仕事帰り、偶然見てしまった。
デートのときに私が選んだカーディガンと、私がプレゼントしたきれいな形のジーンズ。トレードマークの寝ぐせはそのままの黒尾が、二回りくらい小柄な可愛い女の子とともに仲睦まじく街を歩いている姿を。
「……なるほど」
驚きのあまり却って冷静な声が漏れ、そこで私は我に返った。誰かと一緒にいなくてよかった。足を止め、眉根を寄せ、食い入るようにふたりを見つめる。ふたりが私に気付く気配はない。
改めてまじまじ見てみると、女の子の方は知らない子だが、残念ながら男の方はどこからどう見ても黒尾だった。五年、いやもうすぐ付き合って六年になる彼氏のことを見間違えるほど、私は目が悪くない。というかあのコーディネートだって、ほとんど私が選んだものだけで構成されているのだ。私の好みと黒尾のルックスを完全に両立させた服選びをするのは私の数少ない趣味のひとつなのだから、それこそ間違えるはずがなかった。
ごくりと喉が鳴る。
暫し距離をとって本人確認をしたのち、二人にばれないようにこっそり建物の影に隠れてから、私は今見た情報と思考を整理してみることにした。
現在時刻は平日の十八時過ぎ。珍しく定時で仕事を上がれたので、少しばかり寄り道して帰るつもりだった。
黒尾の方は、今日は午後に一コマだけゼミがあるといっていた。バイトはないはずだ。だから本来、今の時間は黒尾は在宅しているはずなのだ。夕飯は黒尾の当番になっているから、もし万が一急な用事で外出することになれば、私に一報あるはずだった。
ところがどっこい、現実には私の知らない女子と肩を並べた黒尾が、私に何の連絡もないままにこんな街中を歩いている。定時で上がれたことは黒尾には連絡していなかったが、そうでなくても私が仕事帰りにこの辺りに寄ることがあるということは、黒尾だってもちろん知っている。知っていて、女の子とふたりで歩いているのだから、ふてぶてしいどころの騒ぎではない。仮にあれが浮気だとするなら、それこそ開き直りもいいところだろう。
黒尾の性格は私が一番よく知っている。もしも浮気をするのなら、黒尾は徹底的に、私に隠し通すことができるはずだ。そもそも、黒尾は浮気など絶対にしそうにない。
いや、だからといって浮気じゃないともまだ言い切れないのだが。何せ浮気かどうかを判断するには、あまりにも情報が足りていなさすぎる。黒尾が私に黙って女の子とふたりで歩いていた、というだけでは、浮気だともそうでないとも判断することはできない。
今ここで私がふたりの前に姿を現したらどうなるか。十中八九、黒尾たちと鉢合わせすることになるだろう。そうして黒尾本人から今の状況を説明してもらうことは、きっと容易い。
逡巡の後、しかし私は黒尾たちの前に姿を現すことを見送った。そのままルートを変え、買い物もせずに帰路に就く。途中、そういえば今日は退勤時に今から帰ります、の一報を黒尾に送っていないことに気が付いた。買い物をして帰るつもりだったから、その後に連絡をすればいいと思っていたのだ。
気付いた時にはもう、家に着く直前だった。わざわざ連絡をする気も起きず、そのままマンションへとまっすぐ向かう。
帰宅した二人暮らしのマンションにはやはり、明かりはついていなかった。
私が帰宅してから三十分ほどして、玄関の鍵を外から開く音がした。ほどなく、黒尾が玄関から声を飛ばす。
「たーだいまー……って、あれ名前さーん、帰ってんのー?」
「んー? あー、おかえりー」
もう一度ただいま、と言いながらリビングの扉を開けた黒尾は、やはり先ほど見かけたのと同じ出で立ちで私のいるダイニングを覗いていた。黒尾の服装だけ一瞥して確認し、私はダイニングの椅子に腰かけたまま携帯をいじり続ける。黒尾は特に何も思わなかったようで、キッチンで出かける前に作り置きしていったのだろう夕飯を確認すると、そのままダイニングにやってきて私の前に座る。心なしか機嫌がよさそうで、鼻歌まで歌っていた。
「黒尾、機嫌よさそうじゃん。なんかいいことあった?」
