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 一週間ほど帰省先の宮城の実家で過ごし、主に食料品の土産を大量に持たされた名前が東京の一人暮らし先に戻ってきたのは、八月も終盤に差し掛かった頃だった。大学の夏休みはまだひと月近く残っているが、夏の終わりは刻々と近づいている。
 一週間ぶりに戻った東京の自宅は、しばらく部屋を締めきっていたため、ひどく蒸し暑かった。荷ほどきする気もみるみる失せていく。名前の実家は宮城でも山間の土地にあるため、東京に戻ってきて早々残暑の厳しさにうんざりした。
 エアコンだけつけてとりあえず休憩しようと、さっさと荷ほどきを投げ出す。ソファーに座ってスマホを確認すると、ほんの数分前に黒尾から連絡が入っていた。
 ”もう着いた?”
 保護者のような文面に、名前は思わず顔をほころばせた。宮城帰省中も黒尾とはたびたび連絡をとっており、今日東京に戻ってくることも伝えてあった。互いにこれといって用事もなかったが、夏祭りの写真を黒尾から送られたのをきっかけに、思い付いたときに返信する程度のゆるい遣り取りが続いていた。
 ”今戻りました” ”東京暑いですね”
 ほんの一瞬考えて、そのまま黒尾に送信した。メッセージでは無難な遣り取りしかしていない。そもそも黒尾も名前も、それほどまめに返信する方でもない。
 いい具合に部屋が涼しくなってきたので、スマホを置いて荷ほどきを済ませてしまうことにした。黒尾家とアルバイト先に買ってきた土産を、忘れないようテーブルの上に載せると、名前はようやく重い腰を上げた。

 翌日、名前は土産に買ってきた仙台銘菓をバイト先である喫茶店『猫目屋』に、ふた箱揃えて持ち込んだ。ちょうどよく黒尾夫妻がコーヒーを飲みに来店していたところだったので、挨拶とともにひと箱渡す。
「あら、これ美味しいお菓子でしょう」
「ほかの常連さんには買ってないので、内緒ですよ」
「名前ちゃんったら、悪い女みたいなこと言うわねぇ。あなただけ特別だよ、なんて」
「ふふ。黒尾さんにはいつもお裾分けをいただいているので、そのお礼です」
 ころころと楽しそうに笑う夫人に、名前は笑顔でその場を離れた。
 数か月前、夫妻は名前に孫息子の茶飲み友達になってくれるよう依頼した。名前がそれを受けたことで、黒尾と名前の『お茶会』は不定期ながらも着実に回を重ねている。
 『お茶会』について、夫妻は名前からことさら事情を聞き出そうとはしない。そういう距離感を名前は好もしく思う。きっと、こういう祖父母とともに暮らしているから、孫の鉄朗も気配りの人になったのだろう。そんなふうに納得して、名前はアルバイトに戻った。

 ★

 その日の夕方、帰宅した名前が夕飯までの時間を部屋でのんびり過ごしていると、鞄の中に入れっぱなしにしていたスマートフォンが聞き慣れない着信音を鳴らした。東京に友人がいない名前の携帯は、メッセージの受信音ならばともかく、滅多なことでは着信音を鳴らさない。名前がびっくりしてスマホを見ると、発信主は黒尾だった。
「もしもし、苗字です」
「もしもし。俺だけど」
「黒尾さんですね、こんにちは。ご無沙汰しております」
「ご無沙汰って、帰省してたの一週間とかだろ。その間もメッセージ送ったりしてたし」
 揶揄からかうような黒尾の声を聞きながら、名前はテレビの前に置いた置時計の時間を確認した。時刻はもうじき十九時になろうとしている。黒尾は仕事から帰宅したところだろうか。通話先はバックに話し声や物音の気配があり、おそらくは屋外なのだろうと窺い知れる。
「それより苗字さん、今マンションにいる?」
「いますよ」
「じゃあ悪いんだけど、二十分後くらいにマンションの前出てきてくんない?」
「それは構わないんですが、どういった用件でしょうか」
