学生時代から常々思っていたことではあるのだが、スポーツができる人というのはそれだけで格好よく見えてしまうからずるい。思えば足が速い男子がもてはやされた小学生時代から始まり、女子というものはスポーツのできる男子に惹かれるように遺伝子に組み込まれているのではないかとすら思う。
さすがに社会人ともなると身の回りもスポーツの場から退くことが多いので、男性の魅力の中で重要視されるのはもっと分かりやすいところ──ルックスだとか仕事だとか、あるいは共通の趣味だとか、そういう分野にシフトする。しかしやはり「スポーツのできる男子はかっこいい」という、もはや思考の最深部にまで染み込んでいると言っても過言ではないルールがまったく失われたのではないわけで。
つまるところ、私はあれほど怪しげだ、胡散臭いだなんだかんだと思っていた黒尾さんがバレーをする姿を見て、不覚にもときめいてしまったのだった。
その日の夕方、私は定時ぴったりに仕事を上がると、通勤で使っている会社最寄りのバス停をスルーして、まっすぐに駅へと向かった。普段であれば仕事の日に駅に来ることなど滅多にない。しかし今日は特別だ。一度帰社した黒尾さんと、駅で待ち合わせをすることになっていた。
そう、どういうわけだか知らないが、私はあのあと黒尾さんから飲みに誘われてしまったのだ。しかも課長同伴ではない。私ひとりだけがお誘いを受けている。
声を掛けられたのは、競技場から事務室へと戻る直前のことだった。うっかりバレーをする黒尾さんにときめいてしまった後だったから、私は後先も考えずにふたつ返事で了解してしまった。もちろん喜んで、と私が返事をしたときの黒尾さんの顔を、私はきっと一生忘れない。その顔を見てようやく、自分が迂闊な粗忽ものだと気が付いた。
後になってから、これがふたりきりでの食事の約束なのだと知ったが、時すでに遅し。
「バレー教室の当日は苗字さんにもたくさん働いてもらうことになるから、それで若者同士親交を深めておきたいんじゃない? 頼んだよ、協会の人にちゃんと顔売っておいてね」
相談した課長からは、そんなプレッシャーがあるんだかないんだか分からない言葉を投げかけられ、これといって助け船も出されないままに会話を終了されてしまった。ちょうど市役所での会議に出席するために、課長が出ていく間際だった。我ながら間が悪い。
市立体育館の非常勤職員がバレーボール協会の若手に顔を売ったところで、果たして得られるものなどあるのだろうか。はなはだ疑問ではあるものの、一度は承諾してしまった手前、断ることもできない。普段は飲み会などほとんどない職場だ。歓送迎会はもちろん、新年会や忘年会すらない。たまにご指名を受けたのだから、せいぜい使命をまっとうするしかない。
それに、本心を言えば少しだけ黒尾さんのことが気になっていた。
学生時代に全国大会にまで出場した部を、主将として先頭に立ち導いた人。卒業後もこうしてバレーに携わり続けているほどの熱意を持つ人。どんな人なのか、もう少し知ってみたい気がしたのも事実。昼間の黒尾さんのきらきらしい表情が、瞼の裏から消えることなく輝き続けている。
駅に向かう一本道はむありとした重たい熱気に満ちていた。ひしめくように家が立ち並ぶ住宅地の小道を歩きながら、いつも以上に空気の密度が詰まっているような感覚をおぼえる。今日は風が少ない。すぐに汗とも湿気ともつかないものが膜のように肌に張り付いて、思わず眉をひそめた。
本来であればこんな日はまっすぐ帰宅して、家で麦茶でも飲むに限る。それかビール。そういえば黒尾さんはお酒をよく飲むタイプだろうか。あの感じで下戸ではなさそうだ。ぼんやり考えながら、駅に向かう坂道をとろとろとくだる。
待ち合わせの駅は地下鉄と在来線が入り交じる拠点駅だった。地下まではくだらず、在来線の改札前で黒尾さんを待つ。夕方の駅は混雑しており、人いきれでむっとしている。
二分ほどして、黒尾さんが改札の向こうからやってきた。昼間と違いジャケットを脱いだ黒尾さんは、シャツを肘下までまくっている。昼間バレーをする前に外した時計も、今はまたちゃんと手首に巻かれていた。黒尾さんはきょろきょろと辺りを見回して、それからすぐに私を見つけて寄ってきた。
「すみません、出てくるときに上司につかまって」
背が高いためか、謝っていてもあまり悪びれた感じがない。そもそもまだ待ち合わせ時間までは時間があるので、謝られることでもない。協会の仕事がどんなふうなのかは知らないが、なんとなく忙しそうだなというくらいは分かる。もしかしたら頑張って抜けてきてくれたのかもしれない。
「いえ、私も今来たところです」
方便でも何でもなくそう返すと、黒尾さんは目元をゆるめて笑った。そうやって笑うと、少しだけ印象が幼くなる。
