花柄バルコニー

 大学生になったら一人暮らしをしようと決めていた。チープでも自分の好きな家具や雑貨や家電を置いて、誰が来ても素敵だと思われるような部屋にしよう。SNSにもアップしよう。平凡ながらきらりとセンスの光るインテリアが好評を博し、フォロワーも増えるだろう。自分のためだけの空間、自分の城。そんな場所を、大学生になったら必ず作ろう──
 そう心に決めていたはずなのに、一体私はどうして、こんな部屋で生活しているのだろう。
 溜息をつきながら部屋の真ん中に立ち、ぐるりと部屋の中を見渡した。
 気に入って買った本棚には、大学の講義で使った教科書と一緒によく分からない表彰状の額縁が並べられ、おしゃれな観葉植物の上には寄せ書きのされた真っ赤なユニフォーム。男性ものの腕時計はテレビ台の上に置き去りにされ、挙句の果てにはどこで買ったのか分からない、何のキャラクターなのかも分からない猫が書かれたコップがテーブルに転がっている。
 お世辞にもセンスがいいとはいえない、統一感のない雑然とした部屋だ。ワンルームには大きすぎるくらいのテーブルの上には、謎コップのほかにも缶ビールの空き缶が所狭しと転がっている。その散らかり具合にとどめをさすかのごとく、テーブルの足元にはどでかい男がごろりと転がっていた。このやろう、蹴とばしてくれようか。
「黒尾、起きて。みんなもう帰っちゃったみたいだよ」
 傍らにしゃがみ込み、まだアルコール臭い黒尾の身体を乱暴に揺さぶる。魘されるかのように、黒尾は低くううんと唸った。

 私の部屋をこんなに雑多な物置みたいにし、センスをぶち壊している男──それがこの黒尾という男子大学生だ。年は私よりも二つ年下で、今年大学三年生になったばかり。もともと一緒に暮らそうと約束していたわけではない。ただ、黒尾が大学進学したのと同時に私の一人暮らし先に転がり込み、何時の間にか居ついていた。
 学生とはいえ親からの仕送りがあるらしく、生活費の半分を彼が出してくれている。なまじよく気が利くぶんだけ私も黒尾を重宝し、居つくのをやめろとも言えなくなってしまった。
 しかしながら問題は、黒尾がこの家で生活していることでも、生活費のことでもない。同棲するより前の通い妻ならぬ通い彼氏時代から、少しずつこの部屋に私物を増やし続けている、この部屋のインテリア破壊行為。これこそが、黒尾との同棲の最大の難点だった。
 女の一人暮らしでは不便な部分──大型家具の組み立てやら防犯面やら、とかく事あるごとに黒尾を駆り出していたら、この始末。おかげで今となってはインテリアのいの字もないような有様だった。
 そんな惨状に溜息をつきつつ、私はふたたび床に転がった黒尾を揺する。
 黒尾の高校時代の友人、つまり私の後輩にあたる男子バレー部のOB数名を呼んで酒盛りをしていたのが昨晩のことだ。私が今朝用事で家を出るときには、全員死んだように酔いつぶれて雑魚寝をしていたのだが、今帰宅したら黒尾以外には誰もいなかった。ほかのメンツはおおかた寝こけている黒尾を放って、さっさと家路についたのだろう。
 すでに日差しが傾き始めている。酔いが醒めた面々が帰っていくのも当然だ。
「黒尾、さっさと起きて部屋片付けるよ。家中お酒臭くて仕方ないんだから」
 いつまでも起き上がらない黒尾に見切りをつけ、窓を開けて換気しながら小言を飛ばす。黒尾はようやくむくりと身体を起こし、それから「頭が割れる……」と額に手をつき呻いた。昨晩の飲み方を思い出せば、宿酔いしていない方がおかしいくらいだ。
「名前さん、いつ帰ってきたの」
「今だよ。もう夕方だよ。お昼食べた?」
「食べてないけど、食えない」
「見れば分かるよ。水は? 水なら飲める?」
「飲む……」
 マネージャーなんてやっていたくらいだから、面倒見はそれなりに良い方だ。浮腫みでぱんぱんの顔をした黒尾にミネラルウォーターのコップを手渡すと、ひとまず散らばった空き缶を回収することにした。黒尾ひとりに任せていては今日中に片付けが終わらないことなど分かり切っていた。
「名前さん」
「ん?」
「今日も綺麗ですね」
 コップの水を飲み干した黒尾はそう言い残し、ふらつく足取りで洗面所に向かった。そのよれよれの姿を見送りながら、私はまた溜息をつく。
 ああいうところがあるから、結局黒尾がどれだけしょうもない彼氏であっても、なんでも許してしまうのだ。そんな自分が情けなく、同時にそんな黒尾がたまらなく愛おしかった。