「夕飯のお裾分けに俺がひとっ走りする。あ、もう夕飯食った?」
「いえ、今からです」
「じゃあ丁度いいな。そのままお腹空かせて待っててちょーだい」
 それだけ言うと、黒尾は「じゃ、後でまた」と言って通話を切ってしまった。
 通話の切れた携帯を耳から離し、名前はしばし考える。二十分というのは大体黒尾の家から名前の家までにかかる時間だ。だが黒尾の性格を考えれば、名前をこの暮れ始めの時間に外で待たせるとも思えない。通話の背景が屋外だったのは、すでに黒尾が名前の家に向かっていたからだろうか。
「ちょっと早めに出ておいた方がいいかも……?」
 部屋の中央でひとりごちると、名前はすぐさま行動を起こした。素早く部屋を片付け、部屋着を脱いで適当な服に急ぎ着替える。玄関で虫よけスプレーを全身に振りまくと、携帯と鍵だけを手に持ちいそいそと部屋を出た。
 黒尾から電話をもらった十五分後、名前は指定された時間よりも早くマンションを出て黒尾を待った。エントランスから出てすぐに、ポロシャツ姿の黒尾がビニール袋片手にやってくる。早く出てきて正解だったな、と名前は内心ほっとした。
「おつかれさまです。今日はお仕事帰りですね」
「そうそう。帰ってすぐ、着替える前にこれ苗字さんちに持ってってーって。人使い荒いと思わない?」
 そう言いながらも、黒尾は口にほどには嫌な顔をしていなかった。名前の家まで大した距離ではないというのもあるのだろうが、お遣いに出されることを口ほど嫌だと思っていないのだろう。黒尾が祖父母っ子だということは、最初に会ったときから知っている。
「そんなわけで、はい。これ、ばあちゃんからお裾分けです」
 黒尾の差し出すビニール袋を受け取り、名前は深々と頭を下げた。
「いつもお裾分けありがとうございますと、おばあ様にお伝えください」
「はいはい。ちなみに今日はいなり寿司らしいぞ」
「ええっ、すごい。ご馳走じゃないですか」
「苗字さんがいくつ食べれるか分かんねえから、とりあえず十個持ってけって言われて持ってきたんだけど、どう? 食えそう?」
 袋の中身を覗き込んでいる名前に、黒尾が尋ねる。名前は少し悩むように首を傾げた。人並程度の量は食べるが、ひとりで稲荷ずし十個となると、食べ切ることができるかあやしい。
「これ、日持ちしますか?」
「冷蔵庫いれれば大丈夫じゃない? 早く食べるに越したことねえだろうけど」
「それなら大丈夫です」
 名前が頷くと、黒尾も口角を上げて頷いた。そこでふつりと、会話が途切れる。黒尾は気負わないゆるりとした立ち姿で、周囲に視線を遣っている。黄昏時の往来に人影はない。名前はなんとなく手持ち無沙汰な心持ちになって、黒尾から視線を逸らした。
 しばらくぶりに顔を合わせる黒尾に、会ったら話そうと思っていたことがいくつもあったはずなのに、こうしていると不思議とひとつも話したかったことなど思い出せない。重要な話ではないからいいのだが、変に間ができるのは嫌だった。
 帰省する前は、黒尾さんといるときに沈黙が続いても、特に何も思ったりしなかったのに。そわそわしながら、そんなことを思う。しばらく会っていなかったとはいえ、緊張するほど期間があいたわけでもない。
 ぬるい風がゆっくりとした速度で吹く。セットした髪がくずれてきたのか、黒尾の右目が風になぶられた前髪で半分ほど隠れた。
「上がって、お茶でもしていきますか」
 そのひと言を、名前はやはり今日もまた言えないでいた。暑いなか、わざわざこうしてお遣いをしてきてくれたのにお茶の一杯も出さないなんてと思う自分がいる一方で、今からわざわざ部屋に上がってもらうのもなんだかおかしな話だと思う自分もいる。大体、こんな話は会話の流れでさらりと言ってしまうべきだし、嫌なら黒尾の方から断るはずだ。