「本当ですか? よかった。じゃあ行きましょうか」
「はい」
黒尾さんに促され、繁華街の方角へと歩き出した。
そういえばこんなふうに男の人とふたりで歩くのも随分久しぶりだ。そんなことを、夕方の淡い色の空気の中、早々と灯り始めた飲食店の電光掲示板の表示を見ながら、考えるともなく考えた。
黒尾さんに連れていかれた店は、おじさんたちが仕事帰りに立ち寄りそうな──なんというか、その辺の何処にでもありそうな居酒屋だった。雑居ビルの一階に店を構え、店の前には赤い暖簾と、同じく赤の看板を出している。年季の入った引き戸の曇りガラスは、店内の灯りを白く写し取っている。
黒尾さんの雰囲気からして何やら物凄い店に連れていかれたらどうしようかとも思っていたが、それが杞憂だったことにほっと胸をなでおろした。それと同時に、ただ親交を深めるだけの食事におかしな期待を寄せていた自分に気付き、いかんいかんと邪念を振り払う。
「ここ焼き鳥がうまいんですよ」
「いいですね。私、焼き鳥好きです」
「よかった。ちなみに魚もうまいです」
「魚も好きです」
事前に「においがつくかもしれない感じの店でもいいですか」とは聞かれていたので、焼肉かその辺りだろうとは思っていた。女友達と来ることがないタイプの店だから、これはこれで新鮮だ。嫌いな食べ物も特になし、肩肘張らない店は却って助かる。
ふと気づいて鼻をひくつかせると、焼き鳥のおいしそうな匂いが店の前にまで漂っていた。黒尾さんが小さく笑って店の戸を開く。私もあとをついて、引き戸の向こうに足を踏み入れた。
焼きたての焼き鳥は、今までに食べたことが無いほどに美味しかった。一緒に頼んだホッケも脂がのって身がホクホクで、これまでの人生で食べたホッケの中で間違いなく一番だ。
「こんなに美味しい焼き鳥、はじめてです。なんかすごいお肉使ってるのかな」
「焼き方じゃないですか? 値段そんなによそと変わらないし」
私の感嘆に黒尾さんがホッケの身をほぐしながら答える。
「焼き方かぁ……。それじゃあ家じゃ作るのは難しそうですね。あ、でも七輪とか使えばいいのかなぁ……」
「苗字さんち、家に七輪あるんですか?」
「たしか父が持ってた気がするんですよね。ちょっと定かではないですけど」
へえ、と黒尾さんが呟く。そして、
「苗字さんはご実家暮らしですか?」
「そうです。大学時代はひとり暮らししてたんですけど、色々あって戻ってきました」
「へえ。いいですね、実家」
「黒尾さんは」
「俺も実家です。俺はずっと実家ですね」
「東京生まれだとわりとそうなりますよね」
なんとなく自分の身の回りの友人たちを思い出しながら、当たり障りのない相槌を打った。一対一で食事をしているとはいえ、あまり個人的な話をするのもどうなんだという気がする。住まいのことくらいならば話すのもやぶさかではないが、流れで家族や恋人の話になるのは避けたかった。
「それにしても美味しいな、ほっけ」
さりげなく話題を料理に戻すと、黒尾さんはビールを大きく呷ってから頷いた。
「そんなに喜んでもらえると、連れてきた甲斐がありました」
「ビールも美味しいです」
外の暑さも手伝って、先程からぐんぐんとビールが進む。黒尾さんもすでに三杯目のジョッキに口をつけていた。気付けば私もいつもよりハイペースでビールを飲んでいる。
「お酒、強そうですよね。黒尾さん」
「そうですか? まあ、運動部に入ってると浴びるように飲まされますからね」
「なるほど、たしかに。大学とかだとそうかもしれないですね」
「周りも強いやつのが多いんでね。結構すさまじいですよ」
「黒尾さんは飲ませる側ですか?」
「そう見えます?」
「いえ、つぶれそうな人を逃がしてやるのがうまそうだなと」
「光栄です。あと正解です」
そんなふうにして和やかに、美味しい料理を楽しみつつ当たり障りのない会話を続けていたところで、
「苗字さん最初、その辺の何処にでもありそうな居酒屋だなーって、思ったでしょ」
ふいに黒尾さんが、にやりと笑って言った。ずばり的中していたので、私ははっとした後、申し訳なさでいっぱいになる。
別に残念だとかは思っていないし、たとえ思ったところでそういうことは顔に出さないようにもしている。それでもそう思われたということは、私の挙動のどこかしらに、何か黒尾さんにそう思わせるところがあったのだろう。黒尾さんはやはり目ざとい。
「ええと……、はい、すみません」
「いえいえ、俺も最初来たときそう思ったんで。むしろ気が合いますね」
むっとされても困るが、同意を求められてもそれはそれで困る。黒尾さんのことはまだほとんど何も知らないし、そもそもここに来てからも、互いの仕事の話だとか、当たり障りのない話しかしていない。同意も否定もしかねるところだ。
