あの子になりたいよ

 だめだ、と思ったときには、口から言葉がこぼれていた。
 鍋から湯が吹きこぼれるように、あるいはコップの縁から水が溢れ出るように。言葉は、感情は、ぎりぎり目いっぱいのところまで溜まり保たなくなった時点で、こちらの意思とは関係なく溢れ出てしまうものらしい。そんなことになる前に火を止めてしまったり水を抜いてしまったらよかったのかもしれない。が、私は昔から己の感情のどこが限界なのかが分からないのだ。それは大人になったと思っていた今も、変わりないことなのだった。

 きっかけは金曜日、夕食時の会話だった。うちの部署はそう飲み会が多い方ではないけれど、それでもまったくないわけではない。前回の飲み会がたしか八月だったので、年末の繁忙期を前にここらで一度と、件の先輩主催の飲み会が開催されることになった。むろん、私は参加と決めている。先輩とは春ごろ色々あったが、お互い社会人同士でその辺りの気まずさは仕事中は見ないふりをすることができる。表面上これまでと変わりなく接していたし、部署の中で私たちの微妙な気まずさ、ぎこちなさを察していそうな人はいなかった。
 それは飲み会であっても同じことだ。ごく少人数の飲み会ならば不参加を表明するところだが、課全体の飲み会ならばお互い業務の一環として参加することになる。大人数ならば先輩と話をしなくても問題はない。
 しかし黒尾は、私が飲み会に参加することが、どうにも気に入らないようだった。
「それ本当に行く必要あんの?」
 飲み会に行くときは、事前に誰と、どんな集まりなのかを黒尾に申告している。そうしろと言われているわけではないが、かつて未成年で飲み会というものを快く思っていなかった黒尾を安心させるため、私が自主的に始めたことだった。
 いつもと同じように申告した私に対し、黒尾の言葉はいつになくとげとげしい。
「飲み会ってことは、仕事とかではないんだよな? だったら、なんか理由つけて断ればいいんじゃねえの。あの先輩も来るんだろ」
「いや、そうは言っても嘘ついてまで断るのはおかしいでしょ。別に先輩とふたりで飲むわけじゃないんだし」
 普段の黒尾が私の交友関係に難色を示すことはない。腹の内でどれほど嫌だと思っていようとも、こうしてあからさまに嫌そうにしてみせるのは恐らくこれがはじめてのことだった。
 何かあったのだろうか。わけが分からず、ただ戸惑う。いや、分からないわけではない。黒尾が先輩のことを気にしているのは分かっている。が、それは黒尾が気にするほど大きな問題ではなかったし、どちらかといえばすでに過去のことだった。
「私も先輩もお互いあれは無かったことにして普通に仕事してるんだから、余計に波風立つようなことするのもどうかと思うよ」
「こっちが悪いことしてるわけではねえのに、そこまで名前さんが気遣ってやる必要ってあるのかね。元はと言えば向こうが名前さんにちょっかいかけてきたのが原因だし」
 そして黒尾は、さも不満げに眉根を寄せて私を見た。 
「それとも名前さん、なんだかんだ言ってあの先輩とも仲良くしたいから飲み会行くの」
「ええ? なんでそういうことになるのかな……」
 思わず頭を抱えて溜息をつきたくなる。それをすんでのところで堪え、こめかみを揉むだけに留めた。
 たしかに黒尾が私のことを心配するのは仕方がないことだと思う。私と先輩の間に多少の問題があったことは事実だし、それを黒尾の力を借りて無理矢理に解決したのもまた事実だ。それに、黒尾はあれ以降の私と先輩の関係を、私の言葉や説明以外では知らない。もしかしたら私がまた一人で抱え込んでいる問題があるかもしれないと思うのは、ある意味当然のことだった。知らないのだから不安にもなる、これは分かる理屈だ。
 だからといって、社会人の会社の飲み会と大学生の飲み会を同じように考えられても困る。よその部署や会社がどうかは知らないが、うちの課は頻繁にそういう場が設けられるわけではない。逆に言えば、余程の事情がない限りは全員参加が暗黙の了解となっている。それこそ私個人の、それもすでに終わった問題を理由に欠席することの方が、私にとっては余程おかしなことに思える。
 黒尾と私のお互いに事情があって、お互いに分からなくはない言い分を抱えている。黒尾だって近く社会人になるのだし、いずれは事情も理解してくれるだろう。そう思えば、今は私が言葉を尽くして黒尾を説得し、この場をまるく納めるのがもっとも正しいやり方に思えた。先程からやけに言葉がとげとげしい気もするが、ここは年上として、社会人として大目に見るべきところなのかもしれない。
 そう判断して思考を切り替えようとしたところで、私より先に黒尾が口を開いた。
「つーか俺の気持ちとか、ちょっとくらい考えてくれてもいいんじゃねえの。名前さんは先輩のこともよく知ってて、普通にもう何もない、平気っていうけどさ。俺から見たらその先輩にまだ下心あるようにしか見えねえんだけど」
 その言葉に、ぎりぎりのところで保っていた感情の抑制が、ふつりと途切れてしまった気がした。
 不貞腐れたような黒尾の物言いは、いつもの私だったら笑って流すことができたのかもしれない。ごめんごめん、早く帰ってくるからと笑えたのかもしれない。そうすべきだとは分かっていたし、そうしたいとも思っていた。
 それなのに、その日に限ってそうできなかったのはきっと、少し前に見た黒尾と女の子が仲よさそうに歩いているあの光景が、ずっと脳に焼き付いて離れないからだ。あの時の小さな傷口をきちんと塞がないまま、接がないまま気が付かないふりをしてここまできてしまったから、水はだらりと溢れてしまった。
 溢れてしまえばもう、取り返しはつかない。
「……なんか、全然分かってくれないんだね。会社のこととか、人間関係のこととか」
 気付けば言葉が溢れ出し、胸の中はどす黒い何かでもやもやと埋めつくされていた。絶対に口にしたくない言葉、攻撃的だと分かっている言葉が、あたかも本心みたいな響きでつるつる口から溢れてくる。
「そんなに言うなら、私なんかと付き合うのやめたら。それで黒尾と同じような、黒尾の気持ち分かってくれる大学生の彼女とでも付き合ったらいいんじゃないの。そしたら黒尾だって心配なんてないんじゃないの」
「は?」
「こっちにもこっちの……社会人の事情があるし、そういうのを理解してくれないなら黒尾と付き合うのは無理だよ。そんな子供みたいな感情押し付けられても困る」
 言ってはいけない言葉だとは理解していた。年齢差のことも立場の違いも、黒尾にはどうしようもできない問題だ。それを理由に黒尾を責めてはいけないと、自分で自分に言い聞かせながら五年半もやってきた。
 それなのに、理解していたのに、言葉は堰を切って止まらない。明確に相手を傷つけるための言葉だと、それ以外の目的を持たない言葉だと、駄目だと分かっている。分かっているのに止められない。
「黒尾だって本当は分かってるんじゃないの。本当はさ、私みたいな年上の彼女よりも同い年くらいの年の、可愛くて話とか価値観が合う彼女の方がいいんじゃないかって。自分がそう思ってるから、私にもそれを押し付けてくるんじゃないの。結局、黒尾が先輩がいる飲み会に行くのを嫌がるのってさ、黒尾よりも先輩の方が、私と同じ社会人の先輩の方が私とお似合いだって思うからなんでしょ。そういう、同じ世界の人と付き合った方がいいって、黒尾が考えてるからそういうこと言ったり思ったりするんじゃないの。だから勝手に不安になるんじゃないの。私が、先輩を選ぶかもしれないって疑ってるんだよ」
 違う、そうじゃない、そんなことを思ってはいなくて、むしろそんな風に卑屈になっているのは私の方なのに。卑屈になって、歪な思いや後ろめたい感情をすべて黒尾のせいにしてぶつけているのは、私の方なのに。
 自分が捨てられると、自分ではない誰かを選ばれるのではないかといつも不安なのは、私の方なのに。

