08

 一歩廊下を進むごとに、胃の中身がひっくり返りそうな気分になる。立った途端に急激に酔いが回ってきたようで、先程までとは比べ物にならないほどの酩酊感が私を襲っていた。
 本当ならば自分の足でしゃきしゃき歩きたいのに、身体の重心がぐらつく上に足にうまく力が入らないのでそれも叶わない。腕を組んだネロに寄りかかるように歩いていると、申し訳なさと情けなさと気恥ずかしさで、一層気分が悪くなった。
「ううぅ……」
「大丈夫か? 吐きそうだったら先に言ってくれよ」
「大丈夫です……私、お酒で気持ち悪くなっても吐くことだけはないので」
「それはそれできつそうだな」
 心底哀れむようにネロが呟く。元々あまりお酒を飲まないから、酔っぱらったことだって数えるほどしかない。けれど昔から、風邪の時でも何のときでも、嘔吐して楽になるという経験はまったくなかった。いっそ、吐けたら楽だろうにとは思うのだが。
 千里にも感じられる廊下を抜けると、ようやく私の部屋だった。送ってきてくれたネロが、水差しから水を一杯いれてくれる。ソファーに腰掛けそれを一気にあおると、かなり気分がましになった。
 全身がじっとりと汗ばんでいる。その汗が冷えたからか、なんだか急に心も身体もすうすうと冷たく感じられた。顔を上げる。明瞭になった視界にうつったネロは私の視線に気付き、
「大丈夫そうだな」
 と笑った。その笑顔に、急激に顔が熱くなる。今更ながら自分が途轍もない醜態を晒したことに気付くが、時すでに遅しだ。今すぐ消えてなくなりたいと本心から願う一方で、ネロがついてきてくれてよかったとも思った。耳の奥にはまだ、さっきまで身を置いていたささやかな賑やかさが、その名残をとどめている。
 水をもうひと口含んで喉を潤すと、私は再びネロに視線を戻した。
「あの、ありがとうございました、ネロ。もう戻りますか?」
 私の問いに、ネロが小さく首を傾ける。
「酒盛りに? いや、どうせそろそろお開きになってる頃だろうしな。あとで片づけはしに行くけど。なんで?」
「いえ……その、お酒をみんなで飲むっていうのがはじめてで……」
「楽しい気分の後にひとりになると、なんだか寂しい気分になる?」
 図星をさされ、私は恥じ入りながら頷いた。ネロが声もなく笑う気配がある。
 まだ酔っているのだろうか。普段ならばこんな我儘は言わないのに。距離感を見誤ることはあっても、大人として、その辺りの分別はきちんと持っているはずなのに。
 それなのに、今夜は何故か、妙に離れがたく感じる。
 頭の芯がぼんやり熱い。座ったままついと顎を上げネロを見上げれば、ネロは揶揄するような響きを含んだ声で、
「分かったよ。もう少しだけ付き合う」
 そう答えた。自分から頼んだことなのに、了承された途端に申し訳なさに襲われる。
「すみません……」
「そういう日もあるさ。その辺座ってもいいか? つーか部屋の広さのわりに、随分とでかいソファーだな……」
「これはアーサー殿下からの下賜品でして……私が部屋でゆっくりできるように大きめのソファーが欲しいって賢者様と冗談で話していたら、後日これがお祝いに」
「お祝い? 就職のお祝いってことか?」
 ネロが胡乱げに発し、確認するようにソファーの座面を撫でた。
 私と人ひとり分の距離を開け、ネロがソファーに腰を下ろす。ふかふかのクッションと下に布をかませた猫足が、音もなくネロの体重を受け止めた。
 ネロは自分の分の水も用意すると、空になった私のグラスにもう一度水を注いでくれた。
「それにしたって、限度があるだろ。この部屋ソファーとベッドでほとんどの面積占有してるじゃねえか」
「はい……。でも、私持ち物もそんなに多くありませんし、キャビネットひとつあれば十分だったので。それに机も椅子もありますし……。そもそも寝る以外に部屋にこもってる時間も短いですし」
「ふうん。これは?」
 そう言ってネロが持ち上げたのは、ソファーの端に寄せられていたクッションだった。夕方クックロビンさんを手伝いに出るまで、私はここで破れとほつれを直していたのだ。
