第四話

 四、柳襲 ─六年冬─

 壁の外から聞こえる音はなく、部屋の中にはただ、衣擦れの音と七松がむにゃむにゃ寝言らしきものを口にしている音だけがある。窓がないのでさだかではないが、夜はまだ明けていないだろう。どれだけ耳を済ませようとも忍術学園の喧噪はそこになく、ここが自分の知る土地ではないことを実感する。
 七松がごろんと寝返りを打つ。私に向けられた背中は大きく、十五といっても男はやはり男なのだということをしみじみ感じる。
 昨晩は一日歩いた疲れなどものともせず私を抱いた七松だが、果たして今日もまた私を腕の中に閉じ込めるのだろうか。そのことを思うとまだ朝だというのに、足の間が妙にもどかしいような気がした。

 卒業前の小旅行に出ようと言い出したのは七松だった。年明けに開催された卒業試験はふたりとも無事に合格をもらい、あとは余生のような学生生活を過ごすのみだったところに、ある日突然そんな話を持ちかけてきたのだった。
 七松が小旅行の話をしたのは二月の頭。私は三月になったらすぐに郷里に戻ることになっていた。七松がいつまで忍術学園にいるつもりかは知らないが、そもそも忍術学園には明確な卒業式というものはない。みんな大体が仕え先や家の事情に合わせて適当な時期に散っていき、三月も半ばを迎えるころには誰もいなくなっているというのが毎年のことだった。
 三月の頭に卒業するというのは、別段早くも遅くもない。くノ一教室の生徒としては遅い方なのかもしれないが、そもそもくノ一教室からは毎年六年の卒業生が出るとも限らないから、これまでの卒業生の先輩方と比較することは難しい。
 私が忍術学園を卒業するまで、あとひと月を切っている。くノ一教室には委員会もないから、これといって下の学年に引き継がなければならないようなこともない。また三月の頭に帰ると決めてはいたもののそのことに確固たる理由や事情もなく、言ってしまえばそれは「そのくらいが何となくちょうど良さそうだ」くらいの理由でしかなかった。
 数日悩み、私は結局、七松からの誘いを受けることにした。どのみち忍術学園を卒業してしまえば、この先の人生で七松と顔を合わせることもない。であれば最後くらい──親からも、夫となるだろう誰かからも縛られない最後の時間に、七松と何か思い出をつくるのも悪くないことのように思えた。

 朝餉をとってから宿を出た。学生のふたり旅なので大したところには泊まれない。馬もないので、そう遠くまで行くこともできない。それでもこうして忍術学園を離れ足を伸ばすと、なんだか普段暮らしているのとは別の世界に七松とともに逃げてきたような、そんな気分だった。
「今年の冬はあたたかいね」
 道行きの最中、路傍に生えた枯草を眺めながら私は言う。
 忍術学園のあたりは毎年結構な積雪がある。昨年ほどの大雪は珍しいものの、例年忍たまやくノたまの下級生たちが雪遊びをしたりかまくらを作ったりするのが恒例になっていた。
 今年は夏が冷え、冬はあたたかい。よくないことの兆候なのではないかという話も聞くが、そこまでのことは私には分からない。
 私の言葉に、七松は「そうだなあ」とのんびり返事をする。綿入れを着こんでいる私と違い、七松はほとんど秋のような見るからに寒そうな出で立ちだった。
「去年はあんなに雪が降っていたのに、今年はその気配もないな」
「まあでも、旅をするにはちょうどよかったとは思うけど」
「それもそうか」
「でも雪を見るために出てきたのにねえ」
 旅の行先ははっきりとは決まっていない。ただ、雪を見ようとそれだけしか七松からは提案されていなかったし、私もそれ以上のことを決めようとしなかったからだ。旅の進路も、何となく日本海へと向かっているだけで、決まった道を進んでいるわけではない。
 雪なんて毎年飽きるほどに見ているのに、七松がどうしてそんなことを言い出したのか分からない。そんな思いを滲ませての言葉だったが、その答えは七松本人が拍子抜けするほどあっさりと教えてくれた。
「別にそれは建前だから、私は雪なんか見られなくても全然かまわないけどな!」
「そっか」そこまではっきり言い切られると、いっそ清々しい。「七松ってそういう人だったね」
「なんだ、名前は違うのか?」
 心底不思議そうに問う七松の、その微塵も胸奥を隠そうとしないあけすけな瞳に、何故だかかっと胸と顔が熱くなる。
「ううん、私も七松と同じ」
 そう口にしたのと同時に、白いものがひとつ、視界の端を舞うように落ちていった。

