11

 賢者様と夜半のお茶会をしてからというもの、どうにも私はネロのことを避けてしまっている。
 あの夜、賢者様に泣きつくように尋ねた問いの答えを、賢者様は私にはっきりと示しはしなかった。恋ではないかと柔らかく差し出しただけで、断定することはしなかった。それが賢者様の持つ優しさであり、同時に誠意でもあるのだろう。やはり、賢者様とネロは何処か似ている。
 けれど私だって大人の女なのだ。ひと晩じっくり考えれば、おのずと答えは見つかる。
 私はネロのことを、好ましく思っている。
 ただ友人や知り合いとしてではない。たったひとり、特別な相手として──恋心を抱いている。
 それ以外に、この持て余した感情の所以をうまく説明することはできなかった。
 ひとたび恋だと認めてしまえば、何故今までその可能性を考えなかったのだろうと不思議になるほど、それは呆気なく私の心におさまった。もちろんまだ、魔法使いに恋をするということを受け容れきれない気持ちはある。長年で染みついたものの考え方は、芽生えたばかりの恋情でどうこうできるほど柔ではない。
 それでも、好きになってしまったのだから仕方がないという、諦めというか、ある種の開き直りの方が気持ちとしては強かった。
 とはいえ、ただ好きだと認めることと、好きだと認めたうえでなおネロの前で平気な顔をすることはまったくの別物だ。あの晩以来、私はすっかりネロのことを意識してしまっている。それはもう、顔を合わせただけでも体温が上がって言葉がつっかえて、もうどうにかなってしまいそうなほどに。
 私がそんな有様なので、ネロも恐らく、私がネロに尋常ならざる感情を抱いていることにはとっくに気付いているだろう。何せネロは何百年も生きている魔法使いなのだ。おまけに彼はすこぶる顔がよく、さらに言うなら一定の社会性を身に着けてもいた。
 彼が恋愛というものに縁が深いかは分からないが、まさか私のごとき小娘ひとりの拙い恋情に気付かないはずがない。
 自然、ネロが私に話しかけてくる頻度は減った。彼は面倒ごとや厄介ごとに首を突っ込むことを極端に嫌う。面倒見がいいのはたしかだが、それは巻き込まれてしまった後の話だ。巻き込まれる前ならば、巻き込まれないように防衛する。
 もちろん、ネロは変わらず私に料理を振る舞ってくれる。私も喜んでネロの料理を口にする。それとこれとは別問題だ。ネロの料理は今日も美味しく、明日もきっと美味しいはずだ。
 おはようございます。いただきます。ごちそうさまでした、美味しかったです。
 美味しい料理を作ってくれたネロへの感謝は、いつでもきちんと口に出して伝えている。けれど、それだけだ。それ以上の言葉をネロに向けて発することは、今の私には空を飛ぶ鳥を素手でつかまえることよりも難しかった。
 ──そのはず、なのに。

「ええと……その、今日の市場への買い出しのお供の任を、仰せつかり、ました……」
 買い物用のバスケットを携え厨房に出向くと、ネロはあからさまにもの言いたげな視線を此方に寄越した。いつものエプロンは外しているから、ネロもまさに買い出しに出ようというところだったのだろう。その辺り、私は日頃からネロの一日のスケジュールをかなりしっかり把握しているので、そうそうタイミングを間違うこともない。
「あんたが行くのか?」
 テーブルの上に置いていた財布をポケットに押し込んで、ネロが私から視線を外して尋ねた。目と目が合っていると、どうしても意識してしまう。視線が外れたことに心底ほっとして、私は浅く頷いた。
「カナリアさんが、急用とのことで……」
「カナリアさんが行けないのなら、別に俺ひとりで行ってきてもいいけど」
「で、でも、あの、一応任された仕事なので、ご厚意に甘えてじゃあお願いしますというのは、なんというか、職業意識が低いということになるのではないかと──」
