EXTRA 004

 その瞬間、名前の身体がぐらりと傾いた。黒尾の胸についていたはずの手は、あっけなく力を失う。そのかわり今度は全身で、黒尾の温度を感じていた。
 ひたいが固いものにぶつかって、すぐにそれが黒尾の身体だと気付く。黒尾が名前を思い切り抱きしめて、自分の胸に押し付けていた。支えを失った黒尾の身体ごと、ふたりで床に転がっている。
 名前は言葉を失って、ただ黒尾の胸に押し付けられるがままになっていた。それでもどうにか言葉を発しようとした矢先、黒尾が溜息を吐き出した。
「いや、もう、本当にさ……。苗字さん、なんてことを言うんだい」
「は、はしたなかったですか……?」
 名前の全身から、さっと血の気が引いていく。しかし黒尾は、もう一つ溜息を吐き出してから、やんわりと首を横に振った。
「はしたなくない。というか、俺か。俺の方こそ、なんてこと言わせてんだって話だな」
 黒尾が腕の力をゆるめる。名前の下では黒尾の身体が、彼の呼吸にあわせてゆるやかに上下していた。これだけぴたりとくっついていれば、呼吸も、鼓動も、すべてがひとつになってしまいそうな気分になる。束の間血の気が引いていた名前の顔に、また熱が上ってきた。
 名前の下で、黒尾がわずかにみじろぎした。据わりが悪いのかと、名前はもぞもぞと身体をよじらせる。黒尾に身をあずけたまま、顎を上げて黒尾の顔を見上げた。
 部屋の中はしんと静まっていた。壁掛け時計の秒針だけが、時間の流れを控えめに伝える。
 黒尾は顎を引いて名前の顔を見つめている。その表情にかすかな翳りを見て取って、名前は若干の罪悪感を覚えた。名前が触れてほしいと言ったのは、けして黒尾に浮かない顔をさせるためではない。
「すみません……」
 謝罪が口をついて飛び出した。黒尾が眉を下げて笑う。
「ん、なんで苗字さんが謝んの」
 そう言って黒尾が、名前に回した腕にぎゅっと力を込めたので、名前は黒尾を見上げるために上げていた顎を引き、黒尾の胸に頭をあずけた。
「いえ、あの……黒尾さんの気持ちとか、いろいろ無下にしてるかなって」
「ああ。そういうのはないから大丈夫」
 さっぱりした口調で黒尾が答えた。名前は少しだけほっと胸を撫でおろす。自分のわがままで黒尾の優しさを拒んだ自覚があっただけに、建前だとしてもそう言ってもらえればほっとする。
 とんとんと、子供をあやすように黒尾が名前の背をたたいた。
「ただ、なんていうかな……。簡単に言えば、俺の修行が足らないなーと。そんなようなことをね、思っただけ」
「修行……?」
 名前にはいまひとつぴんと来ない。依然、黒尾に身体をあずけたまま、名前は黒尾の上で小さく首を傾げた。だがそれ以上の疑問を名前が口にする前に、黒尾が名前を抱いたまま上体を起こした。
 黒尾に抱かれて名前も身体を起こされる。かと思えばあっと言う間に、名前の身体はふたたびカーペットの上に寝かされた。
 天井の照明の白い光が目に眩しく、名前は目を細める。だが眩しかったのも束の間、すぐに視界から光源は消えた。
 今の今まで黒尾の上に名前が乗りかかる体勢だったはずが、いつのまにか黒尾が名前の上に覆いかぶさり、組み敷く格好になっている。上下が反転したことにより、名前の見上げる先では黒尾がまっすぐに、名前を見下ろし視線を注いでいた。
「あ……」
 視線が絡み、言葉が消えた。何か言おうと口を開くが、うまく言葉が出てこない。喉のところでもつれた言葉を飲みこむように、名前の喉がこくりと音を立てた。
 黒尾の手が、カーペットの上に投げ出されていた名前の手を、逃がさぬようにとつかまえる。指を絡めてぎゅっと手を握られると、不思議とそこから言葉にならない思いが伝わるようだ。
「好きだよ」
 きっぱりとした声が降ってきて、名前ははっと黒尾を見つめた。いつもの黒尾のにやけ顔も、今はすっかりなりを潜めている。黒尾の真剣なまなざしが、射るように名前に向けられている。その視線たったひとつで、名前には黒尾の気持ちが分かるような気がした。
 望まれているのだと、すぐに分かった。名前が我儘を言ったからではなく。黒尾自身がこうして、名前に触れたいと思ってくれているのだと。
 まっすぐ射抜くような視線に、名前の心が囚われそうになる。そのとき、黒尾の顔がゆっくりと名前に近づいた。
 名前が目蓋を閉じる。そのすぐ後に、くちびるにやわらかくて、冷たい感覚が与えられた。
 押し付け、ついばむ程度のくちづけは、名前を気遣うようにゆっくりと、確かめるように繰り返される。
 名前にとってははじめてのキスだった。はじめ探るようだったキスは、次第に熱を帯び、長く深くなっていく。名前の手の甲を、繋いだ黒尾の指先が、もどかしげに撫で擦った。
 どれだけそうしていただろうか。時計の秒針の音など、すっかり意識の外だった。
「――苗字さん」
 キスの合間に、黒尾が苗字の名前を呼ぶ。
「苗字さんのことが、好きだよ」
「んっ……」
「大切にしたい気持ちは当然、あるけど、」
 低く掠れた声は甘やかで、聞いているだけで身体の底が震えるようだった。
「半分は、俺が我慢のきく彼氏だって、思われたかったから」
「んっ、くろ……んぅ……」
 返事をしようにも、名前が口を開こうとするたび、黒尾がくちびるを奪ってしまう。我慢なんてしないでほしい、好きなだけ抱きしめて、好きなだけキスしてほしい。そう返事をしたいのに、発しようとした言葉はことごとく、黒尾のキスに呑み込まれて消える。
 だからせめて、名前は黒尾の手をぎゅっと強く握り返した。思いが届きますように。願わくば、自分も同じ気持ちなのだと伝わりますように。
 その気持ちに、黒尾が気付いたかどうかは分からない。ただ、黒尾は一瞬呼吸を詰めると、名前からゆっくりと顔を離した。
 名前も目蓋を開く。わずかに目元を赤くした黒尾が、熱に浮かされたような顔で名前を見つめていた。
「俺は苗字さんのことが可愛くて仕方がないし、お願いされたことは何でも聞いてあげたいと思ってる。だから、苗字さんの方から俺に触れてほしいって言うなら、俺ももう、我慢するのはやめる」
 だけど、それでいいの? と黒尾が視線で問うてくる。そんなことならば、答えはとうに決まっていた。さっきから何度も、名前は黒尾に同じことを言い続けている。言葉にできない思いまで、すべて黒尾に明け渡している。
 躊躇することなく、名前は頷いた。それを合図に、黒尾はようやく顔に笑みを取り戻した。
「そういうことなら、期待に応えないとな」