 夏、私と七松ははじめて肌を重ねた。私が傷を負って忍術学園に戻り七松を怒らせた、あの日のことだ。
 夏だというのに外の空気はひやりとしていて、けれど部屋の中はむせ返るようにむっとした熱気で包まれていた。
 七松のしなやかな身体は、動物というよりもむしろ蔓草のようだと思う。固い肌も締まった筋も、すべてがまるで野を這う蔓や蔦のようだった。
 普段あれほどまでに荒々しい七松が、服を脱ぐとどこまでも静謐で物言わぬ草木に似ている。そんなふうに思えてしまうことが、何とも不思議に思えた。
 しかしそんなことを考えていられたのは行為の序盤までだった。七松の手によってあらわになった乳房の先を、七松の固い指先が躊躇なくつまむ。あ、と声が出たときにはもう、七松の足が私の固く閉じた足を割っていた。
 その先は何を考えることもできないほど、ただひたすらに激しく乱された。
 私ははじめての情交にもかかわらず、そして全身満遍なく傷ついた身であったにもかかわらず、七松の手によって天地すら分からなくなるほどに貪られ、上と下とをひっきりなしに交代しながらさながら獣のようにまぐわった。
 結局私と七松は汗だくになって求めあっているところを善法寺に見つかり、下級生も使う医務室の隣で何をしているんだとこっぴどく叱られた。それ以来、忍術学園の中では一度も抱かれていない。

++

 つい先ほど七松のそれを引き抜かれたばかりの股は、一度ならず達したにも関わらずまだ妙にそわそわとしていた。けれどこの二日間ほとんど歩きどおしで、そのうえ二夜続けて抱き合うのははじめてのことだったから、女としての疼きはさておき単純な体力はすでに現界を迎えていた。
 言えば七松は、もういっぺんどころか何度でも構わず私を抱いてくれるだろう。そして七松の方は体力も精力も尽きることを知らない。だからこそ、私は何も言わず布団にうつ伏せになっていた。今夜のうちにもういっぺん肌を許せば、明日の足腰が使い物にならなくなることは分かり切っていた。
 私を抱いた後に部屋の外に用足しにいっていた七松が戻ってくる。戸が開くのと同時に、外の冷たい空気が勢いよく部屋の中に流れ込んできた。裸のまま布団にくるまっていた私は、思わず「ひゃっ」と子供のような悲鳴をあげた。
「外、雪すごいぞ」
 七松が嬉しそうに言う。雪を見ようというのが旅の建前だったことはすでに聞いていたが、それでも雪が見られればやはり嬉しいものらしい。雪なんて忍術学園で六年を過ごした私たちには珍しくも何ともないはずなのに、七松の瞳は夜の闇の中でも子供のようにきらきらと輝いていた。
「それに、近くを川が流れてるらしい。さっき雪隠でせせらぎみたいな音が聞こえた」
「そうなんだ。このあたりの地形はよく分からないけど、海につながっているのかもね」
「潮のにおいはまったくしないけどな」
 詳しい地形や土地のことは分からなくても、自分たちが今大体どのあたりを歩いているのかくらいは分かる。いくら海に向かっているとはいってもまだまだ内陸であることに間違いなく、七松の野生じみた感覚をもってしてもさすがに海の気配を感じるのは無理なことのようだった。もっとも私には川の音だってまったく聞こえない。
 七松がごそごそと布団の中へと入り込む。自分の布団も隣に敷いてあるのにわざわざ私の布団にもぐりこんでくるのは珍しいことだった。冷たい足先が私の足の裏をこするが、距離をとろうとするより先にぐっと肩に腕を回された。
 うつ伏せにしていた体勢から転がり、七松の胸元へと顔を寄せる。外から戻った七松の身体は冷えていたが、すぐに私よりも七松の方があたたかくなった。
「川の流れる音を聞くと、お前のことを思い出す」
 私の頭を抱きかかえ、七松がぽつりと言った。そういえばいつだったか、実家の近くに大きな川が流れている話を七松にしたのだっけ、とその肌のぬくもりを感じながらぼんやり思い出す。
 川。三途の川。三瀬川。
 初開の男を河岸で待ち、その男とともに渡る川。
 いつか私を娶る男とでは、私はそこを渡れない。

