EXTRA 003

 しばらくそうしていると、だんだんと名前もこの密着した姿勢に慣れてきた。とはいえ冷静とはほど遠く、黒尾が触れている部分がことごとく、かっかと熱を持つようだ。今にも全身が煮えたってしまいそうな気分になる。
 黒尾が顔を埋めている頭はもとより、名前のおなかの前でゆるく組まれた黒尾の指が、名前にはひどく気にかかる。なにせ黒尾の指の形まで、服ごしに分かってしまうのだ。恥ずかしくて仕方がない。
 というかこの体勢、私のおなかが締まってないのが黒尾さんにバレているのでは……?
 黒尾の指の感触を感じるということは、逆もまたあり得るということだ。とんでもないことに気がついて、名前は内心で冷汗をだらだら流した。
 だからといって、黒尾とくっつくのをやめたいなんて、名前からは言いだせない。くっつきたいのは名前だって同じなのだ。
 そんな名前の葛藤を知ってか知らずか、黒尾はおもむろに埋めていた顔を上げる。そして名前の耳元に、そっと口許を寄せた。
「つーか、あれだな。このくっつき方だと苗字さんの照れてる顔が俺から見えない」
 耳に吹きかかる黒尾の息に、たまらず声をあげそうになりながら、
「み、見なくていいです……」
 名前はどうにか返事を絞り出す。
「なんで? せっかくだし見せてほしーなー」
「ちょっと、くすぐったい……っ」
 名前の声がかすれ震えた。きっと黒尾は分かってやっているのだろう。その証拠に、耳元で話を始めた途端、名前が身をよじって逃げないよう腕の力を強めている。
 耳にかかっていた名前の髪が、黒尾の吐息でさわりと揺れた。知らず顔を俯けると、あらわになったうなじにエアコンで冷やされた空気が触れる。
 名前がぎゅっと身を縮こまらせると、黒尾がくっくと忍び笑いをした。
「苗字さん。こっち、向いて」
 きっと今の自分は、黒尾に見せられるような顔をしていない。そのことが名前にはよく分かっている。けれど、付き合い始めてから聞くようになった、黒尾の甘えるように低くとろける声でねだられ乞われれば、名前にそれをねつけるすべはない。
 顔を俯けたまま、名前は無言でうなずいた。黒尾の腕がふっとゆるみ、かわりに膝の上で握っていた手を開かれ、握られた。その手を引かれるまま、腰を浮かせた名前が半回転し、顔を上げる。すると嬉しそうに目を細めている黒尾と、ぱちりと目が合った。
「はい、ご対面」
 茶化すように笑って、黒尾は名前の手を握りなおす。名前は足を崩してカーペットの上にぺたんと座ると、そっと黒尾の顔を見つめた。
 さっきまでの体勢の方が密着度は高かったはずが、向かい合っている今の方がさっきまでよりずっと照れくさい。黒尾のまなざしは、恋人の名前でもどきどきしてしまうくらい愛おしげで、黒尾さんは恋人にはこういう顔をするのかと、落ち着かない心で名前は考える。
 黒尾はやおら片手を持ち上げると、名前の頬にひたりとあてがった。手を握っていたときよりもその手が冷たく感じられ、名前は自分の頬が燃えるように熱くなっていたことに気付く。
「はは、やっぱ苗字さんの顔、赤かったな」
「だっ、そ、それは」
「後ろ向いてた時も、首とか耳とか真っ赤だったから、顔も赤いだろうなって思ってたけど」
 黒尾が慈しむように、やわらかな笑みを名前に向ける。頬に添えられた黒尾の手は、名前の顔の半分以上を覆ってしまいそうな大きさ。添えられているというよりむしろ、顔の半分を包まれているようだ。
 と、黒尾の硬い親指の指先が、名前の目じりのあたりを柔らかくすべる。それはまるで、目じりに滲んだ涙を拭うような手つきだった。
 名前の肩がぴくりと震える。こういう触れられ方にはまだ、慣れていない。
「――可愛い」
 名前に聞かせるためではない、独り言のように黒尾がこぼした。素のままの声が優しくて、名前は思わず「うっ、」と喉が閉まったような声を出す。しかし黒尾は、名前のぎこちない反応にも、一層まなじりを下げた。
