EXTRA 002

 退勤後、自宅で簡単な夕食を済ませた名前は、キッチンで食器を洗いながらそわそわと気持ちを浮き立たせていた。今日は仕事終わりに黒尾が来ることになっている。食事は済ませてから来るらしいので、顔を見る程度の時間しか一緒に過ごすことはできないが、それでもこうして週に何度か会えるというだけで、名前にとってはこれ以上ない幸福だ。
 付き合う前は、理由がなければ黒尾と会うことができなかった。茶飲み友達なのだから「お茶でもどうですか」という便利な口実はあったのだが、あくまでそれは互いの休みが合えばという頻度だ。こうして短い時間でも、少しでもという会い方は、付き合っているからこそだと名前は思う。
 洗い物を済ませ、濡れた手をタオルで拭ってから、戸だなの中身を確認する。夜にコーヒーを飲むと寝つきが悪くなるという黒尾のために、名前は少し前からカフェインレスのコーヒーの粉を自宅に常備するようになった。名前自身は夜でも平気でコーヒーを飲む。名前ひとりの生活では本来必要なかったものが、当たり前に常備されるようになった事実が嬉しい。
 キッチンカウンターに置いていたスマホがぴろんと軽やかな音を鳴らす。画面を確認すると、黒尾から『そろそろ着くよ』とメッセージが来ていた。ケトルでお湯を沸かしながら、インターホンが鳴るのを待つ。ほどなくエントランスのインターホンが鳴らされて、名前はいそいそとオートロックを開錠した。

 ◎

 食事は済ませてから来るとは聞いていたが、黒尾はどうやら一度自宅に戻ってから来たらしい。名前の家を訪れた黒尾は、スーツではなくラフな私服を身にまとっていた。
 こういうとき、近所に住んでいてよかったと名前は思う。名前の方から黒尾の家に行くことは滅多にないが、互いの家の行き来が楽だというのは大きなポイントだ。
 黒尾にあわせてカフェインレスのコーヒーをふたり分入れると、黒尾がそれをテーブルまで運んだ。以前黒尾用に買い求めたマグカップは、頻繁にその出番があって嬉しそうに見える。
 どちらからともなくカーペットに腰をおろす。これまたどちらからともなく、近況をつらつらと報告した。名前の報告は主に仕事のこと。黒尾の近況もたいてい名前と似たり寄ったりだが、今日に限っては違った。つい昨日研磨の家を訪れた黒尾は、その場で研磨に付き合った報告を済ませてきたらしい。研磨のリアクションがいまひとつ地味だったことなどを、黒尾は面白おかしく名前に話してくれた。
「本当は私も孤爪くんのところに一緒に報告行きたかったんですけど……」
 黒尾の話が一段落したところで、名前が残念そうに呟く。研磨の家に行く件については事前に黒尾から聞いていた。その際名前も一緒に行くかと聞かれていたのだが、生憎と昨日はほかの用事が入っており、名前は泣く泣くそれを断ったのだった。
「ふたりで報告なんか行ったらちょっと大事おおごとっぽくなっちまうし、いいんでない? また今度遊びに行くときにでも」
 なだめるように、おっとり黒尾が答える。たしかに、と名前も頷いた。
「黒尾さんにとって家族も同然の孤爪くんの家に、そんなに張り切ってふたりで行ったりしたら、それこそなんだか結婚のご挨拶でもするみたいですもんね」
「そうそう。まあ、それならそれで俺は別にいいけどな、結婚のご報告でも」
 何でもないことのように返され、名前は顔を赤くした。
「……そういうのは、付き合って二週間の相手に言うことではないのでは」
「俺は付き合うのと結婚をわりとセットで考えてる派、って苗字さん知らなかったっけ」
「言われなくてもなんとなく分かりますけど……」
「付き合って二週間っつったって、知り合ってから一年以上経ってるわけだし。先を考えられない付き合いなんて、俺はする気はないですよ」
「そ、それは私だってそう、ですけど……!」
 黒尾に顔を覗き込まれ、名前はしどろもどろになる。マグカップを口許にもっていき、それで誤魔化すみたいに顔を隠した。
 揶揄からかううような声音ではあるが、黒尾のこういう発言はその実、結構な確率で本音だ。揶揄にして軽く聞かせようとするのは、悪癖とも気遣いともいえる。そのことは付き合う前から知っていた名前だが、付き合いだしてから一層深く実感していた。
