10

「大丈夫です。いえ……でも、そうですね」
 賢者様は、言葉を選ぶようにゆっくりと言葉を紡ぐ。私は恐縮しながら、賢者様からの言葉を聞いていた。
「私とネロが出会ってからの今の関係になるまで、ナマエさんが言うような距離というか壁? みたいなものに、まったく無縁、というわけではなかったですけど……でも多分、ナマエさんが言っている以上というか、ナマエさんが感じたほどには、たしかに私はネロから距離を置かれなかったかもしれません。まあ、私とネロの場合はそれどころではなかったということもありますけど。ネロが魔法舎に来てくれたばかりの頃は、まだここも人間と魔法使いの間の溝が深くて……、魔法舎の中ではそれなりに結託していないとどうにもならなかったので」
「あ、す、すみません」
「大丈夫ですよ」
 賢者様は笑顔で許してくださった。けれど、私はやはり自分の考えなしの発言を反省していた。
 私と賢者様では与えられた使命も違えば、ネロやほかの魔法使いたちと出会うに至った経緯もまるで違う。その違いを無視してただ羨むなど、考えるまでもなく浅はかなことだ。
 賢者様の寛大な心に感謝しつつ、そんなふうに自分の軽率さを暫し反省していると、ふと、隣に座っているはずの賢者様が口をつぐみ、ぼんやりしていることに気がついた。
 やはり私の言葉に気分を害されてしまったのだろうか。
 不安になって、私は賢者様の顔を恐る恐る覗き込む。
「賢者様……?」
 そろそろと声を掛けると、賢者様ははっと顔を上げる。もともと黙り込んだからと言って険しい顔をしていたわけではなかったが、私と目が合うと、賢者様はぱっと花のような明るい笑顔で微笑んだ。
「賢者様、どうかされましたか……?」
「いえ、ただ、嬉しいなと思っていただけです。今日はナマエさん、よく話してくれるから」
「それ、前にカナリアさんにも言われました。ネロのことになると、私はよく喋るって……」
「ああ、たしかに」
 ぱんと手を打ち、賢者様は今度は思案するように視線を下げる。そしておもむろに口許に手を添えると、ふたたび黙り込んでしまった。表情から察するに、怒っているわけではなさそうだ。私は安堵の息を吐き出した。
「こんなことを賢者様に相談するのもおかしな話なんですけど……なんだか私、変なんです」
「変、とは? ネロのことになると口数が増えることがですか?」
「はい……」
 賢者様の瞳が、探るように私を見つめている。その視線はけして私を不快にはしなかったが、気分がいいものでもなかった。そう感じるのは、私の心にやましい気持ちがあるからだろうか。そんな疑念を払拭するように、私はまた口を開いた。
「以前からネロの作る料理は大好きだったし、ここで働けることになって一番嬉しかったのは、またネロの料理が食べられることでした。雨の街にあったお店は、ネロが賢者の魔法使いになった後で閉じてしまいましたから、もうここでしかネロの料理は食べられません。住む場所や仕事が決まったことも嬉しかったですけど、──やっぱり一番はネロの料理です」
 朝になればネロのパンが食べられる。
 時々はジュースやデザートの差し入れも作ってくれる。
 最近では夕食をネロが作ってくれることもある。
 ここで当たり前のように供される料理は、私にとっては一度はもう食べられないかもしれないと思ったものだ。だからだろうか、今の私は以前よりももっとずっと、ネロの料理を美味しく感じている。ネロの料理を食べるたび、大袈裟ではなく幸福を感じている。
 ネロのことになると口数が増えるのは、きっとネロの料理のことが好きだからだろうと、私はずっとそう思っていた。私がネロについて知っていることはけして多くないけれど、ネロの作ってくれる料理のことならば、味も、においも、昔からよく知っている。知っているものについて饒舌になることは、別段おかしなことだとは思わなかった。
「だけど、最近は……もちろんネロの作ってくれる料理は大好きなんですけど、その……ネロ本人のことばかり、考えてしまうんです。ネロの料理を食べれば嬉しいのは変わりないんですけど、それだけでなくて、なんだかこう、嬉しいという言葉だけでは足りずにふわふわと浮き立つような気分で……。これじゃあまるで、ネロに恋でもしているみたいじゃないですか……?」
 そんなはずは、ないのに、と。
 私の相談に、賢者様は暫しぽかんとした顔をして私を見つめていた。その表情に、私の全身から、さっと血の気が引いていく。
 あまりにも突拍子もない相談で、もしや賢者様は心底呆れて言葉も出なくなってしまったのではないだろうか。そう思うと居ても立ってもいられず、穴があったら入りたい気持ちでいっぱいになった。
 しかし賢者様がようやく口にした言葉は、
「ナマエさん……それって、恋みたい、ではなくて」
 恋では? と。
 たった一言、それだけだった。
 ごく自然に、当然のように差し出された、私以上に突拍子もない賢者様の言葉。
 今度は私がぽかんとする番だった。
 恋──恋とは。
 恋みたいではなく、恋──?