「いや、別にそういうわけじゃねえけど。あ、名前さんもう飯食った?」
「なんかあんまりお腹空いてないから、まだ食べてない」
「ふうん、珍しいな」
自分が出かけていたことの釈明もせず、黒尾は呑気にそう言った。
機嫌がよさそうというよりはいっそ、浮かれているといった方が正しい。そのくらい、黒尾は分かりやすくテンションが高かった。
デートは楽しかった?と、そんな毒を吐きたくなるのをぐっと堪える。そんな嫌味を言ったって、私の心が軽くなるわけでも、黒尾に向けた疑惑が晴れるわけでもない。そんなことは十分分かっていた。
★
黒尾が私と私の属するコミュニティに対してコンプレックスを抱いているように、私は私で黒尾とその周囲に対して引け目や負い目を持っている。まだ黒尾が高校生だった頃から、私にはその自覚があった。
あれはまだ黒尾が高校生だった頃。当時、私は後輩たちの試合を、同学年のバレー部OBたちと一緒にちょくちょく見に行っていた。私たちの代からは遠方に進学した部員はおらず、卒業後もゆるやかな付き合いが暫く続いていた。
全国大会出場の切符はなかなか掴めずとも、音駒バレー部は間違いなく強豪と呼ぶにふさわしいチームだ。そして黒尾は、その強豪校の中でも比較的目立つ部類の選手だった。一年の頃から体格に恵まれ、私が引退した後は一年ながら試合に出ることもあったらしい。ルックスも大人びている。校内校外問わず、黒尾には当時からファンというものがついていた。
いつものように観客席から応援していた時のこと。試合と試合の合間に手洗いに行っていた私の耳に飛び込んできたのは、きゃあきゃあとはしゃぐ女子たちの声だった。手を洗うついでに化粧も直しているのか、一向に洗面台からどく気配がない。出ても仕方がなさそうなので、個室の中で便座に腰掛け携帯をいじっていると、女子たちの会話が扉の隙間から漏れ聞こえてきた。
「音駒の黒尾くん、めっちゃかっこいいよね」
「うんうん、まだ二年生なんだよね? 音駒ってかっこいい人多いけど、私黒尾くんが一番すきかもー」
「わかる。なんか怖そうに見えて実は優しいっぽい雰囲気あるしね。彼女とかいるのかなあ」
「私音駒に友達いるんだけど、黒尾くんと同じクラスの子が告白したらしいよ」
「へえ、付き合ってるの?」
「いや、その子はふられちゃったみたい。彼女いるからって。でも相手の人はもう卒業してるらしいし、チャンスなくはないんじゃない?」
「まじ? ていうか卒業してるってことは彼女の方が年上なんだ? なんか意外かも。黒尾くんって年下の女の子と付き合ってそうなのに」
「それ絶対偏見でしょ」
「ていうかそろそろ試合始まるんじゃない? 戻らなきゃやばいよ」
慌ただしく女子たちがトイレを出ていくのを待ってから、私はやっと個室を出た。のろのろとした動作で手を洗って、それからようやく手洗いを出ていく。
すれ違いざま、ちらりとだけ見た彼女たちの顔を頭の中に描いた。二人組。片方の子は、今思えばかなり可愛かったと思う。どちらも黒尾に少なからず好意を持っているようだった。少なくとも片方の子は結構本気で黒尾を狙いに行っているような口ぶりだったように思える。それがどちらの女の子だったかまでは分からないが、機会さえあればアプローチのひとつくらいはしてもおかしくない。
──黒尾、可愛い女子好きそうだしな……。
付き合ってまだ数か月の頃だ。ほとんど直感的にそう思って、それからあとは早かった。大会が終わって、音駒が敗退して、その翌日には私から黒尾に「別れよう」と言った。
今にして思えば、別れを切り出すにしても最悪のタイミングだ。試合に負けてただでさえへこんでいるところに、追い打ちをかけるように別れ話をしてくる彼女。とはいえその時はそんなことを考え思いやるような余地も余裕もなかった。
別れ話は顔を見たら悲しくなりそうだから電話で。嫌だ、別れないと黒尾は言って、部活が終わった後にわざわざうちまで乗り込んできた。一人暮らしを始めたばかりの私にとって、あれはちょっとした恐怖だった。
