EXTRA 001

 すでに夏のおとずれを空気に感じる六月頭。しかし標高が都市部よりもやや高く、条例によって緑を色濃く残す研磨の家のあたりでは、夜ともなると夏の気配をつゆも感じない、冷たい風に草の匂いが混じる。網戸から吹き込む風のにおいに音駒のあたりと違う空気を感じながら、黒尾はこたつ布団をやっと片付けたばかりのテーブルにつき、持参したビールをちびちびと飲んでいた。
 テーブルを挟んで対面には研磨が、黒尾の酒には付き合わずに麦茶を飲んでいる。顔を合わせるのが少し久し振りなのは、黒尾も研磨も仕事が立て込んでいたからだった。ようやく一段落を見ての今日ではあるが、黒尾は明日も仕事があるし、このあとは終電がなくなる前には家に帰るつもりでいる。
 しかし、ならばどうして、仕事帰りの黒尾がわざわざこうして研磨の家に寄っているのかといえば。ひとつには一人暮らしの幼馴染の生活ぶりを定期チェックするため。しかし今日の来訪の最大の理由は、もうひとつ――
「というわけで、苗字さんと付き合うことになりました」
「そっか、よかったね」
 ここしばらくの間に起こった名前とのあれこれをそう総括し、黒尾は神妙な顔で頷いた。なぜ神妙そうにしているかといえば、幼馴染相手に幸せな報告をするのが単純に気恥ずかしいからだ。研磨がいたって涼しい顔をしていることで、何故だか余計に黒尾が汗をかいている。
「いや本当に、よかったですよ俺は」
 照れを誤魔化し、黒尾はおどける。研磨は呆れたように目を細めた。
「なんかさっきからクロ、変な顔してるけど、口許ちょっとゆるんでるよ。もっとしゃきっとしなくていいの」
「苗字さんの前ではしゃきっとしてるから大丈夫」
「本当にしゃきっとできてるか疑わしい」
「疑うなよ。いや、それも結構あやしいかもしんないけど」
「あやしいんじゃん」
 ともあれ。
 そういうわけで、今日の黒尾の来訪の本旨は、名前と付き合ったことを研磨に報告することにあった。
 研磨にとってみれば、わざわざ報告にこなくてもいいようなことだったのかもしれない。だがそこはそこ、研磨は黒尾とはもちろん名前とも面識がある。これまでも散々恋愛話に付き合ってもらった義理を通すため、聞かれてもいないのにこうして報告に足を運んだというわけだった。
 研磨はお気に入りの湯呑で冷たい麦茶をごくごくと飲む。以前高校時代の先輩である海からもらった湯呑は、熱いものでも冷たいものでも、ジュースでも茶でもコーヒーでも構わずこの湯呑で飲むくらい気に入って愛用している。
「それで、いつ付き合うことになったの?」
「先月の中くらいだから、二週間くらい前か」
 ふうん、と自分から尋ねたわりには、研磨は気のない返事をする。
「えっ、もしかして研磨おまえ、さっさと報告しなかったの怒ってる?」
「そういうわけじゃないけど。わりとどうでも良さそうな相談はすぐしてきてたのに、付き合ったとかどうとかは案外すぐに言わないんだなと思っただけ」
「付き合ってすぐ教えてほしかった?」
「全然」
 何故かにやつく黒尾に対し、研磨はあくまでそっけない。
「というかフラれたっていうのならともかく、付き合えたんでしょ。だったらそれ以上頭を整理したかったり助言を求めてたりするわけじゃないんだから、すぐに報告する必要もないよ」
「そこはまあそうだけど、一応義理とか」
「おれはそういうの気にしない」
「知ってる」
 にやりと笑った黒尾に、研磨は一瞬眉をひそめた。けれど結局面倒にでもなったのか、言葉を麦茶で飲み込んで、研磨はふいと視線をそらした。
 何はともあれ、黒尾の顔が晴れやかなことは、研磨にとっても喜ばしいことだ。なまじ黒尾は図体が大きいので、そばでへこんでいるときに発散する負のオーラと影響力も甚大なのだ。
 研磨よりも高い位置にある顔がしょぼくれていれば、研磨にとってもなんだか気詰まりなものが頭上から降ってくるような気分になる。逆に頭上の顔が晴れやかであれば――機嫌よくおせっかいなことを言われることはあれども――基本的には研磨が心をわずらわされることはない。
 これでやっとお役御免か。そう考えれば、研磨も肩の荷が下りた気分だった。
 そしてそんな上向きの気分が、研磨に多少のリップサービスをさせようという気を起こさせた。
「まあでも、よかったね。クロのことも苗字さんのことも知ってるわけだから、おれもまったく気にしてなかったわけじゃなかったし」
「研磨にはいろいろお世話になりました」
「……別に、おれなんて何かしたわけでもないけど」
「照れんなよ」
「……」