 酒宴の前に直すだけ直していたのだが、どうせならば明日外に干してから戻そうと思い、私の部屋に置きっぱなしにしていた。
「これは談話室のクッションのカバーが破れてほつれていたので、それを直すために借りてきたんです」
「へえ。魔法で直してやろうか?」
「いえ、大丈夫です。もう直してありますし、それに、こういうのも私の仕事ですから。私、お裁縫で手を動かすのは好きなんです」
 おそらく、細々とした作業を得意とするのは血筋なのだろう。それに目のまえの細かな作業に没頭していると、それ以外のいろいろなことから解放された気分になる。煩わしいことも嫌なことも、頭の中から消えてなくなってくれる。
 私の返事に、ネロはふっと表情をゆるめた。興味深げにクッションに向けた、その視線はやさしい。
 いくらきれいに直したといっても、よく見ればどこを直したのか一目瞭然だ。ネロはその部分を、まるで慈しむかのように、そっと指先で撫でた。
「その気持ちは俺も分かるよ」
「ネロも繕い物をするんですか?」
 怪訝な声で尋ねれば、ネロは眉尻を下げ苦笑した。
「いや、俺は料理。料理にはできるだけ魔法を使わないことに決めてる」
「なるほど。私はお料理の方はさっぱりです」
「はは、だから厨房で見かけるのはカナリアさんばかりなのか」
「鋭意修行中です」
 恥を忍んで告白したが、ネロは馬鹿にすることもなく「頑張れ」と言っただけだった。私は胸がぽっと温かくなるのを感じる。その言葉のやわらかさは、彼の作る料理の持つやわらかさとよく似ていた。
 ネロの料理は押しつけがましくない。味わいにしてもにおい、あるいは料理の見た目にしても、食べる者に何かを強要することはない。そのことを、私はぼんやりと思い出していた。
 けれど、それは流石に口に出すのが気恥ずかしい類の言葉だった。だから私は、
「ネロは、お酒の失敗とかあんまりしなさそうですね」
 と当たり障りのない話題に転じた。ネロは特に気にすることもなく、グラスに入った水を呷った。
「まあ、そうだな。記憶をなくしたり、立てなくなるほど飲んだのは大昔に何度かくらいだよ」
「大昔?」
 比喩だろうか、と首を傾げたところで、思い出した。
 人間とは違い、魔法使いたちは皆、気が遠くなるほど長い年月を生きるのだということを。
「そういえば、魔法使いは不死って聞いたことが」
 思考をそのまま口にすれば、ネロは分かりやすく呆れ顔をつくる。その顔に、私はまたうっかり無知で無礼なことを口走ってしまったのだろうかと不安になった。
 東の国で生まれ育った私は、これまで魔法使いというものを碌に知ろうとしてこなかった。そのことは自覚している。ここで働き始めてからも、魔法使いの人たちに何度か頓珍漢なことを言っては苦笑されている。
 無礼なだけなら謝ればいいが、いつ取り返しのつかないことを口にしてしまうともしれない。無知というのはつまり、自覚もなく魔法使いを傷つけ、侮辱する可能性もあるということだ。
 しかしネロは呆れこそすれ、怒ることはなかった。それどころか口許にかすかに笑みを浮かべると、
「さすがに不死ってことはない。けど、そうだな。ナマエよりは──人間よりはずっと長生きだよ」
 と私に教えてくれた。
 不死ではない。彼らの命も、けして悠久を生きるわけではない。
 けれど人間の寿命と比べれば、ほとんど永遠にも似た時間を生きることになるのだろう。魔法使いは皆、死して石になるその時まで。
 ごくりと喉が鳴った。それが目のまえのネロ──魔法使いに対する畏怖なのか、それとも自分の想像すら及ばない生命への言い得ぬ感情なのか。それは私自身、判断がつかないことだった。
「ネロも……、ネロも、もうずっと長く生きているんですか?」
 知らず、声をひそめる。ネロはやはり、おだやかに笑っていた。
「まあね。あんたの祖父さんの祖父さんの、そのまた祖父さんと同い年くらいかな」
「……ええっ!?」
「ここの連中は若いのも多いけど、俺は大人組」