 結婚なんて前のめりすぎる話だ。途方もないことのようにも思える。しかし名前と付き合うと決めた時点で、黒尾はおそらく、それを――結婚というイベントを、けして遠すぎない未来の予定として組み込んでいる。
 名前としてもやぶさかではないのだが、いくら何でも付き合って二週間あまりでそこまでの話は考えられない。いや、だからといって黒尾と結婚するのが嫌だという話ではまったくないし、むしろ黒尾以外に結婚したい相手など名前にはまるで思い付かないのだが――
「と、とにかく!」
 うっかり流されかけた思考にどうにか釘をさし、名前は無理やり仕切りなおした。
「私たちのこと、孤爪くんにもちゃんと報告できてよかったです。孤爪くんとしては他人の色恋沙汰なんてあんまり興味ないとは思いますけど、こういうのは筋を通すのも大事ですもんね」
「んや、興味ないってこともなさそうだったぞ。さすがに幼馴染と友達が付き合うわけだし、研磨もいろいろ思うところあるんじゃないのかね」
 黒尾のその物言いに、名前は少し首を傾げる。
「今更ですけど……、身内の恋愛話って、聞いてて嫌じゃないんですかね」
「どうだろうな。もっと生々しい話だとアレだけど、付き合った報告くらいじゃ嫌とかはないと思う。研磨は特に、情緒面のあれこれに関してはドライだから」
「なるほど」
 生々しいというワードが具体的に何を指すのか。一瞬そんなことを考えつつも、名前はあえてそこをスルーした。
 ちらりと壁の時計を見れば、間もなく二十一時を回ろうとしている。窓の外はとっぷりと暮れており、静かな暗闇が広がるばかりだ。そういえば部屋に黒尾をあげたとき、黒尾から夜のにおいが香ったことを思い出す。
 これまでも夜に黒尾を家にあげたことは何度かあった。付き合ってからの二週間でも、黒尾は時間さえあれば名前に会いに来てくれる。
 そのなかでさりげなく、黒尾が名前の手を握ることもあれば、ふざけてじゃれて、抱きついたり抱きつき返したこともある。
 すでに黒尾に話してあるとおり、黒尾に触れられるのは嫌ではなかった。むしろ、付き合う前に大切に大切に、不用意に触れてしまわないようにと気を付けられていたからこそ、付き合い始めてから気兼ねなく触れられることが嬉しいとすら思っている。
 気付けばマグカップの取っ手を握る名前の手が、じんわりと汗ばんでいた。いくら今が初夏で、なおかつ熱いコーヒーを飲んでいるといえど、黒尾が来るのに合わせてエアコンをつけた部屋の中は適温に保たれている。
 だからこの手の汗ばみは、部屋の暑さのせいなどではまったくなく――
「いとこくんにはもう報告したの?」
「はい!?」
 完全に気を抜いていたところに話しかけられ、名前はびくりと肩を揺らしたあと目をしばたかせた。黒尾が「ぼんやりしちゃって」と苦笑する。名前は曖昧に笑ってその場を取り繕った。
「だから、いとこくんにはもう報告したのかい? って聞いたんだよ」
 眉を下げて笑う黒尾に、名前は「なるほど」と胡乱な返事をした。ほんの束の間、名前が不埒なことを考えかけていたということは、どうやら黒尾にはばれていないようだった。ほっと胸を撫でおろす。
「ええと、秀くんの話ですよね」
「そうですよ」
「秀くんは今月末に久し振りにこっち来るらしいので、その時に報告しようかなって。わざわざ連絡するのもアレですし……」
「ああ、そういう機会あるならその時でいいか」
「といっても、秀くんこそ、私の恋愛とか微塵も興味ないと思いますけどね」
「そうなの?」
「私も秀くんの恋愛に興味ないですから」
「どうだかなぁ」
 そう言って意味深に微笑む黒尾の表情から、名前は何か不穏なものを察した。そういえば、と名前は黒尾と矢巾がすでに連絡先を交換していることを思い出す。
 黒尾からも矢巾からも、ここのところ個人的に連絡を取り合っているという話は聞いていない。だが、男同士のことは名前には分からない。もしかすると、名前が知らないところで何かまた密談が進んでいるのかもしれない。