 ◎

 名前のお願いは何でも聞いてあげたいという、黒尾の言葉はどこまでも本心だったらしい。あの後たっぷりキスを落とされ、途中からは舌も絡められ、名前は息も絶え絶えで天井を眺めていた。
 本当ならば、このままその後の展開にまで縺れ込んでもおかしくなかったところだ。けれどそれはさすがに焦り過ぎているし、第一黒尾も名前も、何の準備もしていなかった。そんなわけで、黒尾にとっても名前にとってもほとんど生殺しのような状況になりながら、どうにかこうにか黒尾は名前を解放したのだった。
 呼吸を整えながら、名前は冷えた麦茶をふたり分コップに注ぐ。今更ながら、自分が発した積極的すぎる発言を思い出し、押し寄せる羞恥心に打ち震えた。はじめてのまともに付き合っているといえる彼氏、はじめてのキス。それなのによくも、あんなことが言えたものだ。
 麦茶をテーブルに持っていき、名前は黒尾の隣に腰を下ろす。黒尾はサンキュ、と短く礼を言うと、麦茶ではなく名前の方に手を伸ばした。そして、
「髪の毛ぐっちゃぐちゃ」
 笑いながら、手櫛で髪を整えてくれる。その手つきにまた愛おしさを感じ、名前はお礼を言いつつ赤面した。
 髪を整え終えてもなお、黒尾は名前の髪を指で梳き続ける。
「苗字さんさ、そんな可愛いことでよくぞここまで、誰の毒牙にもかからず生きてこられたよなぁ」
「……どうせ私はキスの仕方も満足に知りませんけど」
「それはほら、俺が教えてあげるから大丈夫というか、身を任せてもらえればそれで」
「その言い方もどうなんですか」
「さっきのも非常に可愛かったけどね」
 さっきの、というのは名前のぎこちないキスのことを言っているのだろう。舌の絡め方なんて知らないし、どうやって呼吸をしたらいいのかすら分からない。名前はただ黒尾に翻弄され、溺れないよう必死に縋り付くしかなかった。
 名前は照れているのがばれないよう黒尾から視線をそらす。だがそれが無駄なあがきに過ぎないことも、痛いほどよく分かっていた。現に黒尾は、嬉しそうに名前の髪を弄び続けている。
「苗字さんが女子高から女子大に進学したことに感謝を捧げるべきかな」
「捧げなくていいです」
「そんなつんつんしちゃって」
 髪に絡ませている指はそのままに、黒尾は名前の頬をするりと撫ぜる。その温度が心地よく、思わず名前はうっとりと目を細めた。
 と、黒尾がやおら名前の鼻をつまむ。驚く名前が文句を言うより先に、黒尾はにやりと笑いかけ、素早く名前の鼻の先にキスを落とした。
「――っ!」
「急ぎ足になって焦らなくていいし、大事にしようって思ってるのは今も変わんない。俺は苗字さんのことを好きで好きでどうしようもないから、大事にすることで少しでもその気持ちを苗字さんに証明できるなら、どんな手間や時間をかけてもいいと思ってる」
 だけど、と続けた黒尾が、名前がテーブルの上にのせていた手を、そっと握った。
「意味なく待ったり、焦らされたいわけじゃない。もちろん苗字さんを焦らしたいわけでもない。だから苗字さんの心の準備ができてるなら、俺もちゃんと応えるよ」
 その言葉が指し示す意味を理解できないほど、名前も子供ではない。たっぷりと蜜を含んだ黒尾の声を聞き、名前の顔に熱が集中した。
「うっ」
 思わず呻いて顔をそらす名前に、黒尾はわざわざ身体をひねって覗き込み、
「おや、何を考えてるのかな?」
 にやにやと意地悪く笑った。
「というわけで、今度ふたりで、どっか遠出でもするか。なんかいい感じの宿とかとってさ」
「し、下心旅行……」
「ロマンチストと言ってください」
 茶化して笑った黒尾は、赤くなった名前を抱きすくめる。そしてもう一度、愛しむようにくちびるを重ねた。
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