 そう分かっているのに、やはり、言えない。なんとなく、それは馴れ馴れしすぎるのではないかという思いが、名前の口を重くした。
 名前の身じろぎに合わせ、手に持ったビニール袋がかさりと音を立てる。その音に、名前はひとつ黒尾に伝えるべき話題を思い出した。
「あ、そういえば今日おばあ様に宮城土産をお渡ししたので、黒尾さんもぜひ召し上がってください」
「まじ? サンキュ。帰ったら食おっと」
 彼方に視線を遣っていた黒尾が、ふたたび名前にピントを合わせる。そして、大したものではないですが、と断る名前に尋ねた。
「宮城って、牛タンくらいしか知らねえんだけど、土産の定番は何なの?」
「今回買ってきたのは仙台銘菓の『萩の月』ですね。美味しいですよ」
「あ、それなら前に食ったことあるかも。ていうか苗字さんの実家って仙台なんだ」
「いえ、うちはもっとド田舎です。でも宮城のお土産って言ったら『萩の月』が一番喜ばれるので、毎回新幹線乗る前に駅で買うんですよ」
 土産など仙台駅で調達するものだ。名前の地元で買うよりは、分かりやすい宮城土産が買える。何より『萩の月』は美味しい。
「なるほど。まあ、あれはたしかに美味かった」
「でしょ?」
「仙台民じゃねえのにドヤってやがる」
 そこで黒尾がふと、手首に巻いた腕時計をちらりと見た。そろそろ引き上げる頃だという合図だろうか。まだまだ日は長いが、たしかにそろそろ夕暮れに青い闇が取って代わる頃だった。
 それでは、と名前は頭を下げようとする。だが、それより先に黒尾が口を開いた。
「そうだ。苗字さん、明日ってバイト?」
 唐突に変わった話題に、名前は下げ損ねた頭をわずかに傾けた。明日は土曜日で、普段ならば五時まできっちりアルバイトの予定を入れている。シフトを入れる曜日はほとんど固定になっているので、黒尾は名前の予定を聞かずとも、アルバイトの日を大体予測できる。
 だが明日に限っては、オーナーに頼んでアルバイトを休みにしてもらっていた。
「いえ、明日はちょっと大学に顔を出さなきゃいけなくなったので、バイトはないです」
「ふうん。まだ夏休みだろうに、ゼミか何かあんの? あ、そろそろ本腰入れて卒論書く時期か」
「卒論はうちのゼミゆるいので結構どうとでもなるというか、どうにかなる目途は立ってるんですが……、明日はちょっとそれとはまた別件で」
 あまり気乗りしない用件だが、行かないというわけにもいかなかった。数少ない学部の知り合いからの頼み事だ。夏休み明けにある大学祭で、浴衣を着るから貸してほしいとの頼みだった。ちょうど帰省中にその連絡があったので、東京に浴衣を持ち帰ってきたのだ。
 黒尾は深く事情を追及することもなく、じゃあまあ気を付けて、と気の抜けた返事をする。
「気を付けてって、大学行くだけですよ」
「道中何が起こるか分かんないでしょうが」
 そう言って、
「じゃあ明日は無理か」
 溜息とともにひと言吐き出した。その言葉に何処か引っかかるものを感じ、名前は黒尾を見上げる。例の『お茶会』を明日やろうということだったのだろうか。それにしては、名前が捕まらなかったのが多少残念そうに見えた。
「無理というか、大学に用があるのは午前なので、午後からでよければあいていますが。お茶会なら黒尾さんの都合に合わせますよ」
 そう答えると、黒尾がじっと名前を見つめた。その気迫に気圧され、名前は一歩後ずさる。
「まじ? いや、お茶会じゃねえんだけども、苗字さん明日午後からあいてる?」
「はい……?」
 何だろうか、この勢いは。いつになくぐいぐい来る黒尾に驚きながら、名前は首を縦に振った。
 果たして、黒尾はにっと笑顔をつくると、腰から折り曲げた上体をぐっと名前に近づけ言った。
「苗字さんさ、明日の夜、俺と一緒に映画観にいかない?」
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