EXTRA 005

 ※夢主不在

「言わせてしまったんだよね……」
 注文したふたり分の二杯目のコーヒーカップを持って、赤葦が黒尾の待つテーブルに戻ると、黒尾はずんと落ち込んだ顔で赤葦を待っていた。
 場所は赤葦がこの春から働いている出版社の、すぐそばにあるチェーンのコーヒーショップ。今日は仕事絡みで、黒尾と待ち合わせをしていた。
 本来は駆け出し編集者の赤葦が、ひとりで他社の人間を相手にすることはない。業界が違うのならば尚更だ。しかし今日はたまたま赤葦の教育係の先輩が不在であること、赤葦と黒尾が旧知の仲であることから、この対面が実現していた。
 赤葦という代打の新人を派遣するのでも、十分に事足りる程度の用件だ。仕事の話といったところで、端からそれほど時間をとるようなものでもなかった。一杯目のコーヒーを飲み終える前に仕事の話は片付いて、黒尾の次の用件までまだ少し時間があることから、赤葦は時間つぶしに付き合わされていた。
「何をですか? というか誰に対しての話ですか?」
 黒尾が落ち込んでいる理由など知らないし、別に知りたいとも思わない赤葦だったが、儀礼的に聞き返すことはした。高校時代、一学年上の他校のキャプテンだった黒尾のことを、赤葦は今も尊敬すべき先輩のひとりだと思って見てしまう節がある。
 黒尾はどろんとした目で赤葦を見ると、それからすぐに視線を逸らし、深々と溜息を吐いた。木兎を二年間面倒みていた赤葦は、その分かりやすい「聞いてほしいアピール」に眉根を寄せずにいられない。
「なんというかさ、苗字さんの方から、言わせてしまったんだよな……」
 ぽつりと黒尾が吐き出したので、それが本当に全く仕事と関係ない、完全にプライベートなことであることを赤葦は察した。黒尾の前に、注文したばかりの二杯目のコーヒーカップを置いて、赤葦は自分の椅子についた。
「まったく何の話か読めないんですが……。そういえば、苗字さんと黒尾さん、付き合ってるんでしたっけ。おめでとうございます」
「研磨から聞いた?」
「少し前に苗字さんから直接聞きました」
「なんでだよ」
 黒尾が不服そうに赤葦を見る。以前から何かにつけ、黒尾は赤葦を要注意人物としてマークしている。そのマークは黒尾と名前が晴れて付き合うことになった今も、どうやら継続しているらしい。
「この間たまたま会ったんですよ。よく行く書店が同じなので」
 呆れ半分に黒尾に教えてやれば、黒尾はむっと眉間に皺を刻む。
「そんな話、苗字さんから聞いてないんですけど」
「別に言うほどのことでもないんじゃないですか? 苗字さんだって、そんなに何でもかんでも共有したがる人じゃないと思いますが」
「人の彼女のこと知ったように語らないでもらえます?」
「……」
 今すぐにでも立ち上がって帰社してしまおうか。一瞬、そんな衝動にかられる。赤葦はぐっとコーヒーを飲んで、どうにかその衝動をやり過ごした。猫舌でなくてよかったと、心の底からそう思う。
 ブラックコーヒーの苦味で、ほどよく脳内の葛藤が洗い流されたところで、赤葦はぶす腐れた顔をしている黒尾に視線を戻した。それから、テーブルサイドの大きな窓ガラスに薄く反射した黒尾の顔を見るともなく眺め、今この瞬間この店にミサイルが撃ち込まれたら俺たち死ぬな、と益体のないことを考える。
「それで、俺は黒尾さんに事の詳細を聞いた方がいいですか?」
「聞いてくれんの?」
「まあ、知らない仲ではないですし」
「そうなんだよなぁ」
 何がそうなんだよなぁなのかは不明だが、話すつもりはあるようだった。赤葦はまた、今度はもう少し落ち着いてコーヒーに口をつける。平日の昼間から自分は何をしているのだろうと思わないでもなかったが、たまにはこういうのもいいか、とあっさりこの状況を受け容れた。