 思考が固まること、数拍。賢者様と見つめ合ったまま、私は暫し言葉を失っていた。
 やがてじわじわとその意味を理解すると、今度は全身がいかずちに打たれたかのような衝撃に見舞われた。顔が途轍もなく熱くなり、頭の芯がガンガンする。
 いや、恋──
「えっ!? いや、え、ええっ!?」
 思わず立ち上がるも、体内に突如としてあらわれた衝撃はそのくらいでは到底発散されなかった。行き場を求めたエネルギーが、全身をぐるぐると暴走した機関車のように駆け巡る。顔がどんどん熱くなって、本当に蒸気でも噴き出しそうなほどだった。
「賢者様! な、なな、何故そのようなことをおっしゃるのですか!?」
「ええと……逆に恋みたいだと思って、恋ではないとする理由があるなら聞かせてほしいくらいなんですけど……」
 取り乱す私とは対照的に、賢者様はいたって冷静だ。というより、私が取り乱しているせいで却って平静を保っていられるのだろうか。
 賢者様は私の反応に怪訝さを示しながらも、目を細め、微笑ましいものを見るような目で私を見つめている。その視線に晒されていると、私にも少しずつ平静が戻ってくるようだった。
 落ち着きを取り戻すべく、私は再びソファーに腰を下ろす。ぱたぱたと手で顔をあおぎながら、賢者様の問いに対する答えを探し始めた。
「だ、だって……ネロは、私の実家の近くの料理屋さんの店主さんですし」
「はい」
「個人的な言葉をちゃんと交わしたのだって、ここに来てからですし」
「でも、ナマエさんがここに来てからはすごく親しくしていますよね」
 賢者様はまるで小さな子供を諭し導くように、私の言い訳にひとつずつ返事をする。叱られているわけでもないのに、私は勝手にどんどん余裕をなくしていく。
「あんなに、顔だってかっこいいし、……優しいし」
「それは好きになるポイントでは?」
「そっ、それにネロは私のことなんて、好きになりませんし」
「分からないじゃないですか。それに相手の気持ちにかかわらず、落ちてしまうのが恋……では?」
 賢者様の言葉は、優しいけれど容赦がない。追い詰められた私は、普段は顧みることもないような自分の心の奥底にまで、答えを求めて踏み込まざるをえない。
「だって……、それに賢者様、」
 そうして一枚ずつ、重ねた理由をはぎとって。
 本心の上に分厚く重ねた理屈を破り捨て。
 最後の最後に出てくる理屈は、自分にとってはあまりにも当たり前のことすぎて、わざわざ口にする必要すらない、当然の、「常識」だった。

「だってネロは、魔法使いじゃないですか」

 それは混じりけない私の本心で、私の中の揺るがしがたい事実だ。魔法使いと人間はまるきり別の生き物で、私たちは常にそのことを念頭に置いて彼らと接していかなければならない──
 けれど、この世界の外側からやってきた賢者様にとっては、私が二十数年の人生の中で当然のものと刷り込まれてきたものなど、ただの偏見と差別でしかないのかもしれない。自分の身の回りにいる魔法使いを、ともすれば貶める、そんな言葉にしか聞こえなかったのかもしれない。
 その証拠に、賢者様は今、ひどく悲しそうな顔をしていた。
 まるで私が、賢者様の手を冷淡に振り払ったように。そのことに気付いた瞬間、自分がひどい台詞を口走ったことにようやく気付き、私ははっと息を呑んだ。
 賢者様は、賢者様だから。
 異世界から来た、この世界のひとではないから。
 私たちとは、違うから──
 無論私にそんな意図はなかったとはいえ、言葉だけをとらえれば誤解されても仕方がないような台詞だ。というより、賢者様の立場で聞けばはっきりと酷い言葉でしかなかったに違いない。
 先ほどまでの浮き立った気持ちはすっかり萎み切っていた。部屋の中には重たい沈黙が落ちる。
 私はこれまで、自分のことを悪人ではないと思い込んでいた。それだけに、賢者様を、魔法使いを貶めるような言葉を吐いてしまったことが自分でもショックだった。
「すみません、賢者様……」
 絞り出した謝罪の声は、我ながら情けなく、か細い。賢者様は視線を上げ、ぎこちなく笑う。その表情の痛々しさに、胸がぎゅっと痛くなった。
 花がほころぶように笑う賢者様が、こんな痛ましい表情を浮かべている。その原因を作ったのは、ほかでもない私だ。
 賢者様は言う。
「私は人間なので、ナマエさんの気持ちはまったく分からないわけではないです。それに、ナマエさんは東の国の出身ですもんね。東の国は魔法使いに対する考え方が保守的だと聞きましたし、ナマエさんが今言ったように思うのも……、なんというか、仕方がないことなのかもしれません」
「はい……」
 賢者様の言葉に、私は首肯した──首肯するしかなかった。
