第二話

 冠雪 ─五年冬─

 くノ一教室の中庭には大層立派な松の木が植えられている。何でもくノ一教室開校時に記念樹として植えられたそうで、試しに節の数を数えてみると大体十くらいだった。松は一年に一節成長するというから、大体そんなものだろう。
 松は枝葉の上にこんもりと雪をつもらせ、重たげに先をしならせている。
「随分積もったなぁ」
 よ、と声がして、すぐそばで地面を蹴る音がする。かと思えば、目のまえには生け垣を乗り越えて飛び込んできた七松が立っていた。どこを駆けてきたのか、つい先ほどまで降っていた雪は今はやんでいるにもかかわらず、七松の髪には雪のかけらがちらほらと髪飾りのようにくっついている。それらがすぐに融けてしまわないのは、よほど七松の髪が凍り付くように冷たいからなのだろう。七松の頬も鼻も、こどものように赤い。
 当たり前のように侵入してきているが、ここはくノ一教室の敷地である。
「だから、男子禁制」
「ええ? それもうよくないか」
 勝手なことを言う七松だった。私は嘆息する。
「もういいって、どういう理由でよくなっちゃうの」
「くノ一教室で残っているのは名前だけだろ」
「私が残っている以上は、だめ」
 それとも七松にとっての私は女の数に入らないんだろうか。そんなことを考えて、それ以上思考を続けるのはやめる。考えても楽しい話題ではなさそうだったし、七松に正面切って尋ねることもしたくないような話題だった。
 頭に浮かんだ思考から逃げるように、視線を七松から中庭の松へと移す。すると七松もつられたように松を見遣り、白いな、と呟いた。
「お前も実家に戻らないわけじゃないんだろ? 早く帰らないとどんどん道が悪くなるぞ」
 自分のことは棚に上げ、七松が言う。ふつか前に冬休みに入った忍術学園では、忍たまとくノたまを合わせても残っている生徒は限られる。夏も秋も帰省しなかった私は、冬こそちゃんと帰ってくるようにと念を押されていた。さすがに年末年始に嫁入り前のひとり娘が不在というのは、両親としても色々と思うところがあるらしい。
 雪はもう数日の間、しんしんと振り続けている。昼間は一時降りやむこともあったが、一日のほとんどの時間は雪雲が空を覆い、ろくに陽がささないような日が続いていた。
 かりに雪がやんだところで暫くは路傍に雪や氷が残るだろから、帰るなら早めにという七松の言葉は、たしかに一理あった。
「それでもこのドカ雪がそう何日も続くわけじゃないだろうし、年末までにはどうにかなるでしょ」
 いつものように濡れ縁に腰をおろし、私は手にはあっと息を吐きかける。座った縁側はしんと冷たく、木床に触れた尻から、じわじわと冷えが身体をのぼってくるような心地がした。
「実家、近いんだっけ」
 七松が問う。私は頷く。
「二日もあれば着くよ」
「ふうん、じゃあまあ、いいか」
 私の足で二日。七松ならば本気を出せば半日で着くのではないだろうか。そのくらいに近いので逆になかなか帰省する気にもならないというのも、私がこうしてだらだら帰省を後回しにしている理由のひとつだった。
 ふと、どさりと重い音がした。見ると先ほどまで白く雪を積もらせていた松の枝から、雪のかたまりが根こそぎ地面に落ちていた。松の枝はまた元のようにしゃんとして、さも身軽になったというような佇まいだ。
 七松が大股で松に近寄る。そうして何を思ったか腕をぶん回すと、松の木に思い切り張り手をした。
 当然のように雪はどさどさと地面に落ち、幹のそばに立っていた七松もまた、頭から大いに雪をかぶった。
「おい、すごく雪が落ちた!」
 考えなしの子供のようなことを言う。何が楽しいのかかっかと笑っている七松は、果たして本当に私と同じ十四なのだろうか。私にはあんなふうに、雪を頭からかぶって笑っていられる自由さはない。そんなものは、下級生のころにとうになくしてしまっていた。