 黒尾もコーヒーでくちびるを湿らせる。ややあって、黒尾が「なんというか」と切り出した。
「簡単に言うと、距離をはかりあぐねている」
「それ、苗字さんに対してですよね?」
「そう」
 思いのほかすんなり認められ、赤葦はふむと思案する。
「ええと、……はかりあぐねてるっていうのは、黒尾さんが、ですか? 苗字さんの方ではなく……?」
「だよな。そういうリアクションになるよな」
 黒尾はそこで、はあぁ、と長く深い溜息を吐いた。赤葦が返答を考えあぐねているうちに、黒尾はまたすぐ口を開く。名前との間にあったやり取りや、事のいきさつ、あらまし。あくまで名前に配慮したうえで、大体のところをかいつまんで説明した黒尾は、物憂げな表情で息を吐く。
「苗字さんは多分、俺の余裕っぽくて優しくて大人っぽいところが好きなんだけど」
「自分で言うんですか」
「まあまあ。そこは自己評価じゃなく苗字さんから見た俺の像だから」
 平然と、黒尾は嘯く。とはいえ、赤葦も黒尾のげんに異論はなかった。
 黒尾は高校時代から、それこそ木兎と比べるまでもなく、年齢以上に大人びていて、常識と良識もあって、そして頼りになる存在だった。それは黒尾のチームメイトが黒尾に接する姿を見ていてもたしかそうだったし、赤葦も何度となく黒尾を頼りにしていた。
 もちろん赤葦は黒尾の年相応にふざけたところもよく知っているが、黒尾に限ってそういうところを名前の前で惜しげもなく見せているということはないだろう。名前の前での黒尾は十中八九格好つけているに決まっているから、黒尾の「余裕っぽくて優しくて大人っぽいところ」を見て、名前が好意を抱いているのだろうことは想像がつく。
「けど」
 と、思索に耽っていた赤葦を、黒尾の声が現実に引き戻す。
「実際、俺はそこまで余裕あるわけじゃないし、優しくはしてあげたいけど、それだって本当はそこまで自信あるわけじゃない」
 ふたたびの弱音に、赤葦は瞠目した。それなりの付き合いの長さだから、黒尾とは部活のこともそれ以外も、これまでいろいろと会話を交わしてきてはいる。だが、ここまですんなりと弱味を見せられたのは、赤葦が記憶している限り、これがはじめてのことだった。
「……びっくりしました。黒尾さんにしては弱気ですね」
「好きな子相手だからな」
「黒尾さんが恋愛に弱気なタイプだと思いませんでした」
「恋愛がどうこうじゃなくて、苗字さんが相手だから」
 そう言って、黒尾はばつが悪そうに首の裏をかいた。
「……そういうことは、俺じゃなくて苗字さんに言った方がいいんじゃないですか」
「ださくない? 大丈夫?」
「ださくてもいいと思いますよ。苗字さんが黒尾さんのどこを好きかなんて、黒尾さんが勝手に考えてるだけのことなんですから。本当は黒尾さんのださいところが好きなのかもしれないですし」
 赤葦は赤葦なりに、親身になって助言した。が、黒尾の表情は複雑そうに歪んだままだ。
「それはそれで微妙だな」
「ださいところ好かれてたら、もう無敵ですよ」
「たしかにそれはそうだけども。ちなみに俺は苗字さんのちょっと抜けてるところも好き」
「……だからそれは、俺じゃなくて本人に言ってあげてください」
「おまえの面倒見がいいところも好きだよ」
「この流れで言われてもあんまり嬉しくないです」
 苦笑をこぼすこともなく、赤葦はただ、げんなりとして返事をした。
 そうはいっても、赤葦とて恋愛の話を聞くのは嫌いではない。まして、名前のことは知らない仲ではないのだし、名前からの恋愛相談を受けたこともある。知ったふたりが両想いになるということは、単純におめでたいし、喜ばしいとも思う。
 唯一懸念していたのが、黒尾と比べて圧倒的に名前が初心だろうことだったのだが、それも黒尾を見る限り、心配することは何もなさそうだった。黒尾はおそらく赤葦が思う以上に、名前を大切にしている。大切にしすぎて、名前を焦らせるほどに。