とにかく、黒尾は私の「別れよう」に対し、普段のあの飄々とした態度からは考えられないほどしつこく粘ってきた。渋々通したダイニングで──それは今私が座っているこのダイニングで、思えばあれがはじめて黒尾をこの部屋に迎えた瞬間だった──黒尾は憮然として言った。
「別れようって言われて、はいそうですかって言えるわけないから。なんで急にそんなこと言い出したのか、ちゃんと説明してもらうまでは帰らない。というか先に言っておくけど、ちゃんと説明されたところで俺は全然別れる気はないけど、名前さんがそれでも説明したければどうぞ」
当時、私と話すときの黒尾はまだ敬語だったはずなのに、あの時ばかりはため口ではっきり話していたことを覚えている。黒尾でもこんなふうに怒るんだなあ、でも怒っているときでもやっぱり黒尾は黒尾っぽい話し方で、感情的になったりはしないんだなあと場違いなことを思った。
別れ話を冗談なんかで切り出したわけではなかったが、それでもそうして言い募られると、私の決意はあっさり揺らぐ。付き合いだして日が浅いがゆえに、別れ話をするのにも肝をすえられるほど、現実味を持って付き合ってはいなかった。
困り果てた私は逡巡の末、正直に告白した。
「私と付き合ってると多分、黒尾は損すると思う」
「はあ? 何それ、どういうこと? 損とは」
「私と黒尾じゃ生活というか、暮らしのペースが違うから。私は黒尾に合わせられないし、黒尾に無理して合わせてほしいわけでもないよ。黒尾にはもっと黒尾に合った、同じ高校生の子とかの方がいいと思う。そっちの方が多分、うまくいくと思う」
「それって俺のこと信用してないってこと?」
黒尾の目が、険をはらんだ。
「俺が、生活のペースが合わないとかそんな理由で、名前さんのことを好きじゃなくなったりすると思ってるって、名前さんがそう思ってるってこと? 絶対ありえねえんだけど、そんな理由で別れようとか言い出したの?」
「……まあ、うん」
おそるおそる頷くと、黒尾はこれ以上ないほどに深く、溜息を吐いた。
「なに? そんなことで別れるとか言わないでほしいんですけど。つーかそんなの俺合わせるし。名前さんが合わせてほしいわけじゃなくても、俺が勝手に合わせるし」
「いや、でもそれはさ」
「俺、名前さんのことが好きなんですよ。だから、それくらい余裕です」
結局黒尾の押しに負け、私たちは破局することなく今日まで至っている。とはいえ私は自分の言葉を撤回したわけではなかったし、それは多分、黒尾も気付いているのだろう。この件は有耶無耶のまま、お互いに持ち出したりすることもない。なんとなく、触れてはいけないことのような扱いになっていた。
もしかしたら黒尾は黒尾で、もうそんなことはとっくの昔に忘れているのかもしれない。それでも私は、この六年近く、一度もあの時の自分の気持ちを忘れたことはない。
黒尾のことを信用していないわけではない。しかし、信用することと黒尾にとっての最善に無自覚になることは別だ。黒尾にとって何が最良で、何が最善なのか。私の考えは六年近くも前のあの日から、今までずっと変わらない。
「もう夏も終わりだなあ」
窓から吹き込んでくる風に目を細め、黒尾がつぶやいた。卓上カレンダーは先日捲って九月になったばかりだ。
付き合い始めて五年と半年以上。私は今も昔も変わらない。今も昔も黒尾のことが好き。好きだと言われて付き合い始めた関係だけれど、それだけじゃなく私はもう黒尾がいる毎日を当たり前だと思っている。しかし黒尾にとってこの五年半は、私と同じように積み重ねた五年半ではないのかもしれない。そんなことを、ふと思った。
高校生だった黒尾が大学生になって、もうじき社会人になる。その過渡期を一緒に過ごしたからといって、この先の未来を一緒に過ごすことが約束されているわけではない。
黒尾には私のような臆病な大人はつまらなく感じたのだろうか。
しかしそんなことを、まさか黒尾本人に問いただせるはずがない。