第一話

 薄暮 ─五年夏─

 その年の夏は酷暑で、昼間には蝉すら鳴かずじっとしているような有様だった。忍術学園は一週間前から夏休みに入っている。本来ならば私も、例にもれず実家に戻っているような頃だった。
「こんなところにいたのか」
 私以外には誰もいないと思っていたくノ一教室の中庭に、ふいに男の声がする。濡れ縁から投げ出した足の、白い部分がほとんどないくらい短く切りそろえられた足の爪を見るともなく眺めていた私は、視線をふっと前方に向けた。
 忍たまたちも立ち入ることができる中庭と、くノ一教室の敷地とを隔てるために設えられた生け垣の上から、どこか妖怪じみたくりんとした目の男がひとり、こちらを覗き見ている。
「くノ一教室は男子禁制なんだけど、七松」
 私と同じ五年生、十四歳の七松が、何故かわははと豪快に笑った。生け垣の向こう側では身体をぶらぶらと宙ぶらりんにさせているのだろう。時々ばきっと七松の足が生け垣の枝を蹴り折る音がした。
「それは悪かったな! でも男子禁制というのは授業がある時期の話だろ?」
 悪びれた様子もなく七松は首を傾げる。たしかに平時のようにうら若く、そのうえ身元のしっかりした娘さんたちを何人も預かる時期に男子禁制なのは言うまでもない。しかしだからといって、休みであれば遠慮なく立ち入ってもいいというものでもないだろう。休みの間にもくノたまの女子たちの中にはほとんどの私物を学園内に置いていっている者もあり、無用な立ち入りはのちのち何かあったときに面倒を回避する意味合いもある。
 しかしそんな説明をしたところで七松は耳を貸しはしないだろう。そのことを分かっているから、私はただ「それでもだめ」と答えた。「休みの間だって規則は規則で変わりないよ」
 七松は、ふうんと呟き、
「そうか。それならお前がこっちに来い」
 と笑った。私は七松に呼ばれるまま立ち上がると、足元に放ってあった草履を探す。
 学園内なので制服を身に着けてはいるものの、人がいないのをいいことに平気で素足をさらしていた。そばに転がるように落ちていた草履を足にひっかけ、私は七松がぶら下がる生け垣へと歩み寄る。七松のまんまるい瞳に額から流れ落ちた汗がひとすじ吸い込まれていったような気がしたけれど、七松は表情ひとつ変えなかった。
 生け垣の前まで寄ると、私は七松を見上げる。私の背丈よりもいくらか高いところに、七松の日に焼けた健康的な色の顔があった。
「何か用だった?」
 と問う。七松とて、何の用事もないのに立ち入り禁止のくノ一教室まではやってこないだろう。私が実家に帰らず残っていることくらいは知っているはずだから、私に何か用件があったと考えるのが筋だ。
 七松は、一瞬ぽかんとした顔をしてから手を打った。生け垣の上で釣り合いをとりながらなので器用なものだ。
「魚をとってきたから、晩に名前も食べるかと思って」
「あ、それは嬉しい。川で釣ってきたの?」
 尋ねながら、七松に限ってそれはないだろうと答えを出す。おおかたこの暑さに耐えかね川に飛び込み、そのついでに熊が鮭でもとるような雰囲気で魚を獲ってきたのだろう。七松に限って、釣りなんて忍耐が必要なことをするとは思えない。そもそも、道具がなくてもできることをわざわざ道具に頼ってする必要もない。
「そうだ。川で、素手で、こう、しゅっとな」
 案の定、七松はそう言って身振り手振りしながら笑った。やけに白い歯がむき出しになって、見ようよっては無邪気にも獰猛にもどちらにも見ることができた。
「それじゃあ、ご相伴にあずかろうかな」
「うん。もうじき日も暮れる。火の準備をしないとな」
 それきり七松は、また生け垣の向こうに姿を消した。私はしばらくその生け垣を眺めていたけれど、魚を食べるならば塩くらいはあってもいいだろう、と食堂に向かうことにした。

 七松小平太は言わずと知れた変人である。変人というとどうにも奇矯な振る舞いの人格破綻者を想定するが、七松の場合は偏屈なたぐいの変人ではない。ただ、何もかもが人並を外れている。
 腕っぷしはもちろん持久力、瞬発力、およそ身体能力と呼べる能力の高さにおいては、七松は如何なる項目も他の追随を許さない。裏山や裏裏山のマラソンをしている様子など、さながら野生の猪だ。
 止まることを知らず、止まろうともしない。どこまでも駆け、跳び、トスが上がれば何が何でもスパイクを打つ。七松はそういう男だった。
 天性の才は時として人を孤立させる。あの底抜けに明るい眩さに惹かれるものもあれば、目を背け遠ざけたくなる者もあるだろう。私がそのどちらかといえば──