 そんな七松の姿を見ていてふと、私はあることを思い出す。ほんの束の間だけ悩んだが、私はそれを口にすることにした。
「私の家に帰るまでにはね、川をひとつ渡らなければならないんだ」
 脈絡なく切り出した私に、七松はこてんと小首を傾げる。七松の頭頂部につもった雪が音もなく地面に落ちた。
 と、七松が蛙のようにぴょんと大きく跳ねた。そうして音もなく私の隣におりたつと、足袋をはいたまま濡れ縁にあぐらをかく。
「なんて川?」また、七松が問うた。
「名前は忘れちゃった。地元ではただ『そこの川』で通るもの。大きくて結構水流も速くてね。女こどもがひとりで渡るのは危ないっていうんで、昔からそこにはちゃんと渡船があって、それで渡るの」
「ふうん、面倒くさそうだな」
「まあ、そうなんだけどね」
 しかし私の実家からでは地形上、町に行くにも何処に行くにもその川を渡らないことにはどうにもならなかった。だから私にとって川は幼いころから身近なものだったし、同時に心の奥底にずっと流れ続ける畏怖、恐怖の対象でもあった。近くで戦などがあったあとには、その川を人間だったもの、あるいは人間だったものが纏っていただろう装備が、ごうごうと音を立てる川の中を押し流されるようにして下っていった。
「その川を渡るのが、昔はすごく怖かったなって、七松と話していてふと思い出した」
「怖い? なんで? 流されるから?」
「もちろんそれもあるけど、昔から私の親が三途の川の話を子供によくしていたんだよ。脅かすためにだと思うんだけどね。それで、ただでさえ川って戦で亡くなった人なんかが流れていく印象が強かったから、漠然と川って怖いものなんだと思ってた」
「脅かすってどんな」
「いい子にしてないと三途の川で溺れるよとか、獄卒に頭かち割られて死にきれなくなるよとか」
「それは怖いな」
「ね、子供にする話じゃないよね。第一三途の川を渡るってことはその時点で死んでるってことだし」
 話しながら苦笑する。普段からあっけらかんとした両親のことだから、話をするにしても、きっとそこまで深く考えていなかったのだろうとは思う。とにかく子供が怖がって言うことを聞けばよかったのだろう。実際、効果はあった。私は川の話を怖がって、川で溺れることがないようにと両親の言いつけをよく聞いた。
 当時はとにかく怖かった。
 今もまだ、少し怖い。
「七松と話してたら、その川の話を思い出したよ。まあ、昔のことで今はもうそこまで怖くもないけど」
 それは単に、私がそんな子供だましの話を信じるような年齢ではなくなったということもあるし、もうひとつ、母から無事に三途の川を渡る秘密の方法を聞いたからだった。
 三途の川は様々な呼ばれ方をするが、その中にひとつ、三瀬川という呼び名がある。そして三途の川が三瀬川と呼ばれるとき、人が連想するのは男が女を背負って彼岸へ渡るという古い俗説だ。
 女ははじめて契った男の背に負われ、三瀬川を渡る。逆にいえば、初開の男が背負ってくれなければ、女は川を渡れない。
 母は父上が背負ってくれるはずだから大丈夫、あなたもきっと大丈夫よ、とそんな話を母から聞いたのは私が物心ついた頃だった。今思えば、とんでもない話をしてくれたものだ。
 たった一度聞いただけの話だけれど、私はずっとその話しを忘れずにいる。
「冬の川は落ちたら寒いだろうなぁ」ぼんやりと、七松が独り言のように呟いた。「それにしても、今日は冷えるな」
「そんな薄着をしてるからだよ。七松ってば秋ごろとまるきり同じ格好してるじゃないの」
「動けば暑くなるかと思ったんだけど、というか実際さっきまでは暑かったんだけど、名前がいる気配がして足を止めたらすぐに冷えてしまった」
 裏裏山まで言ってたんだ、と七松は言った。なるほど、それならば防寒着を着ていないのにも納得がいく。
