12

 飛び込んだ路地裏は袋小路になっていた。飲食店の裏なのか、辺りにはむっと料理のにおいがたちこめている。人目がないのをいいことにそこに蹲ると、私は膝に額をくっつけて深く息を吐き出した。
 あんなにも長く走り続けたのは随分と久し振りのことだ。まるめた背中を汗が伝う。息が上がっているのが分かったが、息苦しいのは走り続けてきたことだけが理由ではなかった。
 母の言葉が、頭の中でこだまし続けている。
「若い女がひとりでこんなところに入り込むもんじゃないぞ」
 ふと、頭上から声が降ってきた。肩がぎくりとこわばる。ゆっくりと顔を上げると、ネロが私のすぐそばに立ったまま、蹲る私のことを見下ろしていた。
 私と同じ距離を走ってきたはずなのに、ネロはほとんど息を乱していなかった。その姿を視界に入れた瞬間、また胸がぎゅっと苦しくなる。
「ネロ……」
 母の言葉で傷つけられたのはネロのはずなのに、ネロの瞳は私を気遣うように優しく揺れていた。
「ごめんなさい、ネロ……」
 わざわざ追いかける手間を掛けさせたことも、母がひどい言葉をぶつけたことも。
 私の謝罪に、ネロは困ったように頬を掻いた。
「いや、まあ……いいよ。ここのところ接してたのがあんたや賢者さんみたいな人間だったから、なんていうか……ちょっと忘れてたけど、別に珍しい言葉じゃないし。そう特別酷い言葉でもなかったしさ」
 あんなのは気にするほどじゃないだろ、と。本心から気にしていないように、ネロは答える。そのネロの言葉が悲しくて、奥歯をぐっと噛み締めた。
 けれど身体の中で膨れ上がった感情に歯止めはきかず、たちまち私の視界は滲んだ。鼻の奥がつんと痛む。どれだけ全身に力をこめても、肩が震えるのを止められない。
「えっ」
 ネロが狼狽えた声を出す。蹲って顔を俯けていても、私が泣いていることは分かってしまったのだろう。私はネロから顔を背けると、手の甲でごしごしと目元を拭った。
「ごめんなさい……ネロ、先に帰っててください」
「そういうわけにはいかないだろ……」
 溜息をつき、ネロがすぐそばに腰を下ろしたのが分かった。面倒ごとを嫌うネロならば私を置いて帰ってくれるかとも思ったが、さすがに泣いている女を放置してひとりだけ帰るわけにもいかないらしい。
 実際、心の何処かではネロが私を置き去りにしないだろうと分かっていた。ネロは面倒に巻き込まれることは嫌うが、一度巻き込まれてしまった面倒にはちゃんと最後まで付き合ってくれる。分かっていながら「先に帰って」などと嘯いた私は、嫌になるくらいずるい人間だ。
 ネロが私の手をとった。彼が立ち上がるのに合わせ、私の腕も上に引っ張られる。
「とはいえ、ここにいてもな。とりあえず、どっか人目につかないところに行こう。ここじゃいつ店の人間が出てくるか分かんねえし、そうなったら俺が気まずい」
「ごめんなさい……」
「喋んなくていいよ」
 そう言うと、ネロは私の手をとったまま、表通りへと歩き出す。私はネロに引かれるまま、空いたもう一方の手で涙を拭いながらついていった。私の手を握るネロの手は、先程私の手を頻りに擦っていた母の手と似た固くてあたたかな手だった。

 ネロに連れていかれたのは魔法舎の裏手にある森の入口だった。
「普段からシノたちはよく出入りしてるけど、この時間はあいつもいないはずだから。さすがにその顔で魔法舎の中まで戻りたくないだろ?」
 適当な倒木に腰を下したネロは、私にもそうするように促した。そこ以外に腰を落ち着けられそうな場所もなかったので、人ひとり分の距離を置き、私はネロの隣に腰を下す。ネロの膝の上にはいっぱいになったバスケットが置かれていた。
 辺りは草いきれに満ち、吸い込んだ空気には草のにおいが濃い。東の国の首都で育った私には森のにおいはあまり縁がなかったが、ここでゆっくり呼吸をしていると、不思議と心が落ち着いていくようだった。
 いつのまにか、涙も止まっている。
 ふうと大きく息を吐き出すと、黙って隣に座っていたネロが、気を遣ってか小さく微笑んだ。ネロに対して勝手に感じていた気まずさも、目のまえで泣いてしまった気恥ずかしさと情けなさの前では何も感じないも同然だ。私は小声でもう一度謝ると、呼吸を整えるように何度か深呼吸した。
「おふくろさんに会うの久し振りだったろ?」
 ネロが、差し出すようにそう尋ねた。
「手紙も、送る一方で向こうからは貰わないようにしてたって、さっきおふくろさんに聞いたよ」
「さっきって」
「あんたが走っていったあと」