 ++

 目のまえで組まれた薪は、激しい炎とともにおびただしいまでの黒煙をごうごうと空に吐き出している。
「七松、どうして松なんか薪にしたの」
 処理を済ませて串に刺した魚を手に、私は呆れながら燃え盛る炎を見つめた。薪に使用されているのはどこでとってきたのか松の木だ。松は炎の温度が高くなる上に煙がすさまじいので、普通はこういうときに薪にすることは少ない。七松だって、忍たまの五年なのだからその程度のことは心得ているはずなのに。
 うねるように上空に上っていく煙を額に手をあて眺める七松は、
「だって学園の薪は備品扱いだから、休み中に勝手には使えないだろ」
 とやはり悪びれることなくしゃあしゃあと言う。それはたしかにそうなのだが、それにしたって松でなくてもいいだろう。忍術学園の中で薪に適した木材が見つからないのであれば、裏山でも覗けばすぐにもっと適した材が見つかったはずだ。七松は人一倍どころか人七倍ほど健脚なので、裏山に薪をとりに分け入るくらいは訳ないだろう。
「別に火がつくなら何でもいいんじゃないか?」
「それでももう少しいい木があるでしょ」
「松だってよく燃えるぞ」
「それはそうだけど」
 燃え過ぎだった。これではまるで狼煙を上げているみたいだ。
 日が沈みかけた濃藍と橙のまじる空に、ゆらゆらと黒い煙が水に溶かした墨のように上っていく。学園内にふたりきりということもないから、もしかしたらそのうち誰かが私たちを叱りにやってくるかもしれないな、と思った。忍術学園の存在は世間的には秘匿されている。こんなことをしていては誰に見つかるかしれない。
 しかし、今はひとまず七松の集めてきた松の薪で魚を炙ることにした。
「まあ、いいか。たとえ黒こげになったところで、どうせ食べるのは私と七松なんだし」
「そうそう。細かいことは気にするな」
 七松お得意のせりふが飛び出したところで、私は串刺しの魚を火から少し離れた地面に刺す。はらわたも出さないままで塩を揉みこんだだけのものだが、新鮮なうちに食べれば大体のものは美味しく味わえる。そう思えるようになったのは忍術学園に入学してからだった。
「へえ、手際がいいな」
 魚に打った串を見ながら、七松が感心するように言う。ぐるりとらせん状に竹串を討たれた魚が、ぱちぱちと薪が爆ぜる横ですぐにいいにおいをさせ始めた。
 魚の焼け具合を見ながら、私はそりゃあね、と返事をする。
「くノたまも五年になれば大体のことは自分でまかなえるようになるよ」
「すごいな。私はそういう細かいことはさっぱりだ」
「じゃあ魚、どうやって食べるつもりだったの?」
「そのまま生で」
「それじゃあ味気ないじゃない」
 というより、川魚を生で食べるのは危険なのではないだろうか。たしか善法寺あたりが以前、そんなようなことを言っていた気がする。まさか善法寺も、五年間もともに肩を並べやってきた学友が、未だ川魚の生食の危険性を知らないとは思うまい。
 そんな私の心中を推し量ることもなく、七松は
「味ならあるぞ、魚なんだから」
 などとあっけらかんと言う。
「そういうことじゃなくてね」
 危ないからやめた方がいいよ。そう言うと、七松は納得しないように首を傾げたけれど、結局分かった、とその場しのぎらしい返事を寄越した。

 夕方になって一日のうちの暑さの盛りは過ぎ去ったものの、少し身体を動かせばすぐに額に玉のような汗が浮かぶ。焼けた魚を適当な木陰で食べていると、ふと隣に座った七松が、
「今年の夏は暑いな」
 とぽつりと呟いた。独り言のように聞こえた言葉に返事をすべきか一瞬悩み、それでも結局、
「七松でも暑いとか寒いとか思うんだ」
 と面白みのない言葉を返す。
 七松が少しだけ不本意そうに口をとがらせこちらを向いた。
「お前、私のことを何だと思ってるんだ?」
「七松小平太」
「……合ってるな」
「そうでしょうとも」
 それきり七松が黙ってしまったので、私も魚を食べることに集中した。
 完全に夜になってしまう前のぬるい風が吹き、七松の、まるで山の獣の尾のようなふさふさと豊かな髪が夕暮れの中で蠢くように揺れている。
 山が黒々として、橙色の空との境目をくっきりと浮かび上がらせていた。その稜線を視線でなぞりながら、ぼんやりと七松のことを考える。
 私が七松のことをどう思っているかなど、あの空と山の境界のようにはっきりと明白だ。私は七松に──七松の持つその比類なき眩さに、どうしようもないほどに惹かれている。
 その思いを言葉にしようとも思わず、私は魚の身をごくんと飲み下す。魚が喉を落ちていく瞬間、ちくりと小骨が喉のうちの肉を刺したような気がした。

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