待しすぎだったらしい。ネロには個人的に謝ったというから、それで私もよしとすべきだろう。
「……気を付けて帰って。伯父さんたちによろしく伝えて」
「あんたも、何かあったら手紙を送ってくるんだよ」
「分かった。約束する」
 ちょうどそのとき、少し遅れてネロが私たちのもとまで歩いてきた。ネロは私だけを母のそばで降ろし、自分は人気のないところまで箒を降りに行っていた。さすがにこの人混みの中を堂々と箒で登場しては、必要以上に注目を浴びかねない。
 母がネロに頭を下げる。ネロも頭を下げた。
「今度はちゃんと、来る前に連絡を寄越したうえで、時間を取って会いに来てよ」
「そうさせてもらうよ。店主さんの料理もまた食べたいしね」
「俺でよければよろこんで」
 母の言葉に、ネロが笑顔で応じる。その笑顔に、私の胸が火を灯したように温かくなった。
「店主さん、娘のことをよろしく」
「奥さんも、お元気で」
「じゃあ、また」
 母が駅舎の中に入っていくのを見届けてからも、私はしばらくそこから動けなかった。そんな私に寄り添うように、ネロも黙って隣についていてくれた。

 ★

 魔法舎までは、またネロの箒に乗せてもらって帰ることにした。歩いても大した距離ではないが、今は昼時で食堂がもっとも忙しい時間だ。あまり長くネロとふたりで抜けていては、カナリアさんにも迷惑だろう。
 もっともカナリアさんは、私とネロの遣り取りの一部始終を厨房で聞いていたはずだから、戻っても怒られることはないと思う。カナリアさんも中央の人間らしく、面倒見がよくさっぱりとした女性だ。
 町の上をすいと滑るように、ネロの箒は飛んでゆく。しがみついたネロの背中は大きく頼りがいがあって、空を飛ぶのははじめての経験なのに、私はちっとも怖くはなかった。
 風を切る感覚が頬に心地よい。私は風の音に負けじと、ネロに向かって声を張り上げた。
「ネロ、ありがとうございました。それから、すみませんでした。結局巻き込んでしまって」
 私の声は、無事にネロに届いたらしい。ネロが首を傾け、返事をした。
「いや、まあ。賢者の魔法使いに選ばれてから、俺もだんだんお節介になってきたみたいだ」
「ネロは面倒見がいいって、賢者様も言っていましたよ」
「困るんだよな、そういうふうに思われると……」
 そう言うわりに、ネロの声は本心から辟易した様子でもない。やはりネロは面倒見がいいし、どこまでもお人よしなのだ。本人がそうありたいと望んでいるかは別として。
 私はそんなネロのことを好きになった。そして自分も、そんなネロのような人間でありたいと思う。ネロと一緒にいて恥ずかしくない、優しい人間になりたい。
 ネロと同じ、優しい存在になりたい。
 前をまっすぐ見据えて箒を握るネロに、私はぎゅっと握ったネロの服を握りなおして、話をしたい意図を伝えた。ネロはまた、首をこちらに少しだけ傾ける。私はわずかに身を乗り出し、ネロが聞き取りやすいように身体を動かした。
「最近、魔法使いと人間について、いろいろ考えてるんです。もちろん魔法舎で働かせてもらえることになってから、ずっと考え続けていることではあるんですけど……。でも、前はもっと自分ひとりのことだけでいっぱいいっぱいだったというか、その辺りまで気が回っていなかったので」
「よそごと考えるだけの余裕が出てきたなら、よかったじゃねえか」
「よそごとって」
「よそごとだろ? 考えても仕方がないことだ。空が空で、海が海であるように、人間は人間、魔法使いは魔法使い。本当の意味で交わることはないんだから」
 ネロの言葉は分かりやすい。そしてきっと、正しくもあるのだろう。人間は人間で、魔法使いは魔法使い。昔からずっと、私たちはそうやって生きてきたのだから。それで何も、不自由なことはなかったのだから。
「……私も、そう思っていました。なんというか、こうしてネロと話もできるし、信頼もしているし、もっと仲良くなりたいとも思うけど……一番深いところで、人間同士が結びつくみたいには、分かり合えないんじゃないかって。お互い特別な存在に、選べはしないんじゃないかって」
 魔法使いには、途方もなく長い時間と不思議の力が与えられる。
 それらを持たない人間は、寄り添い共に生きるために仲間を持つ。
 だから私も、人間と魔法使いが本心から結びつくことは難しいのだと思っていた。与えられたものが違うあまり、相手の持たないものにばかり目が向いてしまう。共に生きていくというのなら、同じものを持ち生まれた相手と一緒でないといけないと思っていた──そう思い込んでいた。
「でも、今はそうじゃなかったらいいなって思います」
 私の言葉を、ネロは笑いはしなかった。けれど、同意もしなかった。
「そうじゃない、とは言い切らないわけか」
「だって、まだ分からないじゃないですか。私はネロのことも、ほかの魔法使いの皆さんのことも、全然知らないから。人間同士だって知らなければ相手と親しくなれるか分からないんだから、魔法使いの皆さんのことだって知らなきゃ分かんないですよ」
 東の国ではそう思うことすら許されはしなかったけれど。魔法使いと知り合いたいと思うことは、私たちが今手にしている安寧と平和を乱しかねないものとして、忌避されていたけれど。
「だけど、知りたいと思うことは、この国では罪じゃないから」
 風に乗って、ネロの小さな溜息が聞こえた気がした。私はネロの言葉を待つ。長い逡巡ののち、ネロは言った。
「人間なんかに教えたくない、知られたくないって言われたらどうする?」
「それでもいいですよ。教えたくないとか、知られたくないとか、そう思ってることが知れたらいいです」
「子供みたいな屁理屈だな」
「子供みたいなものでしょう、魔法使いからしたら私なんて」
 開き直って答えれば、ネロが「それもそうだな」と笑った。その声はけして、投げやりだったり倦み疲れたりはしていなかった。楽しそうに、笑っていた。たったそれだけのことが、私にとっても嬉しかった。心の底から嬉しかった。
 見下ろせば、眼下には魔法舎の屋根が見えていた。ネロが高度を下げ、魔法舎の扉の前に下りていく。
「帰ったら、前にナマエが好きだって言ってたシロップとおふくろさんが持ってきてくれた雨の街の水で、うまい水割り作ってやるよ」
「あの、子供扱いしてほしいわけではないんですけど」
「ん? いらないのか?」
「飲みます。つくってください」
「その前に、まずは昼飯だな」
 魔法舎の扉を開けると、美味しそうな料理のにおいが私たちを出迎えた。

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