 私が走っていったあと、ネロは母とふたりきりでその場に取り残された。私はてっきりネロはすぐに私を追いかけその場を離れたものだと思っていたが、どうやらその場を離れる前に、母とふたりで幾らか会話をしたようだった。
 よくよく考えれば私よりもネロの方が、足も長ければ走るのも速い。体力だってネロの方が上だろう。すぐに追いかけていたのなら、あんな路地裏に入り込むより先に呼び止められていたはずだ。
「実家、帰りたくなった?」
 ネロが重ねて問う。私は慌てて、首を横に振った。そんなのではない。母に会ったくらいで郷愁をもよおすほど、私は東の国を、雨の街を愛してはいない。家族と離れて暮らすことにだって抵抗はほとんどなかった。
 私の返事をネロはある程度予測していたようだった。
「だよな。聞いてみただけだ。そういう雰囲気じゃなさそうだった」
 そう言って小さく笑うと、ネロは身体の正面を、ほんのわずかに私の方に向けた。
 隣り合って倒木に腰かけた私たちは、けして向かい合って言葉を交わすことはない。けれど視界の遥か先で、ネロと私はぼんやりと曖昧に、回りくどいほど慎重に、互いを対話のために見つめていた。
「あんたがさっき逃げ出したのは、おふくろさんに腹が立ったからなんだろうけど……何が悲しくて泣いてたのかは、悪いけど俺にはよく分かんねえかな。言いたいことがあったら聞くよ」
 それからネロは付け足すように、
「話したくないなら、無理に話さなくていいけどさ」
 と、気まずげに発した。
 唇をぎゅっと引き結ぶ。私はネロの言葉を胸のなかで繰り返しながら、一体どうして、ネロは、こんなにも他人に親切にできるのだろうかと考えていた。
 自分と血のつながった母親は、あんなふうに私の心を乱す言葉を平然と投げつけることができるのに。どうして私と赤の他人で、おまけに人間と魔法使いという異なる種ですらあるネロが、私に寄り添おうとしてくれるのだろう。
 私はどうして、この人のことを、こんなにも不器用に私のために心を砕こうとしてくれる人のことを、心の底から手放しに、好きだと認めることができないのだろう。
 知らず、両手を組んでぎゅっと握った。
 ネロのさざ波のような優しさは、私の心を癒すのと同時にぐっと苦しくもさせる。こんなとき、賢者様だったら素直にネロの優しさを受け取ることができるのだろうか。
 すぐ近くで、鳥が鳴く声がした。続けて、風が木の葉を揺らす音。ふと膝の上で組んだ自分の手を見ると、木の葉の隙間から漏れた陽の光がまばらに肌の上に散っていた。
 小さな温もりの上に視線を落としながら、私は言った。
「嫌、だったんです」
 絞り出すように発した声は、かすかに震えていた。話し始めたのと同時にまた鼻がつんとする。奥歯を噛んで力をこめ、涙は何とか押しとどめた。
「何が? おふくろさんが勝手に此処に来たことが?」
 私はまた、小さな子供のように、かぶりを振った。
「ネロのことを、みなさんのことを、悪く言われるのが。だって、母さんだってずっと、ネロのご飯を美味しい美味しいって食べてた、のに……そんな、魔法使いだからって、そのことは変わらないのに……魔法使いであることと、関係ないのに」
 話すほどに声がかすれる。自分でも嫌気がさすくらい陳腐な理由だ。けれど、その陳腐な理由がネロの誇りを傷つける。ネロが真摯に作り上げてきた料理を、ただ一言で台無しにする。
「そんなのは、嫌じゃないですか」
 発した言葉は本心だ。自分の身内がネロを傷つけたことに、私は怒りとも悲しみともつかない、濁流のような感情を抱いた。それは間違いない事実だ。
 けれど、本当はそれだけではなかった。母がネロや魔法使いを侮辱したことを嫌だと思っても、それだけならばあの場を逃げ出すようなことはしなかった。
 私が真に心を乱されたのは、その言葉を口にしたのが自分の母だということだ。私が耐えがたかったのは、それが他でもない母の言葉だったということだ。
 私を生み、育て、もっとも私と同じものを見てきた時間の長い母。もっとも私と言葉を交わす機会が多く、そしてもっとも私と考え方の似た母。その母が、あんな言葉を口にしたのだ。
 母の言葉はそのまま、自分の中に眠っている言葉であるような気がした。私が考えないようにしている言葉。私が自分の中にあるのだと認めない思想。それを無理やり掘り起こされたようだった。そのことに、動揺した。悲しかった。
 莫迦げている。本当に悲しいのはネロや魔法使いたちのはずなのに。