「これは……そんなにも年上とは知らず、無礼な態度を」
「いいって」
 軽やかに受け流されても、私にはにわかに信じがたいことだった。今ここにいるネロは、どう見ても私とそう年の変わらない青年なのだ。随分と成熟した──老成したところがあるとは思っていたが、まさかそんな、何百年間も生き続けているとは思いもしなかった。
 けれど一方で、ネロがもう何百年もこの世界を生き続けていることに、納得している自分もいる。
 頭の中に浮かんだのは、幾重もの年輪を刻んだ巨木。豊かに育まれてきた、たったひとつの生命。
 そのイメージを描いたまま、私はまた口を開いた。酔いはもうすっかり醒めて意識は明瞭だったが、気分はすっかり高揚していた。このままひと晩でも、ネロの話を聞いていたいような気がした。
「でも、そっか……。ネロはものすごく長生きなんですね。あ、でも雨の街でお店を開いたのは私が生まれてからですもんね? それじゃあそれまでは、色々なところを転々とされてたんですか?」
「まあ……」
 途端に歯切れが悪くなり、呻くように呟いたネロが首肯する。私はかまわず続けた。
「実際にネロがどう思って何を感じているのかは分かりませんが、私はやっぱり、時間がたくさんあるって素敵だなぁと思います。……ああ、そういえば店主さんの料理が美味しいのも、長い時間をかけて色々な土地の美味しいものを味わってきたからこそ、なのかもしれませんね」
 思いついたことをぽんと言葉にあらわせば、自分でも思いがけずしっくり来た。
 ネロの料理のやさしさは、もしかすると色々な土地の人々が誰かのために丹精込め、愛情を注いでつくった料理の記憶があるからなのかもしれない。
 もちろんそれを裏打ちするのはネロの料理人としての技術なのだろう。しかしネロの料理はけして、小手先の技術だけで形作られるものではない。そのことを私は雨の街の店の常連として、そして今は時折彼の料理の恩恵にあずかる身として、よく知っている。
「なんかそういう経験とかが糧? になっているのかなって。ああ、でも私は料理に関してはド素人もいいところなので、まったく的外れのことを言っていたらすみません。ただ、これはネロの料理のファンとしてですね──」
 だんだんと脱線し始め、しだいにしどろもどろになってきた私は、あたふたと身振り手振りを交えて伝えようと苦心する。そんな私をぽかんと見ていたネロは、やがて堪えきれずにくっくと笑いを漏らし、私の額を小さくこづいた。
「あんたさ、東の国の人間にしてはこう……」
「なんでしょう」
「魔法使いに対して物怖じしないよな」
 その言葉の意味を理解しあぐね、今度は私がフリーズした。
 魔法使い相手に物怖じしない? 果たして本当にそうだろうか。
 いや、そんなことはないはずだ。最初の頃ほどではないにしろ、私は日々びくびくしながらここでの生活を送っている。特にミスラさんやオーエンさんとは極力鉢合わせないようにしているし、オズさんさんのことも正直ちょっと怖いと思っている。
「そうですかね……? 自分では結構距離をとってしまってるなと思うんですけどね」
 私が物怖じしないというのなら、それは魔法使いに対してではなく、ネロ個人に対してだ。ネロからしてみれば、自分に物怖じしないのだから、つまりは魔法使いに対して物怖じしないように見えているのかもしれない。
 けれどネロは、そうした私の推論とは別の主張をした。
「魔法使いと距離を取ってる人間は、魔法使いたちの酒盛りになんか参加しない。それにそもそも、魔法舎で働こうなんて思わないだろ。こんな場所、人間たちの間では魔法使いたちの巣窟として相当遠巻きにされてるはずだ」
「魔法使いの巣窟……魔窟、ですよね」
「魔窟って言うと途端におどろおどろしいな」
「凄味があっていいと思いますよ」
 どうでもいい話を挟みつつ、私は考える。