ふとテーブルから視線を上げれば、黒尾さんがぐっと上半身をテーブルの上に乗り出して、向かいの私に笑顔を向けていた。身長が大きいため座高も高いのだろう。そういう仕草をされると、標準的な大きさのテーブルでもやたらと彼我の距離が近く感じられる。
あ、と思うのと胸がときめくのが、ほとんど同時だった。昼間感じた胸の甘い痺れが、今また秘かにぶり返す。たまらず視線を下げ、赤くなっているであろう顔を俯け隠した。
「……黒尾さんって、絶対モテますよね」
半ば恨み言のように呟けば、黒尾さんがゆるく首を傾げるのが視界の隅に見える。
「そう見えます?」
「そりゃあまあ、はい」
というよりモテる自覚がなければ、こんなふうに自信満々に、意味深に異性を見つめたりはしないのではないだろうか。
案の定、黒尾さんは
「光栄です」
するりとそう答えたのち、
「苗字さんはモテる男は苦手ですか?」
にっこりと、あっさりと、余裕たっぷりにそう切り返した。否定が嫌味に聞こえることを知っている人の答えだ。多分、これまで何度も同じことを聞かれ、そして実際、モテる人生を送ってきたのだろう。
──私とは住む世界が違う。
「はは。結構、全部顔に出ますね」
私の胸中を読んだように、黒尾さんが笑った。いや、読んだのは胸中ではなく顔色か。黒尾さんの声は面白がっているような、揶揄するような、そんな声音だった。
「……すみません」
失礼かもしれないと思ったが、それでも謝ることにした。しかし黒尾さんは怒るでもなく、さらに続ける。
「でもまあ、苗字さんは俺のこと苦手かもしれないですけど、俺は苗字さんのこと、結構気になってますよ」
その言葉に、思わずはっと顔を上げ──そして、すぐに顔を上げたことを後悔した。
目の間の黒尾さんの顔は、私が顔を上げるのを待ち構えるように──手ぐすね引いて待ち構えるように、にっこり楽しそうに笑んでいた。
目と目があったその瞬間、私の脳裏を「罠にかかった」というようなニュアンスの感覚が過っていく。こういう状況をなんというのだろうか。飛んで火にいる夏の虫? それとも鴨葱? そういえば、野生の猫は鴨を狩るという。そういえば黒尾さんはどこか、猫に似ている。
「く、黒尾さん、その、飲み過ぎじゃないですか」
不穏な気配を察して大慌てでそう言えば、
「ええ? さっき言いませんでしたっけ。酒には強い方ですよ」
にんまり笑って返される。まるで追い詰められるように、私はごくりと唾を呑んだ。
黒尾さんはしばし面白そうににやにやと笑っていた。しかしやがて、
「まあ、今日のところはそういうことにしておきますか」
そう嘯いてようやく手をゆるめた黒尾さんに、私はほっと安堵の息を吐いた。
途中一瞬危うげな空気になりかけた食事も、何とか会計にまで漕ぎつけた。うっかり黒尾さんに食事代を持たせてしまっても悪いので、お会計が終わる前にお手洗いに行くこともせず、きっちり割り勘で支払いを済ませる。黒尾さんは前髪を透かすようなあの独特の笑い方で、にやにやと私を眺め下ろしていた。私はそれには、気が付かないふりをした。
地下鉄の駅におりると、地上以上にむっと空気が淀んでいた。この時間にはもうバスはないため地下鉄で帰るしかない。
湿って嫌なにおいのする駅の構内の空気に顔をしかめながら、私は黒尾さんを見上げる。
「黒尾さんは何線ですか?」
「あー、俺今日はちょっと寄るところがあって。こっちです」
そう言って黒尾さんが指さしたのは地下鉄のホームではなく、在来線のホームに向かう連絡道だった。ということは、黒尾さんはわざわざ地下におりる必要はなかったということだ。私が地下鉄で帰ると言ったから、それでわざわざついてきてくれたのだろう。
「わざわざ一緒に下りてきてもらってすみません」
「いやいや、うっかり下りてきちゃっただけなんで」
わざとらしく誤魔化す黒尾さんに、思わず笑ってしまいそうになる。そんなうっかり、黒尾さんがするとは思えない。存外誤魔化すのが下手らしい。
それにしても、この時間から会いに行くということは彼女だろうか。そんなことを考えた瞬間に、黒尾さんがふっと息を吐くように笑った。
「彼女じゃないですよ。幼馴染の家に様子見に行く約束してて」
「あ、幼馴染」
「ひとつ年下なんですけど、ちょっと変わったやつなんでね」
そう言うと、黒尾さんは胸の高さに手を上げた。
「じゃあ、また」
「はい、また」
一度深々お辞儀をして、私は改札を通り抜けた。彼女ですか、なんて聞いてもいないのにばれてしまうなんて、私はそんなに考えていることが顔に出ているんだろうか。ふと不安になって顔を触ってみたが、手のひらには汗と湿気でぺたりとした頬の感触を感じただけだった。