 私なんかが悲しく思う気持ちは、魔法使いたちがこれまで抱えてきたかもしれない傷に比べれば、取るに足らないもののはずなのに。
 膝の上の拳をぎゅっと握る。そうして涙をこらえていると、ふいに私の背中をネロが叩いた。
「ありがとうな、俺や魔法使いのために泣いてくれて」
 視線を上げ、ネロを見る。
 ネロはいつものように、飄然と笑っていた。彼が纏う老成した雰囲気は、駄々をこねる子供の私を宥めようとしているように見える。
「ありがとう、嬉しいよ。でも、俺は大して傷ついてないから大丈夫だ。あんたが泣くことじゃない」
「でもっ」
「これで言われたのが俺じゃなくてリケとかだったら、俺も多少腹が立ったかもな。やっぱり若い魔法使いに聞かせたい言葉じゃないから、ああいうのはさ」
 ネロは私の背に添えていた手を離すと、そのまま私の頭の上に載せた。撫でることもなく、叩くこともない。私はただ、頭に載せられたその手の重みを感じるだけだ。
 ネロが言う。
「でも、俺は若い魔法使いじゃない。今までいろんな土地でいろんなことを言われてきたが、あんたの母親が特別ひどいことを言ってるとも思わない。俺からすればむしろ、離れて暮らす娘のあんたを心配して、いい母親だって思うけどな」
「……それは、ネロを悪く言っていい理由にはなりません」
「はは、それもそうだな」
 楽しそうに笑って、ネロは今度こそ手を引っ込めた。なにか思案するように、彼は黙って自分の手のひらを見つめる。まるでそこに、答えか何かが記してあるかのように。ネロの記憶の中のすべてが、そこに残されているとでもいうように。
 ネロの横顔からは、彼が何を考えているのか読み取ることは難しい。そのことが、少しだけさびしく感じられた。
 長い沈黙ののち、ネロはゆっくりと口を開いた。
「なんていうかな。昔は俺も、魔法使いがどうのって言われたときにはそれなりに怒ってたような気もする。怒るっていうか、嫌気がさすっていうかさ。けど多分、今はもう慣れちまってるんだ。魔法使いとして長いこと生きて。何処の土地に行ったところで、魔法使いが人間とまったく同じように受け容れてもらえる場所なんてない。程度の差はあっても、人間にとっての魔法使いは絶対に魔法使いでしかない」
「それは……」
「仕方ないよ、だって魔法使いだから」
 ただ、いい人にはなれない。魔法使いだけど、いい人。魔法使いのわりには、優しい人。魔法使いの中では、ましな人──
 幾度もそうして扱われてきたのだろう。ネロがネロである前に、彼は魔法使いとして生まれついてしまったから。
 いちいち憤ってなどいられないのだろう。それが魔法使いとして生まれついた、ネロにとっての当たり前の生活だから。
 だからこそ、彼は東の国で魔法使いという身分を隠して生きていたのだ。魔法使いだということさえばれなければ、東の国はそれなりに住みよい国だった。
 私に語るネロの声は、けして悲愴さを感じさせるものではなかった。普段の他愛ない遣り取りと同じ、なんでもない調子の声だ。それなのに、私は何故だかその声を聞いていると胸が強く痛むのだ。倦み疲れたネロの諦念が、じわじわと心にしみ込んでくるようで苦しい。
「じゃあ、ネロは」
 傷つかないんですか。
 思わずそう口走りかけ、しかしすぐに言葉を飲み込んだ。
 違う。そんなはずはない。傷つかない人間なんて何処にもいない。傷つかない魔法使いだって、きっと、何処にもいない。
 ネロはただ、傷つくことに慣れたふりをしているだけだ。そうやって誤魔化して、自分の心のやわらかい部分を曖昧にしていないと、本当に傷ついてしまうから。傷ついて、弱って、腹を立てて、結局は人間の言う酷い魔法使いになってしまうから。
 そうしていないと長い年月を生きる彼らは、想像もできないほどに何度も傷つけられ、ずたずたになってしまうから。
 けれどそうやって傷ついた心を抱えて、それ以上傷つくことのないように背中を丸めて心を庇って。
 誰かを恨んだり怒ったりせずに済むよう、自分で決めた距離を頑なに守って。
 そうして不器用に生きる彼と、私たち人間の何が違うというのだろう。魔法使いとして長い時を過ごしてきたネロの手と、娘を心配する私の母の手のあたたかさに、何の違いがあるというのだろう。
 もはや言葉もなく、私は乾いた目元をごしごしと擦った。ネロは優しく、「そろそろ戻ってもよさそうだな」と私の肩を叩いた。

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