 ここまでの会話から、なんとなく現在の黒尾と名前の状況が推察でき、赤葦は言った。
「というか黒尾さん、結婚のことは平気で切り出せるのに、キスひとつで右往左往するんですね」
「右往左往言うな」
 そう言われても、名前との些細なやりとりについて思い煩っている黒尾の姿は、右往左往しているとしか言いようがない。
 そんな赤葦の心境を察したのか、黒尾はばつが悪そうに眉根を寄せた、
「好きな子を目の前にしちゃうとさ、どうもな。『大事にする』のやり方が分かんなくなるんだよ。結婚はほら、苗字さん絶対受けてくれるって分かってるから」
「その自信はどこから……」
「そういう子って知って付き合ってんの」
「そうですか」
 おざなりな相槌を返し、赤葦は話の軌道修正をはかる。
「そもそも『大事にする』って、そんなに難しいことじゃないと思うんですが」
「そうか? おまえ、じゃあ胸を張って恋人を大事にしてますって言えんの?」
「絡まないでくださいよ……」
 恨みがましい物言いの黒尾に、赤葦はさすがに鬱陶しそうな顔を隠しきれずに溜息を吐いた。黒尾も分かっていて絡んでいるのか、とりたてて文句を言うこともなかった。
 しかし律儀な赤葦は、いかに黒尾が厄介な絡み方をしてこようと、一応は胸に手を当て考える。果たして、自分はこれまで恋人を大事にしてきただろうかと。
 現在は恋人もいなければ特に親しくしている女性もいない赤葦だが、まったく女性経験がないというわけではない。そのうえで、過去の経験を振り返ってみれば、自分なりには大事にしてきたと言うほかない。果たして相手が満足していたかについては、今となっては赤葦の知るところではない。
「世間と比べてどうかは知りませんよ」
 そう前置きをしてから、赤葦は続けた。
「けど、相手のことを尊重するとか、相手がしてほしいことを想像するとか、そういうのでいいなら、普通にしますよね。それこそ黒尾さん相手でも」
「してほしいことねぇ……」
「『大事にする』って、傷つけないようにそっと扱うことだけじゃないでしょう」
 こんなことは、多分言われるまでもなく、黒尾ならば分かっていることなのだろう。そう思いつつ、赤葦は押しつけがましくならないよう言葉を選んだ。赤葦の持論を聞き、黒尾はふいに何かを思い出したかのように、視線を宙に彷徨わせる。黒尾の頭に浮かんだのが、研磨の言葉だったことは、もちろん赤葦には知る由もない。
 しばしの沈黙が、黒尾と赤葦のあいだに落ちた。
 やがて黒尾は思考に切りをつけたのか、深い溜息を吐き出してから言った。
「研磨といい赤葦といい、おまえら、俺より年下なのに悟りを開き過ぎだろ」
「いやいや、悟りなら俺より黒尾さんのが開いてるでしょ。煩悩打ち消して苗字さんに良い顔しようとしてたくらいなんだから」
「それもひとつの煩悩だけどな」
 自嘲めいた苦笑をこぼす黒尾。しかしその顔は、先ほどまでと打ってかわって、何か吹っ切れたようにさっぱりとしていた。
「ん、まあ大丈夫そうだ。なんか今更分かった気がする」
 心なしか晴れ晴れとした黒尾の声音に、赤葦がほっと息を吐き出した。一応は黒尾の役に立てたらしい。黒尾の恋愛事情になど、まったく何の責任も持っていない赤葦だが、それでも相談を持ちかけられた手前、役に立てたことに安堵を覚える。
「よく分かりませんが、お役に立てたならよかったです」
「やっぱお前、さすがは木兎を支えてただけあるよ」
「まあ、あれはあれで遣り甲斐も楽しさもありましたから」
「本当、立派になるよ、お前は」
 呆れたように笑う黒尾に、赤葦は口の端をわずかに上げて、品よくかすかに微笑んだ。
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