09

 ある日の夜。カナリアさんと賢者様、そして私は、揃って夜のお茶会をしていた。
 たまには女性だけで集まって、女性同士のおしゃべりに花を咲かせよう──そんな賢者様の提案に、私もカナリアさんも大喜びで賛成した。場所が私の部屋なのは、共同のスペースでは人目が気になるからだ。通りかかった相手に却って気を遣わせる可能性もある。
 その点私の部屋ならば、棟の端にあり、誰が訪ねてくることもない。おまけに大きなソファーとベッドがあるので、というかそれしかないので、のんびりくつろぐことができる。
 こういう女性だけの集まりのことを、賢者様が元居た世界では「女子会」と呼んでいたらしい。分かりやすくていい集会名だと思う。アーサー殿下がしばしば口にする「合コン」というものの女子だけバージョンのようなものだろうか。それとも女子だけであっても「合コン」なのだろうか。詳しく聞こうと思ったけれど、賢者様が困ったような顔をなさっていたので、それ以上の追及はやめた。

 すでに夜は更け、空には大きな月が皓皓と輝いている。まるく大きく輝く月は、今夜はひときわ大きく見える。こんな夜にはムルはきっと、大喜びで月を眺めていることだろう。
 女子会はちょうど、カナリアさんとクックロビンさんのなれそめを聞き終えたところだった。女子が三人集まれば恋の話になるのは、何処の世界でも同じことだ。
 東の国、特に私の住んでいた雨の街では、屋外での噂話は法典で禁じられている。しかし年頃の娘たちがきゃいきゃいとはしゃいだくらいでは、流石に通報されることもない。故郷にいたころにはたびたび恋の話に花を咲かせたものだが、それも久し振りのことだった。
「賢者様は、元の世界で好い人はいらしたんですか?」
 紅茶のカップを片手にカナリアさんが尋ねると、賢者様はからりとした笑顔を浮かべた。いつもよりもリラックスした恰好をしているのは、この女子会が終わったらそのままベッドに入るつもりだかららしい。
「いませんでしたよ。もし好きな人がいたら、きっともっと必死で元の世界に戻る手段を探してます」
 笑顔で、しかし真剣に言う賢者様に、私は笑いをこらえきれずに手で口許を隠した。ふたりの視線に気づき、慌てて頭を下げる。
「す、すみません。今のは笑うところではなかったですね」
「いえ、笑ってもらえた方が気楽です」
「それなら、あの、よかったです」
 ほっとするのと同時に、ふたたび喉の奥から笑いが込み上げてくる。口許を隠したままでくすくす笑っていると、賢者様がしみじみとした様子で私に笑いかけた。
「ナマエさん、だいぶ笑うようになりましたね」
「そうですね」
 賢者様に同意して、カナリアさんも感慨深げに頷く。そうしていると、ふたり揃って私の姉か何かのようにしか見えない。
 私はといえば、急に話題が私自身のこととなり、恥ずかしくなって慌てて顔を俯けた。
「恥ずかしがることないのに」
 そう言われても、恥ずかしいものは恥ずかしい。自分の話なんてしたところであまり面白いとも思えないし、それよりは賢者様やカナリアさんや、とにかく自分以外の素敵な人たちの話を聞いていたい。
「あの、私よりも賢者様やカナリアさんのお話を……」
 けれど私のそんな願いは、賢者様の悪戯っ子のような笑顔によってあっさりと退けられた。
「そういうナマエさんはどうなんですか? 見たところ、ネロとは仲が良いですよね」
「わ、私とネロですか!?」
 話の流れからして、この「どうなんですか」が恋愛云々の話であることは言うまでもない。顔が熱くなって汗がどばっと噴き出すのを感じながら、私はしどろもどろに返事をした。
「そ、それは此処に来る前からの顔見知りがネロだけで……いや、もともとは顔見知りというほどの知り合いでもなかったんですけど……、それで、その……」
「でも今は顔見知りという以上に仲良く見えるけど?」
「うっ」
「カナリアさん、攻めますね……!」
「賢者様も、ナイス話題転換です」
 賢者様とカナリアさんが互いに健闘をたたえ合っているのを後目に、私はああともううともつかない呻きのような声を上げ、どうしたらふたりに私とネロの何もなさを理解してもらえるだろうかと思案に暮れた。
 賢者様のおっしゃる通り、私は多分、ネロに相当よくしてもらっている。元々はカナリアさんからネロに「同郷なんだから気に掛けてやって」という声掛けがあり、だからこその優しさなのだということは、私も重々承知している。が、その優しさの動機はともあれ、ネロのおかげで私もだいぶ、魔法使いの皆さんと普通に話ができるようになってきた。
 それでもやはり、私がここで一番よく話をするのはネロだ。ネロをほかの魔法使いたちと一緒くたにして考えることはできないし、何かあったら私は多分、真っ先にネロに相談するだろう。