 目に入れても可愛くないと言う時、もしかしたら人はこういう顔をしているのかもしれない。そんなことを思うほど、黒尾は頬をゆるめて名前を見つめている。
「さすが俺の彼女。すげえ可愛い。世界で一番可愛い。食べちゃいたいくらい可愛い」
「わ、分かった、分かりましたからっ」
「目が泳いでんのも可愛い。分かりやすく狼狽うろたえてんのも可愛いなぁ」
「というか黒尾さん揶揄ってますよね!?」
 目元をすりすりと撫でられながらも、名前はどうにか抗議の声を上げた。名前の手に添えられたままになっていた方の黒尾の手を、名前は軽くぺしっとはたく。黒尾は少しも堪えた様子はなく、だからといって反省した様子など微塵もなく、ただにやけた顔で首を傾げた。
「たしかに揶揄ってはいるけども、苗字さんのこと可愛いと思ってんのは本当ですよ」
 そう言って黒尾は、念押しのように名前の顔の前にぐっと顔を突き出すと、名前に払われた方の手も使って、今度は両手で名前の頬を包んだ。ほとんど頭の後ろにまで回ってしまいそうな大きな手につかまえられ、名前はやんわりと頭を固定される。
 そうなってしまえば、たとえ名前がいくら視線を逸らそうとしても、どうしたって黒尾の顔が見えてしまう。にやにやと名前の顔を覗き込む黒尾の表情は、どう見ても主導権を握って楽しんでいる側の余裕に満ちていた。
 と、黒尾の指先がふいに名前の耳に触れ、耳朶をくすぐるように優しく撫ぜた。心ならず身体がぴくんと震えて、名前は気恥ずかしさから視線を伏せる。黒尾はかまわず、まるで名前の耳の形を確認するように、何度も何度も耳を撫でさすり続ける。
 やがて黒尾は、いよいよ本腰を入れて名前の耳をふにふにと弄び始めた。
「あのっ、み、耳! 耳はちょっと、くすぐったいんですが」
 名前の度重なる抗議の声も、黒尾は「んー?」とのらくらとかわしてしまう。向かい合って、至近距離で顔を覗き込まれ、耳を捏ねるように弄ばれている。
 反撃しようにも、名前には慣れないスキンシップを受け止めるだけで精いっぱいだった。そもそも耳に限らず、名前が自分から黒尾に触れに行くのには、まだ多少の抵抗がある。
「あの、本当にくすぐったいので……」
 抵抗のすべを持たない名前は、無駄だと分かりつつ抗議を続けた。
「けど俺、耳さわんの好き」
「それ、私がくすぐったいことと関係ないですよね……!?」
「くすぐったがってる苗字さんのことも、可愛くて好き」
「うぅ……」
「それとも、苗字さんは俺にこうやって触られるのいや?」
 問いかける黒尾の瞳が、名前のすぐ目の前で悪戯いたずらめいて輝いた。部屋の照明の光を受けているだけのはずなのに、どうしてこんなにもきらめいて見えるのだろう。名前は堪らず目をすがめる。
 殊勝なせりふとはうらはらに、黒尾の表情には気遣いや遠慮は一切浮かんでいない。名前が嫌だと言わないことを分かり切っている、そんな確信に満ちた顔をしているところが憎らしい。
 そんな黒尾を、好きだと思ってしまう自分のことは、もっともっと憎らしい。
「ずるい……そんなの、嫌って言うわけないじゃないですか……」
「うん、俺も嫌とは言われないだろうなと思って聞いた」
 案の定、黒尾は飄飄とうそぶいた。名前を足の間に挟んだまま、黒尾は身体をわずかに前傾にしてふたりの間の距離をつめる。
「だって俺なら、苗字さんに触ってもいいんだもんな?」
 どこか勝ち誇ったようにそう問われ、名前は何も言えなくなった。
 ただでさえ近かった距離が、今はもう、文字通り目と鼻の先にある。互いの呼吸が、すぐそばに感じられる近さ。少しでも顔を傾ければ今にもくちびるが重なりそうな、それほど近くに黒尾の存在を感じる。
 知らず、名前は呼吸を浅くした。言葉を封じられたから、というだけではない。その証拠に、名前はもう、黒尾から視線を外せなくなっていた。
