012

「映画、ですか……?」
 思いもよらない黒尾からの提案に、名前は喜ぶより以前に意味が分からず困惑していた。黒尾が自分を映画に誘う理由に、思い当たるところがひとつもない。
 これまで何度か会って話をしたなかで、黒尾と名前が映画の話をしたことは一度もなかった。せいぜいが、互いに好きな作家の作品が映画化するらしいとか、その程度のことを話題にしただけだ。
「まあ、そういうリアクションになるよな」
 戸惑う名前に、黒尾は首の後ろを掻きながら苦笑した。そして、
「実はちょっと前に幼馴染から試写会のチケットもらってさ。俺はそこまで映画通ってわけでもないし、会社で欲しいやつ探して譲るかと思ってたんだけど、忙しさにかまけてすっかり忘れてたら、なんと明日が試写会当日」
「それで私と、ですか」
「苗字さんは映画とかあんま観ない? ちなみに俺はあんま詳しくない」
「私もそんなに……。なんて映画ですか」
「ええーと、ちょっと待ってろ」
 ひと言断りを入れ、黒尾はスマホを取り出す。そして大きな手で何か検索でもしているのか、しばらく画面をいじくっていた。うつむけた黒尾の顔を見上げ、名前は改めて考える。黒尾と一緒に映画を見に行くという、そのことについて。
 黒尾とは一緒に夏祭りに行った仲なのだし、茶飲み友達だって映画に行くことくらいあるだろう。映画館では飲み物も飲む。そう考えれば、これは茶飲み友達としての活動の範疇を出ないものだ。
 必要以上に言い訳めいたことを考えたすえ、名前はこれを問題なしと判断した。ちょうど黒尾が目当てのページを見つけたのか、携帯の画面を名前に見えるよう差し出してくる。開かれていたのは映画館の上映予定案内のページだった。
「これ、ここに書いてある、『世界・ネコ散歩ザムービー』ってやつ」
「なるほど、動物ドキュメンタリーでしょうか。タイトルがド直球なうえにゆるゆるで、分かりやすくていいですね」
「まあ、動物ものに外れなしだろ。変に人を選ぶストーリーより、絶対にネコが出てきて散歩するって分かってる映画のが心構えしやすい」
「黒尾さん、ネコ好きなんですか」
「好き。まあ、この辺多いしな、地域ネコ」
 黒尾の言うとおり、この辺りにはよくネコが出没する。地域ネコも多いが、家ネコも多い。名前のアルバイト先である『猫目屋』も、もとはといえばオーナーが無類のネコ好きであることにちなんだ屋号だ。
 ネコといえば、黒尾さんも少しネコっぽいところがあるような。
 そう名前が考えていると、黒尾が「苗字さんはネコより犬っぽい感じだな」と笑った。褒められているのかは分からないが、嫌味な感じではなかったのでお礼を言って受け流す。
「試写会は夕方の六時からだから、時間的には大丈夫そう?」
 黒尾が名前の顔を覗き込む。行くとはひと言も言っていないが、すでに黒尾の中では名前と一緒に映画を観に行くことになっているようだった。名前にも断る理由は特にない。黒尾の問いに頷いた。
「そうですね。何なら一回大学から帰ってきて、支度してからでも良さそうです。それでもいいですか?」
「もちろん。じゃあ、明日の五時……いや、余裕みて四時半。四時半にここに迎えにくる」
「えっ、いいですよ。駅で待ち合わせにしないと黒尾さん遠回りじゃないですか」
「誰が電車で行くって言った?」
 いつも通り固辞する名前に、黒尾は今日一番の悪戯っぽい笑みを浮かべる。
「車出すから、映画見て夕飯食って、ちゃんと家まで送り届けますよ」
「車……黒尾さんが運転を……?」
「俺だって運転くらいできるからな。しかも超安全運転」
「安全運転……」
「苗字さんのことも安全に運ぶから安心しなさい」
 黒尾と一緒に映画を観ること、黒尾の運転する車に乗車すること。思いもよらないことが続けて起こった反動か、名前はひどく鈍い反応で「車かぁ」と他人事のように呟いた。

 ★

 翌日、名前は午前のうちに大学での用事を済ませると、卒論の準備と昼食を大学で済ませてから、昼過ぎに自宅に戻った。大学から名前の一人暮らしのマンションまでは地下鉄でふた駅の距離なので、たいていは自転車で通学する。今年は秋の訪れが遅く、昼日中に自転車をこぐと真夏のように汗をかく。
 帰宅してシャワーで汗を洗い流してから、ぼんやりとこの後のことを考えた。昨夜、黒尾とわかれた後にネットで調べてみたところ、『世界・ネコ散歩ザムービー』は同名の人気ドキュメンタリードラマの劇場版らしい。名前も人並みにネコを可愛いと思うから、まったくつまらないと思うことはないだろう。黒尾とふたりで観ることを考えれば、迂闊に感動ものやラブストーリーを観るよりも、よほど気が楽だ。
 クローゼットを開け、手持ちの洋服にざっと目を通す。しばしの黙考ののち、いつも大学に行くのに着ているのと変わらない、普段着を身に着けた。黒尾とはアルバイトの後に会うことがほとんどだから、普段着でもいつものバイト着よりは上等に見えるはずだ。試写会に行くくらいなら、それほど気張った格好をする必要もない。