 黒尾は名前に、研磨や赤葦といった自分の友人を紹介している。だから名前の方も、矢巾と黒尾が親しくすることに対し文句をつける筋合いはない。それこそ結婚の話が本格的に出たとして、むしろ黒尾には矢巾と親しくしておいたもらった方が何かと都合がいいくらいだ。
 だが、名前は長年の矢巾との因縁のなかで、幾度となく矢巾から煮え湯を飲まされている。頼りになる、なんでも相談することのできる相手だとは思っているが、それとこれとは話が別だ。
 自分の知らないところで矢巾が名前の知られたくないあれこれを黒尾に流している可能性を考えれば、そこのふたりが繋がることは、名前にとってあまり歓迎できることではなかった。
 名前の脳裏を、にやりと笑う矢巾の顔がよぎる。名前はぶんぶんと首を振ると、邪念を無理やり頭から振り払った。
「というか、秀くんの話やめましょう。せっかく黒尾さんといるんですから」
「なんで? 俺は別にいとこくんの話でもかまいませんよ? 苗字さんの家族の話なわけだし、俺は俺の知らない苗字さんをかたちづくってきた人やもののことは、何を聞いても楽しいから」
「……」
「おや、照れてる? 照れてるのかな?」
「照れてますけど!」
「可愛い彼女だなぁ」
 揶揄われているのは分かっているが、黒尾があまりにも嬉しそうに笑っているから、名前も強く言い返せない。そもそも名前はとことん黒尾に弱いのだ。惚れた弱みというのならば、これはもうどうしようもないことだと諦めるしかなかった。
 視線を伏せ、名前は黒尾の嬉しげな視線をやり過ごす。しかし黒尾は、そんなことで追撃の手をゆるめはしなかった。
「そんな可愛い苗字さんのことを、もっと照れさせてやろう」
 言うが早いか、名前の腰に黒尾の腕が回される。驚く間もなく引き寄せられ、名前はあっという間に黒尾の足の間に座らされてしまった。ぐるりと後ろから回された黒尾の手は、名前のおなかの前で悠然と組まれている。太く筋張った指はゆるりと組まれているようにも見えるが、腕力の差を考えれば、その手と腕が名前を簡単には逃がさないだろうことがはっきり分かる。
 ぼこりと浮き出た黒尾の指の付け根の骨を、名前は顔を俯けじっと見つめた。背中に感じるのは黒尾の肌の熱。
 互いに服を着ているとはいえ、あたたかい季節なので薄手のシャツやブラウスしか身に着けていない。そんな頼りない薄布では、肌の温度を感じるのに何の障害にもなりはしない。
「苗字さんぽかぽかしてんなぁ。照れてるから?」
 名前を抱きしめる腕にひときわ力をこめ、黒尾が甘えた声で問う。黒尾が立てたひざの間に座らされている名前のつむじに、黒尾の息が吹きかかる。
「く、くっついてるから熱いんですよ」
「そう? じゃあ離れる?」
 そう言われると、名前は困ってしまう。名前だって黒尾の腕の中から抜け出したいわけではなかったし、むしろもっと、ぎゅっとくっついていたかった。
 ただ、それをそのまま言葉にするのは、いくら何でも恥ずかしい。黒尾の腕の中でごにょごにょと、言い訳ともつかない言葉を捏ねまわす名前に、黒尾がふっと微笑んだのが気配で分かった。
「まあ、苗字さんが嫌だって言っても、俺はもう少しこうしていたいけどな」
 そうして黒尾は名前の髪に頬ずりするように、名前の頭のてっぺんにくしゃりと顔を埋めた。名前が小さく身をすくませると、黒尾がまた、名前の髪の中に微笑みまじりの吐息をとけこませる。
「ん、苗字さんの髪なんかいい匂いしない?」
「嗅ぐのやめてください。……今日は帰ってきてすぐにシャワー浴びたので、それでじゃないですか」
「ふうん。今日暑かったもんな。今更だけど俺汗臭くない? 大丈夫?」
「普通に黒尾さんのにおいがします」
「ドキドキする?」
「そりゃあまあ、しますけど」
「するんだ」
 自分で自分のにおいなんて分かんねえからなぁ、とぼやく黒尾が面白くて、名前もかすかに笑いをもらした。緊張が少しだけほどける。そのことに気付いたのか、黒尾の腕の力がわずかにゆるんだ。
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