 膝に置いた手をぎゅっと握りしめているのとは反対に、くちびるは惚けたように小さく開いている。
 黒尾の瞳の奥に、隠しようのない熱が揺れている。そのことに名前は気付いていた。名前の耳に触れた黒尾の手が、ほんの一瞬こわばる。名前か黒尾か、どちらかの息を呑む音がした。
 ――次の瞬間、黒尾の手がぱっと名前から離れた。
「と、いうわけでね。こうやって少しずつ慣らしていこうかなと」
 張り詰めていた空気がにわかに弛み、黒尾の顔が遠ざかる。
「今日の慣らしはここまで」
 気が付けば、黒尾の瞳に揺らめく熱は影も形も消え去って、そこにいるのはいつもと変わらない、つかみどころのない黒尾だけだった。名前の視線が、意思によらず、遠ざかった黒尾の手を追いかける。名残惜しさから、黒尾の指先の温度を追い縋ってしまう。
 黒尾は名前に触れてくれる。抱きしめてくれるし、今のように恋人らしい距離でふざけてじゃれることもある。
 けれど。
 黒尾はまだ一度も、名前にキスを与えてはいなかった。当然、その先もありはしない。
 胸に切なさがこみあげる。それが黒尾なりに名前を大切にしているのだと、分かっていればこそ。触れてほしいのだと、名前は切に願ってしまう。
 触れてほしい。奪ってほしい。あばいてほしい。
 自分が黒尾に求めるのと同じだけ、黒尾からも求めてほしい。
「――っ……」
 気付けば名前は、黒尾に向けて手を伸ばしていた。
「あの、黒尾さん」
 え、と黒尾が小さく短くこぼす。腰を浮かせて黒尾に手を伸ばした名前は、その手を黒尾の胸にとんとついた。そうして距離を縮めて、名前は黒尾に迫る。黒尾の喉が、分かりやすく上下した。
 黒尾さん、と名前は再度、黒尾の名前を呼びかける。自分でも分かるくらい、その声には淡い熱が、いたように滲んでいた。
「黒尾さんっ、その、……き、キスを、し、てもらっても、……いいですかっ」
「えっ!?」
 こみ上げる羞恥心をかなぐり捨て、名前は勢いよく言い切った。あまりに力がこもったせいで、黒尾の胸についた手にも体重がかかり、勢い黒尾の上体が後ろにぐらりと傾きかける。慌てて黒尾が床に手をついたが、名前は黒尾の胸になだれこんだ。
 傍目に見れば、名前が黒尾を押し倒そうとしているようにも見えかねない。慌てて身体を離しかけた名前だが、しかし完全に身を退く寸前で、ふと思い立って静止した。みずからキスをねだっておきながら、今更恥も外聞もあったものではない。
 黒尾さんが私に遠慮しているなら、その遠慮の壁を私の方から突き崩すまで……!
 名前はゆっくりと顔を上げ、黒尾と視線を合わせる。半ば黒尾に乗り掛かった体勢のまま、名前は訥々と言葉を紡いだ。
「あの、前にも言ったと思う……というか言いましたけど、私、黒尾さんになら触れられても嫌じゃないですし、というかむしろ、触れてほしいくらいで、ですね……」
 一体何を言っているのやら、と頭のなかにわずかに残った冷静な自分が頭を抱える。だが、この体勢、この状況、そしてここまで言葉にしておきながら、もはや引き下がることなどできはしない。出たとこ勝負は名前の信条に反するが、そんなことに構っている場合でもない。
「それにキスされたところで、いまさら黒尾さんのこと手が早い人とか思いませんし……、自分の気持ちも黒尾さんの気持ちも、もうちゃんと分かってるつもりなので……!」
 名前が手をついた黒尾の胸の下で、とくとくと鼓動が速いリズムを刻んでいた。きっと名前の心臓も、同じくらい騒いでいるに違いない。全身が熱くて、沸騰してしまいそうだ。
 けれど、どれだけ恥ずかしい思いをしたとしても、言葉でしなければ伝わらない。
「――黒尾さんになら触れてほしいっていう、私の言葉を、もう少しだけ、信じてもらえませんか……?」
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