「私の実家にはね、それはそれは美しい着物があるのよ」
 川の話をしたときと同様、今度もまた脈絡なく発した言葉は、七松の胸の中に吸い込まれていった。自分でもどうしてそんなことを言ったのか分からない。けれど、七松から川と聞いたとき、私の頭の中にはぼんやりとその着物の色が思い出されたのだった。
 くノ一教室の中庭に植えられた立派な松と同じ色の、美しい着物。
「へえ、着物か」
「曾祖母が着道楽なの」
 七松に家族のことを話すのははじめてだった。川の話をした際に両親のことにはちらりと触れたが、あれはあくまで川の話をしたのであって、家族の話をしたかったわけではない。
 忍術学園で家族の話をすることは、時としてふたりの間にある距離を大きく広げることになる。それはいくら七松の膂力が凄まじくとも、たとえ人並外れた体力を持とうとも関係ない、誰にもどうすることもできないことだった。
「着物といっても普段着るようなものでもなかったし、あれは多分もう長く誰も着ていないとも思うのだけど──だけど、ずっと手入れだけはされていて、大切に大切にされていた着物でね。その着物を我が家では襲色目の名前をそのままとって、『松の雪』と呼んでいたのを、今ふと思い出した」
「ふうん。私はそういうことはさっぱりだなぁ。雪ってつくからには白いのか」
「表が白で、裏が青。柳の青だから、柳襲とも言うけど」
「なるほど、聞いてみれば安易な名づけだな」
「そうだね」
 その着物は今は大切にしまわれていて、手入れのときでもなければ滅多にお目にかかることもない。私が忍術学園に入学してからはなおさらで、最後に見たのはきっと、まだ私が下級生の頃のことだ。
 父は着物に興味がなく、母は祖母と折り合いが悪い。だから祖母が亡くなったのちは、私がそれを貰い受けることになっている。
「白と、青か」
 ややあって、七松が呟いた。私の髪を手慰みに梳く七松はからりとした声音で、「あんまりお前には似合わなさそうな色だな!」と笑った。そのあまりにもな言いぐさに、私は思わず七松の胸を手で押し身体を離す。もちろん七松はそのくらいではびくともしないが、私の抵抗に不思議そうに目を丸くした。
「七松、そこは嘘でも『さぞお前に似合うだろう』っていうところじゃないの?」
「え? 似合うのか?」
「分かんないけど」
 多分、似合わない。だからこそむっとするのだ。七松に着物が似合うかどうかなど分かるとは思えないのに、似合わないだろうことを正しく指摘されたのが腹立たしい。
 しかし七松は、私がむっとしていることなど気にも留めない様子だった。相変わらず手は私の髪を梳いたまま暫く何か考えていた七松は、やがて、
「それじゃあそのうち、私の前で着て見せてくれ」
 と、また何でもないことのように言って笑った。
 思わず、胸をつかれた思いがした。何とも言葉を返しあぐね、私はじっと沈黙する。
 今この時間が私と七松にとっての何であるかを、私も、そして七松もけして知らないわけではない。この時間の終わりに何があるのかを知っていて、それで私たちは一緒にいる。
 七松の言葉はあっけらかんとしていた。まるでそれが当たり前の言葉であるように、自然で自由で、いつもの七松の声だった。
「分かった」
 ようやく答える言葉を決めた私に向けられた、七松の瞳は深く深くやさしい。
 やさしい獣のような目をしていた。
「私七松のために必ず『松の雪』を着て待っている。だから必ず、迎えに来てね」
 耳の奥でごうごうと川が流れる音がする。その音を聞きながら、私は七松の胸に顔を寄せた。

 了

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