「分かった分かった」
 私のうだうだと連ねた言葉を遮って、ネロが溜息をつく。面倒くさいと思われただろうか。それどころか、もしや呆れられているのだろうか。バスケットを持った手にぎゅっと力を込め、俯く。カナリアさんに代役を頼まれたのは事実だったが、今の私とネロのぎくしゃくとした関係では、私が下心から買い出しの同行を言い出したと思われていても不思議ではなかった。
 ネロの顔をまっすぐに見つめることすらとんでもないことのように思えて、私は床に足を縫い留められたかのように、じっとそこでネロの返事を待つ。ネロは今、どんな顔をしているのだろうか。つむじのあたりにネロからの視線を感じるが、顔を上げる勇気はない。
 暫しそうして緊張と不安に耐えていると、やがてネロはふたたび溜息をつき、私の手からバスケットを取り上げた。
「あんたがいいなら、じゃあ行こう」
 その言葉に、私ははっと顔を上げる。と、たちまちネロと視線がぶつかり、私は慌てて顔を逸らした。ネロが小さく嘆息する音が聞こえた気がした。

 魔法舎から市場までは、歩いてもそう遠くない。今日は互いに急いで戻らなければ理由もないので、石畳の道をのんびりと散歩するように歩いた。心臓はまだどきどきしているが、向かい合って言葉を交わしているわけでもないから、先程よりも少しはましだ。
 てくてくと足を動かしながら、私はネロに取り上げられたバスケットをちらりと確認した。
 魔法舎では暮らす人数が人数なだけに、ちょっとした買い物でも結構な荷物になる。毎度大量に買い込むのは大変であり店に迷惑もかかるので、常備しておく食糧やよく使う野菜などは、基本的には朝一で市場が開く前に魔法舎に直接届けてもらっていた。ネロが市を覗くのは掘り出し物や新鮮な季節の果物などを見繕うためであり、大抵の場合はバスケットひとつあれば十分に事足りた。
「それで、今日は何を買うんだ?」
 私の視線に気が付いて、ネロが私を見下ろし尋ねた。慌てて視線をそらし、私は答える。
「カナリアさんからは食後の果物と、コーヒー豆を頼まれています。あとはネロの買い物を手伝うようにって。今日は買う物が多いはずの日だからということでしたが」
「そうだな。正直、一緒に来てくれて助かった」
 そういえばネロに声を掛ける前、カナリアさんから「一番大きなバスケットを持って行ってね」と言われたことを思い出す。あまり厨房に寄り付かない私には分からないが、厨房を取り仕切るふたりの間には、ある程度決まった買い物の周期があるのだろう。
 前方にずらりと並んだテントと、人だかりが見えてくる。中央の都は何処に行っても人が多いが、此処はその中でもずば抜けて人と物の行き来が盛んだ。
「そういえばあんた、市場に行くのは初日以来か?」
 ネロが問う。初日というのは、私が魔法舎で働くきっかけになった日のことを言っているのだろう。あの日、私は半ば飢える一歩手前だったところをリケに救ってもらった。
 そうしてネロの料理と再会し、魔法舎で住む場所と職を得た。
 ネロと言葉を交わすようになり──そして、気付けばネロに特別な感情を抱くようになっていた。
 あれからまだそう時間も経っていないというのに、何故だかもうずっと昔のことのように思える。そんなことを思いながら、私はかぶりを振った。
「市場には何度かおつかいに出てます」
「そうか」
 それきりネロが口を噤んだので、私たちの間の会話は途切れて終いになった。ネロは元々口数が多い方ではないし、私もネロを意識してしまって、何を話したらいいのか分からない。自分が焦ると失言をしがちだということは、この間の賢者様との話の中で身に染みて実感したことだ。ネロを相手に失言するくらいなら、軽はずみに口を開かない方がいい。