「ちょっと待っていて、たしか綿入れがあるから」
 立ち上がり長屋に向かおうとする私に、七松は「ええー、それ女物じゃないの?」と文句を言う。
「女物だけど、別にいいでしょ。誰も見てないんだし」
「名前が見てる」
「私が見てるだけだよ」
「うーん……まあいいか」
 渋る七松を置いて長屋に戻り、自分の代えの綿入れをとると、急いでまた七松のもとへと戻った。七松のことだから長く待たせると飽きてどこかに行ってしまうかもしれない。
 普段は後輩たちの手前、どれだけ急いでいても廊下を走るようなことはしない。けれど今は休みで私以外のくノたまはいない。躊躇いなく廊下を駆け抜け戻ると、七松は先ほどと同じようにあぐらをかいて降り積もった雪を眺めていた。綿入れを手渡すと、不承不承といった様子ながらも大人しく袖に手を通す。
「なあ、もこもこして動きづらいんだけど」
「そりゃあそういうものだもの」
「だけど動きづらい」
「七松ってば、相変わらず野山の生き物みたいなことを言うんだから」
 あったかいでしょ。そう言って笑ってみせたけれど、やっぱり七松は不満げな顔でごそごそ落ち着かなさげにしていた。そうして暫くむっつりとしたかと思えば、唐突に名前、と私の名を呼ぶ。
「名前、触れてもいい?」
 突拍子もない申し出に、私は思わず「え?」と聞き返した。どういう流れでそんな発想に至ったのかがまるで分らなかったのだ。
 七松は相変わらずむっつりとしていて、まるで私の方が理不尽なことを強いているような顔をしている。
「だって、そうやって直接名前から暖をとった方が手っ取り早くないか? 綿入れは名前が着ているんだから、名前がぬくまったところに私が暖をもらえばいいと思うんだけど」
「……それはよくないと思う」
「え、なんで?」
「それ、私はただ七松に熱を奪い取られるだけじゃないの。そんなの私が冷やされ損だよ」
「そうかぁ?」
 七松の返事は不服さを隠そうともしない。私は「そう」と深く頷いた。
「それに、嫁入り前の娘の肌は軽はずみに晒すべきではないって、山本先生が」
「それじゃあ軽はずみじゃない触れ方って、なんなんだ?」
「さあ……」曖昧に発し、私も首を傾げる。「多分、覚悟を持って触れるとか、そういう」
「覚悟」
「そう、覚悟」
 覚悟。ふたりで確かめるように、何度も繰り返す。
 私はきっと間違ったことは言っていない。山本先生からはもちろん、実家の両親からも軽はずみに肌をさらすべからずと言われて育っている。無論くノ一教室に入学した時点である程度のことは覚悟を決めているものの、だからといって誰彼構わず肌を触れさせるような安売りをするつもりはなかった。
 たとえ相手が七松であろうとも、そのことには変わりはない。
 七松は暫し、考え込むように黙って庭に視線を向けていた。私の言い分に──つまりは覚悟を持たず触れるべからず、また覚悟を持たず触れさせるべからずというのに納得してくれたのだろうかと、少しだけほっとする。
 と、胸を撫でおろしたその矢先。
「名前に触れるのは、そんなに難しいこととは思えないんだけど」
 そんな、ともすれば失礼きわまりないことを口にして、七松がやにわに私に向けて手を伸ばした。その手は躊躇うことなく、私の頬にひたりと添えられる。
「ほら、触れた」
 七松のごつごつとした手のひらが、私の冷えた頬をじわりと溶かす。そのとき私ははじめて、綿入れをきっちり着こんでいる私よりも、七松の肌の方がずっと熱いことに気付く。
「覚悟はまあ、そのうち決まるだろ」
 軽い口調で笑い、七松が手を引く。冷えた皮膚を疼かせるように、その肌の感覚は私の頬にずっと残っていた。

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