 たまにそれらしいことを言うと、すぐにこれだ。酔いも手伝い、いよいよにやけ顔を隠そうともしない黒尾に、研磨は冷ややかな一瞥を寄越した。研磨には照れているわけではないし、照れる理由もまったくない。
 まあ、祝福していないというわけではないけど。研磨は心中でひとりごち、そっと溜息を吐いた。
 祝福はしている。しかしそれはどちらかといえば、黒尾が名前と両想いになったことへの祝福ではなく、名前がようやく黒尾に気持ちを伝えられたことへの祝福だ。祝福を向ける対象が違う。
 名前が黒尾に対して、本人はもちろん黒尾すら気付いていないだろうあえかさで、焦がれた視線を送っていたことを、ただひとり研磨だけが知っていた。
「そういや、苗字さんがまた研磨と三人で飯食いたいって言ってたから、そのうち予定聞くと思う。此処でいい?」
 研磨の胸中も知らず、黒尾が思い出したかのように言い出す。
「いいけど」
 研磨は頷いて、しかしすぐに「だけど」と言葉を継いだ。
「クロと苗字さんは付き合ったばっかりなんだし、苗字さんも本当はふたりで過ごしたいんじゃないの」
「そこはほら、苗字さんだから」
「よく分かんないんだけど」
「そういうとこは付き合う前と変わんないというか、多分単純に研磨とも遊びたいってだけだと思う」
「それなら……苗字さんがそれでいいなら、おれは何でもいいけど」
「まあ、付き合ってからというもの俺とふたりだと若干照れてる感じもあるしな。苗字さんのそういうところ可愛いんだよ」
「脈絡のないノロケやめて」
 にやけきった黒尾の顔に溜息を吐き、研磨は湯呑に残っていた麦茶をずずっと飲み干した。付き合い始めて幸せの絶頂の黒尾には、研磨のどんな苦言も適当に流されてしまう。それが分かっているから、研磨もそれほど身を入れて苦言を呈したりしない。無駄なことはしたくないのが研磨の主義だった。
 今回は、付き合うまでの経緯も経緯なので、余計に黒尾を舞い上がらせているのだろう。追いかけられているようで、追いかけてもいた。だからこそ、両想いになった喜びもひとしおだ。
 名前が黒尾に夢中であることも、黒尾が名前にいつになくずっぷり惚れこんでいることも、どちらも研磨は知っている。これまで黒尾は研磨に対してこうも露骨に惚気たことなど一度もないのだ。その事実ひとつとっても、黒尾の過去の恋人と名前がずいぶん違うことが分かる。と、そこまで考えて、研磨は自分の思考が正しくないことに気付く。
 いや、そもそもクロの恋人とおれがちゃんと知り合いっていうのが、はじめてのことなのか。
 頭の中で黒尾の過去の恋人を思い返した研磨は、すでに彼女たちの名前も顔もほとんど思い出せないことに気が付いた。もちろん黒尾に限って女性とおざなりな交際をしたとは思わないが、それでもやはり、研磨を巻き込んでいる時点でこれまでとは違うのだろうと、そんなことを研磨はぼんやり考えるともなく考えた。
 黒尾に何か心境の変化があったのか、それとも名前がこれまでの彼女と違うのか。あるいは黒尾の祖父母を介しての出会いというところから、これまでとは違う何かがあるのかもしれない。つらつうらと思索にふけってみるものの、のめりこむような恋愛どころかそもそも恋愛感情らしいものを抱いたことのほとんどない研磨では、黒尾の身に何が起こったのか知るすべはない。
 気心知れた間柄だからこその、気詰まりではない沈黙に飽かせて、研磨はしばし思案に暮れていた。そんな研磨を現実に引き戻したのは、力の抜けた黒尾の声だった。
「とはいえ実際、ふたりで会う時間もそこそこあるからね。心配しなくて大丈夫です」
 名前との話をしているのだろうと気付くのに、束の間時間を要した。すでに研磨の思考はその件を通り過ぎている。
「仲が良くてよかったね」
「付き合いたてですから」
「けど、クロ忙しいんじゃないの?」
「まあまあ普通に忙しい。しかし俺は幸運にも、すぐ近所で一人暮らしをしているお嬢さんとお付き合いしているので」
 しれしれと答えられ、思わず研磨は目をすがめた。
「すぐに通える距離なのをいいことに、苗字さんの部屋に転がり込んでるんだ」
「待て待て、言っとくけどちょっと顔見に行って、ちょっとお茶して帰るだけだからな」
「ふうん。健全だね」
「そりゃあもう、絶対にしくじりたくないからな」
 いたって真剣な声音で答えた黒尾は、ふいに視線を窓の向こうに投げかけた。網戸の向こうは暗闇に沈んでおり、特に何が見えるわけでもない。庭園灯も置いていないから、部屋の中から見えるのはまるきりただの暗がりだ。
 それでも黒尾は、その暗がりに何かを見ているようだった。研磨も一応は黒尾の視線の先を追ってみたが、結局は現実の何かを注視しているのではないだろうと判断して、即座に黒尾の顔に視線を戻した。