 それから暫く、互いに必要最低限の言葉だけを発し、黙々と買い物にいそしんだ。
 カナリアさんとネロの言うとおり、ネロの買い物は一仕事だった。ハーブや香草はそれぞれ専門の店に足を運んだし、ペーパーナプキンや欠けたカトラリーの補充に何店も回った。市場にやってきたとはいえ、ネロの目的はただ食材を求めることだけではなかったらしい。料理にまつわる様々な品を揃えることが、今日のネロの目的だった。
 ネロの買い物がすべて終わったのは、魔法舎を出てから一時間以上経過した頃だった。荷物はほとんどネロが持ってくれているとはいえ、あちこち回ったせいですっかり足がくたびれている。日はまだ高いが、なんだかもう一日のおしまいのような気分だった。
「散々連れまわして悪かったな。疲れただろ」
「いえ、そんなことは……」
「無理しなくていいって。顔が疲れたって言ってる」
 ネロが苦笑する。たしかに疲れていないはずがなかったので、私はそれ以上強がることもせず、「いろいろ勉強になりました」とだけ口にした。
「勉強?」
「はい。ネロの料理がどうしてあんなに美味しいのか少し分かったというか。ネロはただ料理だけじゃなく、食べるということというか、食事という行為の全部を好きなんだなってことが分かりました」
「そりゃどうも。それじゃあ、そろそろ帰ろう」
 ネロはそう言って、来た道を魔法舎に向け引き返し始める。私も来たときと同じように隣に並び、ネロについて歩く。
 身体はすっかりくたびれているけれど、こうしてネロと魔法舎の外でまで一緒にいられるのは、私の心をきらきらとときめかせて止まない。身体の疲労とはうらはらに、心は朝目覚めたときと同じように、十分な気力に満ちている。
 このまま当分、魔法舎に着かなければいいのに。
 そんな子供じみた言葉を胸のうちで唱えた、その時。
「ナマエ?」
 ふと、すぐ近くから私の名前を呼ぶ声がした。すでに市場の端まで歩いてきていたため、石畳の道に挟むように並ぶ商店のテントも、市場にやってきた買い物客の姿も、周囲には疎らになっている。
 声のした方に視線を走らせる。すると数メートルほど離れたところに、私をまっすぐ見つめるひとりの女性が立っていた。
 その顔を見つけた瞬間、私は思わず素っ頓狂な声を上げた。
「か、母さん!?」
 隣のネロが「えっ」と短く発する。が、私は構わず母に走り寄った。母は今、ブランシェットの実家──伯父夫婦たちのもとに身を寄せているはずだ。
 私が駆け寄ると、母はわずかに顔をほころばせ、私の手を握った。見ると母は私が家にいたころ着ていたような適当な恰好ではない、しっかりとした旅装に身を包んでいた。腕には大きなボストンバッグ。まだ実家にいたころに見たことがある。それは我が家で一番大きな、日頃滅多に使うことのない旅行鞄だ。
 しかし、どうして母がこんなところに。
 再会の喜びの言葉を口にするより先に、尋ねるべきことを尋ねてしまおうと口を開こうとした矢先、母が私の手をごしごしと擦りながら大きく息を吐いた。
「ああ、よかった! この後あんたのところに行こうと思っていたのよ。あんたの職場、なんだっけ、魔法舎だったっけ。兄さん──あんたの伯父さんから、気分転換にあんたの顔でも見に行って来いって言われてね。元気にしてたの?」
 捲し立てるように言われ、私は思わずたじろぐ。頭にガンガン響くような母の声は、たしかに故郷にいたころに毎日聞いていた声そのものだった。
 その勢いに引き摺られ、私もついつい大声で返す。
「なんで母さんが此処にいるのよ!?」
「言っただろ、気分転換にあんたの顔を見に来たんだよ」
「来るなら来るって連絡してよ!」
「手紙の返事はいらないって言ってたじゃないか」
「それは近況報告とかならいらないって話で、そういう大事なことは別にちゃんと連絡を──」