「子供みたいなこと言わないで」
 一気に吐き出すように言い切って、私は黒尾を見た。いつのまにか視線はすっかり下がっていて、黒尾の顔を見てもいなかった。多分、黒尾の顔を見るのが怖かったのだろう。自分勝手なことを散々連ねておきながら、私のせいで黒尾が嫌そうな顔をするところは見たくなかった。私を軽蔑する黒尾の顔を、見たくなかったのだ。
 視線を上げた、その瞬間、黒尾と目があった。黙って私の言い分を聞いていた黒尾は、テーブルごしにまっすぐ、私の顔を見つめていた。一見すれば、いつもと変わらないようにも見える。しかしその目は、真剣に怒っているときの真っ黒に燃えるような、そんな色をしていた。
 燃えるみたい、なのに冷たい黒尾の目。久し振りに怒っている黒尾を目の当たりにして、少しだけ怯む。けれど一方的に言葉をぶつけたのは私で、こちらだって今更引くことはできなかった。
「言いたいこと、それで全部?」
 黒尾はそう言って、私を見つめる。私が黙って睨み返していると、やがて黒尾は大きく溜息を吐いて、席を立った。ソファの上に放りっぱなしになっていた鞄とカーディガンを腕にかけると、黒尾は言った。
「俺、しばらく実家戻るから。話するならお互い頭冷えてからの方がいいと思うし。あと会社の飲み会は、行きたいなら行けば」
 行きたいなら行けば。突き放すみたいな言い方に鼻の奥がつんと痛くなる。黒尾が部屋を出て行ってすぐ、玄関のドアが閉まる音がした。黒尾が出て行ったという目の前の事実に、数拍遅れて感情が追い付いてくる。悲しいようなつらいような痛いような、まるで胸のやわらかいところを端っこからぐずぐず崩されていくような、そんな気持ち。急にひとりぼっちになった気がして、立つべきか、追いかけるべきか、連絡だけでもするべきか──自分が今どうしたらいいのかすら、何ひとつはっきりと分からなかった。
 言うまでもなく、傷つけたのは私だ。喧嘩になったのはお互いのせいだろうが、謝るべきは私なのだと思う。どちらにも非があるとしてもだ。必要以上にひどいことを言ったのだし、言い分もだいぶ大人げなかった。黒尾は私が黒尾と女の子が歩いているところを見たことすら知らないのに。
 私がこんな風に傷ついた思いをする資格はない。本心では何に傷ついているのかも言わずに勝手に怒り出した私には、黒尾が出ていったことを悲しむ権利はない。それでも、理性や理屈とは関係なしに出てくる涙はどうしようもなかった。黒尾がつくってくれた夕食のシチューに、ぽたぽたと涙の雫が続けてこぼれ落ちた。

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