第三話
劈頭 ─六年夏─夏だというのに、肌がふつふつと粟立っていた。ひどく寒い夏だった。夏らしい晴天だが、あいにくとこの医務室の戸はぴったり閉められ、外の様子をうかがうことはできない。煎じた薬のにおいや枯草のにおい、それに部屋の隅に詰まれた書物の紙のにおいがまじりあい、医務室はこの忍術学園の中でも異質なにおいがした。
普段であれば、医務室の責任者である新野先生か、保健委員会の誰かがこの部屋をあずかっている。けれど今は私と、それからもうひとり、医務室の閉じこもった空気に馴染むことのない男がひとり、向かい合うように座しているだけだ。六年生がふたりいるのだから少しくらい医務室を空けてもいいだろう、と先ほど医務室の番をしていた善法寺が昼食のために出ていったばかりだった。
出ていった善法寺の、あの気まずそうな顔を私は当分忘れないだろう。
いくら恋人同士だからといったって、ただの女である私と怒り猛る七松を密室に放置して去るなど、そんなことは人がすることではなかった。
「見せてみろ」
やにわに七松が発した。何を、と答えるより先に、強い力でぐいと腕を前に引かれる。手甲を外した肌にはちょうど七松が掴んでいるのと似たような位置に痣が浮かんでいて、七松の熱い肌が触れるとそこが鈍く痛んだ。
「いっ」
「痛い?」
「……少し」
痛い、と答えるのは憚られた。七松の目を見ることもできず小声で答える。目のまえの七松はどう見ても怒っているはずなのに、不思議なくらいに静かで、恐ろしいほどに穏やかだった。ただ、私の腕を掴む力には手加減がない。それがわざとなのか、それとも無意識にそうなってしまっただけなのかも分からず、私はじっと俯き、ただ耐えた。
校外での実習の帰り、ついでに学園長先生から頼まれたおつかいのため金楽寺に立ち寄った、その帰りのことだった。夜道で酔った男に絡まれた私は、あやうく襲われるところだった。
すんでのところでどうにか逃げ出したものの、相手が二人連れだったこともあり、体にはもみ合ったときにできた細かな傷や、打ち付けた青痣がいくつも浮かんでいた。
倒そうと思えば倒せたのかもしれない。懐にはいざというときのための忍具だってあった。くノ一教室の六年として、酔っぱらった相手をふたりくらいやりこめることは、多分できただろうと思う。
けれどそうしなかったのは、頭のどこかで悪人になりたくないのだと、そう思ったからだった。それはけして善人じみた思考ではない。ただの保身からくる甘えだ。
三途の川を渡るときに、生前の罪深さによって渡る手段が変わるのはよく知られている。私はそのとき、罪人として川を渡るのが嫌だった。くノ一教室六年となった今でもそんな甘いことを考えてしまうのは、私に染み付いた悪い癖のようなものだった。
自分でも愚かだと思うけれど、そう思ってしまったのだから仕方がない。結果的には酔っ払いふたりは撒くことができ、こうして無事に忍術学園に戻ることができた。不慮の怪我はあったもののむやみに忍びの術を使うことをしなかった私は、誰に責められることもないだろうと、そう思った。
ただひとり、七松をのぞいては。
七松に腕を掴まれたまま、一体どのくらい時間が経っただろうか。出ていった善法寺が戻ってくる気配はなく、それどころかほかの生徒が医務室に立ち寄りそうな気配すらない。もしかしたら善法寺が医務室に近づかないようにと言っているのかもしれないと考え、それもあながちあり得ないことではないだろう、と納得した。七松が静かに怒っているような場所に大切な後輩を送り込むような真似を、まさかあの善法寺がするはずがない。
となるとここで七松とともに取り残された私は、さながら人身御供のようなものだろうか。果たして私の身ひとつで七松の逆鱗がおさまるのかは甚だ疑問だった。
「どうして言わないんだ」
低く唸るように、七松は言った。比喩ではなく、本当に獣の唸り声のような声だった。背中にぶわりと嫌な感覚が走る。