 ★

 黒尾と付き合い始めたのは、高校卒業の直前──私の卒業式の当日だ。
 当時高校一年生だった黒尾から向けられる好意に私が気が付いたのは、私が高校三年の夏頃。それからほどなく私は部活を引退し、黒尾との接点もほとんどなくなった。はっきり言って、黒尾に好意を持たれていたこと自体、大学の受験勉強に忙しなくして忘れていたくらいなのだ。
 だから卒業式の後、黒尾から空き教室に呼び出され、告白されたときには本気で驚いた。黒尾って、まだ私のこと好きだったんだ。
 高校生にとってのふたつ年下というのは、なかなかの年齢差なのだと思う。彼女の方が年下というのはまだ聞かないこともないが、彼氏が年下というのはほとんど聞かない。少なくとも、私の周りにそういうカップルはいなかった。大学生になれば尚更だ。周りはきっと大学生同士か、社会人の彼氏のいる友人ばかりになるだろうことは分かり切っていた。
 それでも、私は黒尾の告白を受けた。こちらこそよろしくお願いしますと返事をした。
 顔に似合わず、まっすぐ純粋に私のことを好きになってくれた黒尾のことを大切にしたいと思ったし、部活で汗だくになっている私や大声をあげている私を見た上で好きになってくれたというところが、何というかぐっときた。あとは単純に、黒尾は可愛い後輩だった。それこそ、ふたつ年下だということがネックにならないほどに。
 そうして付き合い始めて、今年でもう五年目を数える。現在、私は社会人、黒尾は大学生。
 付き合い始めた最初に思ったよりも、私たちはまあ、それなりにうまくやっていると思う。


 シャワーを浴びて戻ってきた黒尾はまだ苦い顔をしていたが、それでも先ほどよりはかなりさっぱりとしていた。私から麦茶を受け取る腕から、ほのかに石鹸のにおいがする。
「いやー、久しぶりにあんなに飲んだわ」
 別段反省した風でもない言い方に、思わず呆れてしまった。
 黒尾の飄々とした物言いや態度にはこの五年ですっかり慣れた。いちいち突っかかったり気にしていては、こちらの身がもたない。
「ビールと日本酒ちゃんぽんなんてしたら、死にかけるの分かってたでしょ」
「言い出したのは夜久だし。あいつ酔うとまじで鬼なんだよな」
「あんなに可愛い顔してんのにねえ」
 最近めでたく飲酒が合法になったばかりの黒尾たちは、年上の私から見れば無茶な飲み方ばかりしているように見える。あんまりうるさく言うのも水を差すかと思い、同席していても黙って見ていることがほとんどなものの、正直心配にはなる。特に黒尾は見かけよりも酒に弱い。これが彼女としての心配なのか老婆心なのか、はたまたその両方なのか、自分では判断しかねているのだが、ともかくあまり危ないことをしてほしくないというのが、もっとも本心に近い感想だった。
 しかし思い返してみれば、自分が大学生の頃には黒尾ほどではないもののある程度の無茶もしていたように思う。お酒のことに限らず、そういう無茶で当時まだ高校生だった黒尾に嫌がられたことだって、数えきれないほどにある。
 そう考えれば、無茶をしながら自分の許容量や大人の楽しみ方を覚えていくのだと割り切って、あまり口うるさいことは言わない方が良いのかもしれない。年上であっても恋人同士である以上は対等な関係なのだから。
 そう自分の心に折り合いをつけたところで「けど」と黒尾が口を開いた。
「名前さんが嫌がるし、ああいうのは極力やめるようにする」
「え」
「一回やりゃ十分っつーか、まあ彼女が嫌がることはしませんよ」
 何よりもまず、あれだけ酔っていても私の表情を見ていたことに、素直に驚いた。年上として、私だってあからさまに心配や不安を表に出したりしていなかったはずだ。それでも黒尾はちゃんと見て、読み取ってくれている。昔から人のことをよく観察している子だとは思っていたが、改めてその視野の広さに感心した。
 麦茶のコップを流しに戻した黒尾が、ぎゅうと私を後ろから抱きしめる。石鹸のにおい、あったかい肌の温度。少しだけ残っているアルコールのにおいは、不思議と不快に感じなかった。
「……黒尾って、そういうところが本当にずるいよね」
 溜息まじりの言葉は、本心ではあるが本音ではない。ふたつ年下の彼氏が今どんな顔をしているのかは分からないが、おそらく可愛げのある顔はしていないだろう。
「うん? まあ、それなりに?」
「年下のくせに」
「きれいなお姉さんに飽きられないようこっちも必死ですよ」
 こっちだって、かっこいい年下彼氏に溺れないように必死ですよ。気恥ずかしくなるような言葉は胸に閉じ込め、私は回された腕にそっと手を添える。
 酒臭くて散らかったワンルームの中でくっついているこの時間が、永遠に終わらなければいいのに。そんなことを考える。

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