 先日の東の国の酒盛りの後から、その思い──ネロに対する信頼ともいうべき感情は、一層強くなっている。
 サイドテーブルにカップを置き、私はそっと、ソファーの縁に手を添えた。そこは先日、ネロが私の部屋を訪れた際に腰を下ろしていた場所だ。あの日ネロが目を留めたクッションはすでに談話室に戻してしまったが、今でもふと気が付くと、ネロが座った場所に視線を遣ってしまっている自分がいる。
「たしかに、ネロには良くしてもらってますし、本当に感謝しきれないくらいです。だけど、ネロはなんというか……優しいじゃないですか」
 私の言葉に、賢者様は首を傾げた。きょとんとした表情は、栗鼠か兎か、森の小動物のような印象を私に与える。
「優しいといけないんですか? 優しいから好き、というのは、筋が通っているような気がするんですけど」
 そう言われてしまえば、それはたしかにそうなのだ。優しいことはいいこと。誰かを好きになるとき、優しさが好きにならない理由になることの方が、きっと少ない。
 けれど。
「私はなんとなく分かる気がします」
 そう発したのはカナリアさんだった。
「ネロさんが優しいから、だからナマエさんは勘違いしてしまいそうになる──そういうこと?」
 カナリアさんに問われ、私は頷いた。カナリアさんの説明は、私の中で形をとらずもやもやしている感情と、大体のところで一致している気がした。
 優しいから、勘違いしそうになる。
 優しいから、勘違いも許してくれそうな、そんな錯覚をしてしまう。
 ネロの優しさに触れるたび、私の心では甘えのようなどろどろとした何かが、たしかに膨らんでいくような気がする。
 私は一度目を瞑り、それからゆっくりと頷いた。
「多分、なんとなく、そんな感じなんだと思います。それに、ネロは優しいから……なんというか、本来自分がネロからどういう距離を許されているのか、正しく見定めるのが難しいというか。間違っていても許してもらえてしまうというか」
「ああ、それなら私も分かります」
 まとまりのない私の説明で、一体どこまで伝わったのかは分からない。けれど、ともかく賢者様は頷いてくれた。そのことに、私はひそかにほっとした。
 その時、コンコンと二度、部屋のドアをノックする音が聞こえた。
「あ、お迎えかも」
 そう言ってカナリアさんが立ち上がり、部屋のドアを開ける。ドアの向こうにいたのは、カナリアさんの夫のクックロビンさんだ。彼は溜まりに溜まっていた書類仕事を終え、ようやく愛妻を迎えに来たようだった。
「それじゃあ賢者様、ナマエさん、また明日。おやすみなさい」
 クックロビンさんと共に帰っていったカナリアさんを見送って、私は賢者様とふたり、ふう、と息を吐いた。ふたりになってしまったのでお茶会はお開きにしてもよかったが、なんとなく、今日はまだそういう気分ではなかった。
 あたたかい紅茶を淹れなおし、私たちは再びのんびりとくつろぐ。部屋の灯りはあくまで薄ぼんやりとしたものだが、今日は月が明るいので部屋もそう暗くはない。
 あの月が、また一年後再び<大いなる厄災>として牙をむく。いや、もう次の<大いなる厄災>までは一年もないのだ。そのことを思うと私はどうしても、胸がざわつき恐ろしくなって仕方がなかった。
 前回の<大いなる厄災>では近親者は誰も被害を受けなかった。受けた被害は甚大でも、それは直接周りの誰かの命にかかわるものではなかった。けれど次もまた、皆無事でいられるとも限らない。
 何より今の私は、<大いなる厄災>と戦う使命を帯びた賢者の魔法使いたちと知り合ってしまっている。彼ら全員が無事でいられると信じ込めるほど、私は楽観的なたちではない。魔法使いとて不死ではないことは、この間ネロからも言われたばかりだった。
 そんなことをぼんやり思い、胸がざわつくのを宥めすかしていると、ふいに賢者様が口を開いた。
「ネロはなんというか……大人ですよね。本人はあまり前に出るタイプじゃないですけど、先回りしてうまくやってくれるというか。なんだろう、うまく言えないですけど……こちらの至らなさを自覚させないことがうまいというか」
 どうやら賢者様は、先程からずっとネロのことを考えていたらしい。そのことに私は少なからず驚いたが、けれどそれ以上に、賢者様がネロに対して抱いている印象の方にこそ、私は深く驚いた。
「賢者様も、そんなふうに思われるんですか?」
「え? どういう意味ですか?」
 首を傾げる賢者様に、私はもじもじと指先を擦り合わせた。驚きのあまり考えなしに言葉を紡いでしまったが、今のはどちらかといえば口にすべきではない、私の胸のうちに留めておくべき言葉であるように思えた。