 賢者様の言葉からは、最大限に私に理解を示そうという意思がひしひしと感じられる。頭ごなしに否定するのではなく、そういう考え方もあるのだと、認めてくれている。
「ナマエさんは、魔法使いの皆さんのことは好きですか?」
「も、もちろん好きです!」
 勢いよく答えれば、賢者様は驚いたように目をぱちくりとさせた。先程の失言もあいまって、恥ずかしくなって私は顔を俯ける。
 私はただ、賢者様に誤解してほしくなかったのだ。私が魔法使いのことを嫌っているだとか、そんなふうに思ってほしくはなかった。私は私なりに彼らとうまくやっていきたいと、本心から思っている。
 膝の上に置いていた手を、ぎゅっと握る。失言をしてひどい言葉を投げつけたのは私の方だというのに、何故だかどうしようもなく泣きたい気分だった。
 賢者様は何も言わない。何も言わずにただ、私のそばにいてくれた。私はほんの束の間、何か言うべきか悩み、やがて意を決して口を開いた。
「私はこの魔法舎では、一番の新参者です。ですからまだあまり話をしたことがない方や、できればあんまりお近づきになりたくないような方もいらっしゃいます。賢者の魔法使いとして魔法舎に召喚されるほどの力をお持ちの魔法使いたちとなれば、私のような人間には時には恐ろしく見えることもあります。けれど……でも、賢者の魔法使いの皆さんは、取るに足らない人間の女でしかない私にも、とても親切にしてくれました。彼らが賢者の魔法使いだから人間には奉仕するべき、というだけでそうしてくださっているとは、私は思いません」
 東の国の人間だって、みんながみんな魔法使いを嫌っているわけではない。むしろ彼らが、いや、私たちが恐れているのは、名前のない「魔法使い」という概念だ。それは恐ろしく、卑怯でずるくて、時に人間をばかにして脅かす。私もずっと、魔法使いとはそういうものなのだろうと思って生きてきた。
 けれど、ネロが賢者の魔法使いに選ばれたことを知り、その考えがもしかしたら間違っているのかもしれないことに気が付いた。もしもネロが本当に悪くてズルい魔法使いだったなら、あれほど人の心を満たすような、あたたかな料理が作れただろうか。私がネロの料理から感じていたやさしさは、魔法で作られたまやかしだったなど、到底思えなかった。
 人間がつくったものであろうと、魔法使いがつくったものであろうと。
 ネロの料理は、そんな問題など取るに足らないと思わせるほどに、口にした人間の胸を打つ。
 ネロだけではない。私が魔法舎に来て、一人ひとりの顔を見て、名前を知って、ここで出会って言葉を交わした魔法使いたちは、皆人間と違わない。勿論すべてが同じとはいかないけれど、まったく理解できないほど彼方の存在ではないはずだ。
 魔法使いだからと忌み嫌うことはしたくない。今のところ、そうするだけの理由もない。
「私も、ナマエさんと同じ気持ちです」
 賢者様は、まだ表情にわずかの固さを残しながらも、そう笑った。私はほっと胸をなでおろす。そうして賢者様と同じように明るく笑う、彼らのことを思った。
「私、ここの皆さんのことが好きです」
 リケやミチルや、ヒースクリフ様やシノやファウストさんのことが。
 ブラッドリーやカインのことが。
 ネロのことが。
「魔法使いの皆さんを友人や知人のように好きだと思うことはできます。でも、特別なひとりに魔法使いを選ぶことは、考えたことがありませんでした」
「それは、ネロに限らず、魔法使いを好きになることを考えたことが無かったってことですよね?」
「はい。元々私はネロ以外に魔法使いの知り合いはいませんでしたし……それに、私と彼らでは生きる世界が違うと思っていたから。彼らにとってのほんの短いときを隣人として過ごすことはできても、人生を共にするたったひとりに魔法使いを選ぶなんて、考えたこともありませんでした」
 私はきっと、身の丈にあった人を好きになって、身の丈にあった人から好かれるのだろうと、そう思っていたのだ。漠然と。それは同じように年をとっていける相手であり、同じように生きていける相手であり、そして生涯を添い遂げられる相手のはずだった。
 それなのに私は今、こんなにもネロのことばかり考えている。生きる世界が違うはずの相手のことで、心がいっぱいになってしまっている。
「賢者様、私はネロのことを好きなんでしょうか? その、特別なただひとりという意味で」
 もはや、これ以上ひとことでも声を発すれば、嗚咽がもれてしまいそうだった。堪えるように吐き出した私の問いに、賢者様はただ、困ったように、切なげに、目を細めて笑うだけだった。

prev - index - next
- ナノ -