「だったらはっきりそう書いてくれないと。あんたの手紙じゃ、こっちからは連絡寄越すなってことかと思ったよ」
「そのくらい少し考えれば──ああ、もうっ!」
 そういえば、母はこういう人だったのだ。気が強く、しっかりしていないところのある父を尻に敷き、私に対しても何かと口うるさい。東の国の人間にしてはからりとしているが、その分言いたいことを何でも口にしてしまうので、娘の私はしばしばとばっちりを受けていた。母に代わって頭を下げたことも少なくない。
 悪い人間ではないのだが、とにかく一事が万事この調子なのだ。
 再会して数十秒で母の性格を再確認し、私はたまらず天を仰いだ。母は間を置かずに追撃してくる。
「なんだい、久し振りに会ったっていうのに母親に向かってその口の利き方は。あんたは相変わらず短気だね。そんなことじゃ、どうせ勤め先で迷惑ばかり掛けてるんだろう」
「なっ──」
「大体、なんだって魔法使いの溜まり場のようなところで働いてるんだい。そんなもの、まともな人間のする仕事じゃないよ。魔法使いっていうのは莫迦な人間を見つけたらすぐに付け込もうとする、卑劣で姑息な奴らだよ。あんたも魔法舎なんてところで働くなら、魔法使いたちに付け込まれないように気をつけな。昔っから何かっていうととろくさいんだから」
 母のとんでもない言いぐさに、血の気が引く。東の国では常套句のように使われる言葉だが、ここは中央の国で、賢者の魔法使いのひとりであるアーサー殿下のお膝元だ。そのうえ私の隣には、急に走り出した私を追いかけてきたネロがいる。
 ネロもまた、賢者の魔法使いのひとり──母が言う、卑劣で姑息な奴らのひとりだ。
「ちょ、ちょっと……!」
 私が険しい声で咎めるも、母はどこ吹く風だった。母は私の隣にやってきたネロに目を留めると、おや、と目を丸くした。
「おや、そっちのあんたは──料理屋の?」
 母の声に、ネロが浅く会釈する。
「ご無沙汰してます、奥さん。どうも」
「なんであんたがこんなところに──」
 そこで母は、ようやくネロの正体を思い出したようだった。
「ああ、そうか……あんたも賢者の魔法使いってやつに選ばれたんだっけね」
「ええ、まあ。お陰様で」
 気まずげに、母がふんと鼻を鳴らす。ネロの言い方が気に食わなかったのかもしれないが、恐らくはそうではなく、自分の失言を誤魔化すためだろう。私と同様、母もネロの料理のことを気に入っている。店主であったネロのことも、静かだが感じのいい青年だと以前誉めていた。
 しかし、だからといって母は自分の言葉を撤回することもなければ、ましてネロに謝ることもしなかった。それどころか母は不機嫌そうにネロから視線を外すと、上着のポケットから何やら紙片を取り出し、私の手に無理やり握らせた。
「とにかく、まあいいよ。私は今日一日観光して明日の昼一番に東の国に帰るから。これ、私が泊まる宿の地図。仕事中なんだろ? 魔法使いたちにこき使われてるんだか知らないが、とにかく時間を見つけて訪ねておいで」
「母さん! そんな言い方はないでしょ!」
 私の前だけでならともかく、今はネロも一緒なのだ。それなのに、母の言い方はあからさまに魔法使いを貶していた。頭にかっと血が上る。先程までとは別の感情から、ネロの顔を見ることができない。
「ちょっと、聞いてんのかい」
 母が私の手を擦る。その手のひらの温かさに、私はもう我慢ならなかった。
 勢いよく母の手を振り払うと、私はネロも母も置き去りにして、その場から走り去る。何処へ行くあても、目的もない。足が動くに任せ、ただ闇雲に走った。胸がつぶれて呼吸ができない。目の奥がじんと熱かった。ただ、苦しかった。

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