 しかし、賢者様はじっと私の言葉を待っている。その瞳の前では言葉を飲み込むことも憚られ、結局、私は正直に白状するしかなかった。
「だって、賢者様はその……ネロに似ているというか……。なんとなく、そういうふうに見えていました」
 たちまち賢者様は目をかっと見開く。
「私とネロが!? 全然似てないですよ! 私はネロみたいに美味しいごはんもつくれませんし、あんなに面倒見もよくないです!」
「いえ、ごはんはこの際関係ないですが……。ああ、でもやっぱりネロって面倒見がいいですよね。自分ではそんなことないようなことを言うけれど」
「そりゃあもう、いいですよ。相当。かなり」
 妙に太鼓判を押す賢者様に、私はまた笑ってしまいそうになった。どういうわけだか、賢者様は時折妙に押しが強いときがあるのだ。
 ともあれ、私からしてみれば賢者様だって相当面倒見がよく、そして善良な人間であることは間違いない。けれどただ面倒見がいいというだけで、ふたりが似ていると断じているのではない。
 もっと根っこの部分で、賢者様とネロは似ているように見える。人との距離の取り方、ひいてはこの世界での身の置き方のようなものが似ている。そっくりとは言わなくても、同じ方向を向いている。私の目には、そう見えた。
「私、こんなことを言っていいのか分からないんですけど……、賢者様のことが、時々すごく羨ましく思えてしまうんです」
 ぽつりと零すように呟いて、けれどすぐに後悔し、私はまたしても顔を俯ける。横顔に感じる賢者様からの視線は穏やかだ。私に事情を問いただすわけでもなく、まるで何かを待っているように、視線は静かに注がれていた。
 暫し、部屋の中に沈黙が落ちた。ふたりきりで会話が途切れれば、途端に部屋の中は静寂で満ちる。照らす月は無慈悲で、私がいくらぎゅっと身を縮こまらせたところで、隠れる場所など何処にもないというように、遍く薄く、月光が差し込む。
 ややあって、
「どうしてですか、って──聞いてもいいですか?」
 静かに、差し出すように、賢者様が問うた。
 まるで懺悔室のようだ。そんなことを漠然と思いながら、私は一度きゅっと引き結んだ唇を、おそるおそると開いた。
「不躾だったらすみません。でも、賢者様は別の世界からいらしたから……。だからこの世界の仕組みとか、世界そのものとは違う場所にいらっしゃって、因習や風俗と遠いというか、こう、身軽に見えるというか……。それが、その、ネロとの丁度いい距離感につながっているような気がして」
「羨ましい?」
「……はい」
 粛々と、頷くしかなかった。
 もちろん、私はネロから何かを打ち明けられたわけではない。以前ネロが聞かせてくれたのは彼の過去のほんの片鱗だけであって、おそらくは隠してすらいない部分だ。たったそれだけでは、ネロの深い部分を知った気になるにもあまりに弱い。
 だからすべては私の想像で、推察で、そして妄想でしかないことだ。けれど多分、そう大きく的外れな妄想でもないだろうと私は思っていた。
「なんとなく、ネロは距離をとろうとするじゃないですか。特に親しくなるまでは、不用意に親しくならないようにしているというか。なんか、うまく言えないんですけど。多分、優しさとか、なんですかね? 処世術、というのか……私にもよく分からないんですけど」
 私の下手くそな説明に、賢者様がなんだか変な顔をした。すると私は余計に頭がこんがらがってしまって、うまく言葉が捻り出せなくなる。どうにかして私が抱いているネロの印象を伝えたいだけなのに、肝心の言葉がすっきりと出てこない。
 それでも一度始めてしまった会話を投げ出すわけにもいかず、私は半ば途方に暮れながらも、一生懸命言葉の意味を汲み取ろうとしてくださる賢者様に対し、身振り手振りを交えながら説明をした。
「ネロは私にはそういうふうに見えているんですけど……いえ、私も全然ネロのことを知っているわけではなくて……、あの、でも、賢者様はネロからそういう距離の取られ方をしていたように見えなかったというか……。おふたりが出会ったばかりの頃のことは私は知らないので、的外れなことを言っていたらすみません……」
 最後にはもう、謝るしかなかった。自分勝手な憶測で何かを語るべきではないということを、東の国で法典に従っていた私はよく知っていたはずなのに。
 賢者様のことも、知ったような口を利いてしまった。申し訳なく思いさらに身を縮こまらせていた私の手を、賢者様は女神様のようなおだやかな微笑みで、そっととってくれた。

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