 ネロの言っていることは正しいのだろうか──答えは多分、正しい。世間一般の意見として、そして何より東の国で魔法使いであることを秘して暮らしてきたネロにとって、魔法使いや魔法舎が遠巻きにされていることは事実のはずだ。パレードをしようと<大いなる厄災>と戦おうと、きっとそれはそう簡単には揺るがない。リケやミチルが大きくなるころには何かが変わっていたとしても、今はまだ、ネロが数百年生き続けてきた世界の常識がほとんどそのまま罷り通っている。
 その今を、私も生きている。
「たしかに、観光客としてこの国に来て、何も知らずガイドの紹介だけ聞いて魔法舎を見ていたら、私もそんなふうに──魔窟だと、思ったかもしれません。魔法使いの知り合いだっていないから、魔法使いに対しても、やっぱり怖いものだと思っていたかも。実際故郷での私は魔法使いとは関わり合いにならないようにしていましたし」
 魔法使いを目のまえにして、できるだけ阿るような言い方にならないよう、注意を払いながら、私は言う。ネロはただ、黙って私の言葉に耳を傾けている。もはや酔っ払いの戯言などと言い訳できる話題ではないことは、私たちの間を流れる空気の静謐さがはっきり示していた。
 しかし、だからといって重苦しい空気に支配されているわけでもない。ネロは私に何かを迫っているわけではなかったし、私もけして阿ったり媚びたり、攻撃的になったりするつもりはなかった。
 ゆったりと流れる空気は、どちらかといえば心地よい。
 その心地よさに身を任せ、私は心の中のほんの一部を、そのままネロに差し出すことに決めた。
「魔法使いのことを、まったく私たちと同じように思ったり、そういうものだと思って接するのは難しいと思います。でも、いい人がいて悪い人がいるみたいに、いい魔法使いがいて、悪い魔法使いがいることも分かりました。だから、今はとりあえずこの魔法舎にいる魔法使いの皆さんのことは、怖がりたくないなって思うんです。それにネロと此処の皆さんには一宿一飯の恩がありますから。噂で聞いただけの悪評と、目のまえに差し出された親切だったら、目のまえに差し出された親切を選ぶ人もわりと多いかと思うんですが……どうでしょうか……」
「だからそれは、同じ人間同士の場合の話で──」
 ネロが淡々とした口調で反駁する。けれど結局、最後まで反駁の言葉が発せられることはなかった。ネロは自身の言葉の途中にも関わらず口を噤むと、一拍置いて頭を掻いた。
「もういいや。なんか、あんた相手にこんな話でむきになるのも莫迦らしいよ」
「うっ、すみません……」
「あんた本当に東の国の人間か? そのお人よしと楽観的なところ、ここで雇われずに南の国に行ってても、案外うまくやったと思うよ」
「そうですかね? 私は自分では、自分のことを陰気で陰湿な東の国らしい人間だと思ってるんですけど」
「自分でそう思ってるならそれでいいや」
 そう言って、ネロは私の腕をぽんと一度軽く叩いた。ソファーから腰を上げる。
「さて、そろそろいいか? ファウストが怒り出す前に戻って片づけをしないとな」
「長々と引き留めてすみませんでした。ネロのおかげで楽しさの余韻を持ったまま布団に入れそうです。片づけ、ゴミとかは明日私が捨てるのでまとめておいてくだされば大丈夫です。食器も、流しておいてもらえれば明日片付けますから」
「助かるよ」
 それじゃあ、おやすみ、と。
 ネロは静かに扉を閉めた。扉が閉まるのを見届けてから、私は脱力してソファーに横たわった。
 今日はたくさんネロと話をした気がする。大切な話もいくつかしたはずだ。それなのに、いざ具体的にどんな話をしたのか思い出そうとすると、頭の中にはふわふわとした靄がかかったように不明瞭になってしまう。
 ただ、ネロが自分自身の話を少しでもしてくれた。ネロという魔法使いの根幹にかかわる一端を、成り行きとはいえ私にも教えてくれた。それは多分、間違いない事実だ。
 その証とでもいうように、私の胸はあたたかな光を宿したかのように、眠りにつくまでの間ずっと心地よさを感じていた。

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