 黒尾の薄い唇が、決意を秘めたように小さく開かれる。
「慎重に慎重重ねて――、今度は絶対にうっかり凡ミスはしない」
「……その言い方だと、うっかり凡ミスの前科があるように聞こえる」
「あるんだな。ま、結果オーライではあったけど」
 研磨が知らされていないだけで、きっと何か重大なこと――少なくとも、黒尾の胸に何らかの決意をもたらすほどの何かがあったのだろう。そう察しつつ、研磨はそれ以上の追及をしなかった。黒尾が話さなかったということは、きっと研磨が知る必要のない、知らない方がいいことなのだろう。
 黒尾はそれほどプライドが高いわけでもなく、あまり保身や面子を気にするたちでもない。だからこういう暈した物言いをする場合、おおかた名前が知られたくないと思っている、何かが絡んでいるのだろう。そこまではさすがの研磨でも関知できないことだ。
 何処か遠くを見る瞳のまま、黒尾は呟く。
「大事にしたいし、大事にされてるんだって思ってほしい。だから絶対、下手は打たない」
 あたかも自分に言い聞かせているように、黒尾は淡々と言葉を紡いだ。
 けれど、それは果たして名前の望んでいることなのだろうか。そんな疑問がふと、研磨の胸にわく。
 もちろん名前にだって大切にしたい、されたいという願望くらいはあるだろう。黒尾を好きになった時点で、名前はきっと黒尾のそういう部分――優しくて、気遣いのできる部分に惹かれている。器の大きさ、懐の広さは誰しもが認める黒尾の美点だろうと、研磨もそれに異論はない。
 けれど大切にしたい、大切にされたいなんて思いは、研磨に言わせれば、あまりにも漠然としすぎている。具体的に何をどうするか、何をもって大切にしているのかと言えるのかは、きっと人によって考えが異なるところだし、研磨には何をどうすれば大切にしているということになるのか、皆目見当もつかない。
 黒尾の思う『大事にしたい』と、名前の望む『大事にされる』は、どこまで一致しているのだろう。失敗したくないという黒尾の気持ちが空回った結果、それがずれた方向に進んでいないとも限らないのではないか。

 ■

 ビールふた缶を空にしてから、黒尾は研磨の家を後にした。駅までは中途半端に距離があり、まあ夜間で酔いも回っていることから、いつものようにタクシーを呼ぶことにする。
 初夏の夜は外でタクシー待ちをするのも苦にならない。虫よけスプレーをたっぷり振りかけてから、黒尾と研磨は揃って家の前へと出た。家の前で雑談しながら時間をつぶすこと数分、やがてタクシーのヘッドライトが研磨の家の前の道路を明るく照らした。
「じゃあ、また適当に連絡する」
「ん」
 簡単な挨拶を済ませ、黒尾は目の前でドアを開いたタクシーに乗り込んだ。そのドアが閉まる直前。研磨は突如、衝かれるようにして「クロ」と幼馴染の愛称を呼んだ。
 黒尾がわずかに目を瞠る。今の今までどうでもいい話しかしていなかった研磨が、この帰り際に切羽詰まった声で自分に呼びかけてくるとは思っていなかった――そういう顔だった。
 いささかの気まずさを覚え、研磨はふいと視線を逸らす。タクシーの運転手は気遣ってか、まだドアを閉めずに待ってくれている。
 逡巡ののち、研磨は言った。
「クロは、おれのこと友達だと……思ってるよね」
「ん?」
 唐突な話題に、黒尾が怪訝そうな顔をする。ますます居た堪れない気持ちになりながら、研磨は早くも咄嗟に黒尾を呼んだことを後悔し始めていた。
 しかし、話し始めてしまったからには「なんでもない」とは言い出せない。何よりそんなことを言ったところで、黒尾が納得してくれるとも思えない。となれば、怪訝に思われようとも話してしまうしかない。
「クロが引っ越してきたときはまだ、学年が違うこととか関係なかったから……。クロにとって、おれは後輩である前に友達だったと思ってるけど、違う?」
「いや、違わないけども。なに?」
「友達にはできても、恋人相手になるとできなくなる、見えなくなることってあるんだなと思って」
「何の話だ?」
「大切にしたいから慎重になるのはいいけど、信用するのも大事だよ」
 最後はほとんど言い逃げるように告げて、研磨はくるりと踵を返した。家の中に戻ろうとする研磨の背に向かって、黒尾が何事か声を掛けているのは分かったが、あえて振り返りはしなかった。柄にもないことをしている自覚があったし、気恥ずかしくもあった。
 クロの照れ隠し、ばかにできないな……。
 後ろ手に玄関の扉をぴしゃりと閉めると、研磨は深く溜息を吐いた。
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