六年になったばかりの春から、私と七松は互いに想い合う仲になっていた。明確な線引きを持って決められた関係ではなかったが、それでも互いにいつ頃からかそういう認識になっていたし、たとえば善法寺とか中在家とか、私と七松を取り巻く親しい人間もそういうものだと認識していた。
だから、七松が怒るのも事情としては分かる。私だって、よもやそんなことはないだろうとは思うけれど、七松が傷を負って忍術学園に戻ってこれば事情を問いただしたくなるに違いない。
だから、分かる。分かるのだけれど。
「だって、言ったら七松怒るだろうから」
怒りに油をそそぐかもしれない、そう思いながら言った言葉に、七松は意外にも怪訝そうに眉をひそめるだけだった。ぐるりと大きな目玉が一瞬すばやく動き、とらえるように私を見据える。
私の中の何かを、見定めようとしているみたいだと思った。
「そりゃあ怒るだろ」七松は言う。
「でも相手の人たちは酔ってただけだし、結局何事もなかったわけだし」
「何事もなかった?」
七松が、つかんだままだった私の手をひねり持ち上げた。自分の肌の下で、関節がにぶく軋む音が聞こえた気がする。
七松の視線は指先から腕の痣と傷をなぞった後、私の首元まで上がってくる。そうして前置きなく襟ぐりをつかむと、片手で乱暴に私の襟元をはだけさせた。
「これのどこが何事もなかったんだ」
あらわになった私の肩には、ひとつはっきりと歯型がついていた。先ほど善法寺に応急手当をしてもらったが、その歯型の傷がもっとも深いと言われている。今は包帯も何もあてていないが、新野先生にみてもらった後に薬を出してもらうことになっていた。
私に絡んできた酔っ払いの彼らにとって、おそらく私の抵抗は思いがけないことだったのだろう。酔っ払いたちは驚き、そして咄嗟に私に暴力を働こうとした結果が噛みつくことだったのだと思う。武器でつけられた傷ではないが、咄嗟の反撃であったぶんだけその傷には容赦がなかった。
その歯型を、七松はじっと見つめる。見つめる瞳からは感情は読み取れず、私はただ漠然と怒っているのだろうな、と推測するしかない。七松の怒りがどの程度なのかも測ることができないまま、私は七松の言葉を待った。
「私は自分の女に跡を残されて何も思わないほど、腑抜けた男じゃない」
「でももう、相手がどこの誰かも分からない」
「そんなもの、どうとでも調べることはできるだろ」
気休め程度の言葉はすぐに粉砕され、私は口をつぐんだ。
自分が思っている以上に七松は私のことを大切に思っているのかもしれない、なんて、そんな烏滸がましいことを思ったりすることはない。いくら関係性がわずかに変化したといったって、私と七松は想いが通じる前からもうずっと互いを知っている。七松がどういう人間かなど、私はよく知っている。
七松は獣のような男だ。
獣が服を着て、人間とともに暮らしている。
普段は人らしく振舞っているものの、ふとした時に垣間見える獣性は隠しようがない。忍術学園に入学して正しい精神の在り方や力の扱い方を覚えていなければ、きっと七松はいつか人の世を追放されかねないようなことをしでかしていたに違いない。
あまりの明るさ、眩さに時々忘れてしまいそうになる。
七松は、限りなく獣に近い生き物だということを。
だからこそ私は多分七松に惹かれるのだし、からりと人間のように笑う七松を好いている。
「ねえ、七松聞いて。これ以上そうやってぴりぴりするのはやめてほしい」けれど私はどこまでも人間だから、結局のところこうして言葉を連ねるしか方法を知らない。「私はもういいって言ってる。このことは私の中でもう終わったころになってるんだよ。私の不注意でもあるんだから、これ以上怒ったりするのはやめて。まして報復なんて、絶対にしないで」
私に向けられた七松の視線が、じりじりと私の肌を焦がすように熱を持つ。今度ははっきりと、怒っているのだと察することができた。
そして察した瞬間、七松が空いた片手で思い切り床を殴った。木床に穴が開くことこそなかったものの、七松がなぐったそこは明らかに木材がめこりとへこんでいた。
「そこまで言うのなら、名前が私の怒りを鎮めてくれ」