 夕方、約束の時間の少し前に名前がマンションを出ると、待つほどもなくマンション前に一台の車が停まった。直前に黒尾から連絡をもらっていたので、戸惑うことなく近づいていく。助手席の窓が開いて、中から黒尾が「どうぞ」と声を掛けた。
 間近で見てみると、車は外装からして上品そのものだ。助手席のドアに手を掛けた名前は、車全体をちらと確認した。夕日を受け、車体のなだらかな曲線が美しく輝いている。車に詳しくない名前でも惚れ惚れするような外観の車だった。
 中に乗り込み、シートに身体を埋めシートベルトを締める。やたらと肌馴染みのいいシートに手をすべらせると、実家の車とは明らかに肌触りが違った。
「じゃ、安全運転で出発しますか」
 名前の準備が整ったのを見て、黒尾がスムーズに車を発進させた。
 名前や黒尾の暮らす地域は、自家用車がなくてもさして不便を感じず暮らせる程度には賑わい栄えている。とはいえ住民の多くが古くからこの地で暮らしている地元民なので、通りで目につくのはガレージと自家用車が備わった一軒家がほとんどだ。そこに停められた車のほとんどは使い込まれた大衆車か、そうでなければ名前の地元でもよく見る軽トラ。
 そこへいくと黒尾の乗りつけた車は、明らかにこの土地では浮いて見える高級車だった。黒尾の一癖も二癖もありそうな雰囲気にはマッチしているが、どう考えても社会人一年目がおいそれと買えるような代物ではない。名前は自動車についてほとんど何も知らないが、それでも高級車と大衆車の区別くらいはできる。
 黒尾は特に緊張した雰囲気もなく、リラックスした様子でハンドルを握っている。名前の助手席よりも運転席が広く見えるのは、黒尾の足の長さに合わせてシートを引いているからだ。
「これ、黒尾さんの車ですか?」
 逡巡のすえ、おそるおそる名前は尋ねた。こういうことを詮索すべきではないのかもしれないかとも思ったが、それでも今回は興味の方が勝った。
 黒尾のものでないとすれば、実家の車を借りてきたということもありうる。だが、黒尾の祖父母夫妻はどこからどう見ても下町の住人だし、あの寡黙な老亭主が高級車を趣味にするタイプだとは思えない。
 車中でそわつく名前を横目で一瞥し、黒尾は「気になる?」と口許を歪める。そして「車買いたいと思ったとして、ここまでの車はさすがに俺では手が出ないだろうな」と答えた。
「俺のじゃなくて、幼馴染の車。幼馴染が節税対策で買って、でも仕事柄家から出る機会もそんなにねえから言うほど節税にもなんねえってことで、結局は自家用車に回して、で、俺がちょくちょく使わせてもらってる。あいつペーパーなんだよ」
「節税対策って、黒尾さんの幼馴染の人って何者ですか? たしか前に私と同い年って言ってませんでしたっけ?」
「んー、そうだな。平たく言えば学生起業家、その他副業多数って感じか」
「別の世界の人だ……」
「会えば案外普通だぞ? 未だに高校んときの膝すりきれたジャージ穿いてるしな」
 にししと声を立てて笑う黒尾の横で、名前は呆然と「学生起業家」と呟いた。名前の実家も地元では素封家として数えられているが、実際には田舎の小金持ちくらいのものだ。きらびやかな世界とはとんと縁がなく、車だって普通の大衆車に乗っていた。もしかしたら節税対策なんかの苦労もあったのかもしれないが、子供の名前の目から見て、何か特別なことをしていた印象はない。
 黒尾さんって、すごい人と知り合いなんだなぁ。ぼんやりと思い、名前は窓の外に視線を向けた。黒尾の幼馴染が学生起業家だからといって、それで黒尾を見る目が変わるわけではない。ただ、それほど才覚にあふれた友人に信頼されているというのは、やはり黒尾の人間性がすぐれているということの証左であるように思える。
 昼時の日差しがやわらぎ始めた夕方の町で、黒尾は危なげなくハンドルを切る。こんな高級車を運転していて、緊張したりしないのだろうか。そんなことを考え、窓の外の風景から黒尾の横顔に視線を移した。黒尾はすぐに名前の視線に気付き、
「時間に余裕あるし下道でいくか。そこ、コンソールボックスに飴とかガムとか入ってるの、適当に食べていいやつな」
 と前を向いたまま教えてくれた。コンソールボックスを開くと、黒尾の言うとおり、何種類か飴やガムが入っている。「さっき入れたばっかだから、中身溶けてないはず」と黒尾が付け足した。
 名前はキシリトールガムのボトルに手を伸ばし、お礼を言ってから一粒口に放る。
「黒尾さんもなんか食べますか?」
「あー、じゃあなんか適当に飴ちょうだい。甘いやつ。ハッカ以外で」
 黒尾に言われてボックスの中を探すと、ちょうどフルーツの飴が入った袋が見つかった。オレンジ味の飴を取り出し、個包装を破ってから黒尾に手渡す。「サンキュ」と黒尾が飴玉を転がし言う。
「ハッカお嫌いですか?」
「嫌いではない。けど、研磨に飴ちょうだいって頼むと、あいつ俺にハッカばっか食わすから。たまにはほかの食べたい」
 研磨というのが幼馴染の名前だろう。チケットを譲り受けていることといい、高級車を惜しみなく貸し出すことといい、よほどその幼馴染は黒尾のことを信頼し、親しくしているらしい。名前はつくづく感心した。
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