静かに七松が言った。私が返事をする間もなく性急に私の身体を抱きかかえると、七松はひょいと小脇に大股で部屋を横断する。医務室の隣には入院した生徒をあずかるための簡易の宿泊場のような部屋があり、七松はそこの敷きっぱなしになっていた布団の上にぞんざいに私を下した。
何もかもが性急だった。七松はすぐさま私の上に跨り、頭の左右に腕をつく。退路を塞がれたのだと理解したのは、それより数拍遅れてからのことだった。
「七松、」
「お前は私に、自分が侵さず守ってきたものを踏み荒らされそうになっても、それでも怒るなと言うんだな」
私に覆いかぶさる七松の、低く這うような声。それはけして獣の発する音ではなかった。
何かを堪えるように掠れた声は悲しくて、私はようやく七松がただ怒っているのではないことを知る。
身をよじらせ、腕を自由にする。頭の横に下された七松の手にそっと触れると、そこには激情など一切感じさせない、乾いて冷たい男の手だけがあった。
「七松、ごめんなさい」手の温度を感じながら、私は言う。「ごめんね、七松」
七松は暫く何も言わなかった。私の上から退くこともせず、さりとて何かをしようとするでもなく、じっと無言で私を見下ろしていた。
先ほど七松の目に宿っていた熱は霧散している。今はまた掴みどころのない大きな黒い玉のごとき眼球が、重力に従ってこちらを向いているだけだった。
「私、名前のことが大切なんだ」
やがて、ぽつりと七松が発した。
「うん」
「だから、私の知らないところで傷つくな」
「はい」
「私が名前を大切に思って憤ったりする気持ちを、奪わないでほしい」
「そうだね。ごめんね、七松。悪いことをしちゃったね」
「怒らないでほしいと言われたら、怒らない努力はする。だから、最初から怒る権利を取り上げるのはやめてくれ」
「うん、約束するね」
果たしてこの先、こんなことが何回あるのだろうか。私と七松はもう六年生、最上級生で、そして今の季節は夏だ。忍術学園を卒業するまで、もうあと半年ほどしか時間がない。
忍術学園を卒業してもなお、七松と一緒にいられるなんてことがあり得ないことくらい、私はとうに知っている。七松もまた、そのことに気付いたうえでこうして私と一緒にいる。
この約束に意味などあるのだろうか。
そんなことを七松に組み敷かれながら、思う。
「名前」
ぼんやり思考に耽っていると、ふいに七松が私を呼んだ。
「はい」
「困ったことに、鎮まらない」
そう言って七松は、わずかに体勢を変えると私の膝を立てさせる。立てた先には七松の股間があって、そこは固い棒でも入れているような状態になっていた。
「な、分かるだろ」
「だろって言われても……」
思わず沈黙する。その沈黙を破るように、
「鎮まらないんだ。魔羅だけに」
と七松が果てしなくくだらないことを言った。この宿泊室にも、そして隣の医務室にも、依然として人の寄り付きそうな気配はない。七松のもの言いたげな視線を受けながら、私は素早く頭の中でいろいろな事情を目算した。と言ってもほとんど未知のことを計算に入れることはできないので、その目算はどこまでも杜撰な目算でしかない。
胸の中にたまった空気を一度に吐き出す。それから私は七松の視線にこたえるように、目と目を合わせた。
「いいよ、今なら。七松なら」
嘆息して、そう答えた。どのみち七松をこのまま帰すわけにもいかないのだろう。私だって、七松とそういう仲になることが嫌なわけではない。
十五の夏。初潮をむかえて二年目の夏。
私はまだ、破瓜の痛みを知らない。
遅くも早くもないことだとは思うけれど、実家の親が知れば恐らく、私は怒られぶたれるのだろうということだけが茫漠と心残りのように思えた。
けれどそんな心残りは、結局のところ取るに足らないものでしかない。
「──できるだけ、身体に障らないようにする」
早速手を私の胸元に伸ばしながら、七松が七松らしからぬことを言った。思わず「そんな加減ができるの?」と問えば、
「自信はない」
と自信たっぷりな返事が返ってきた。
遠く、どこか分からない場所から、ごうごうと川の流れる音が聞こえた気がした。