010

 思わず名前の頬がゆるむ。暗がりの中だというのに黒尾が目ざとく気付き、名前をじろりと眺め下ろした。
「おい。何を笑ってるんですか、苗字さん」
「いえ、大丈夫です。笑ってないです、ふふ」
「嘘つくの下手か」
 ひと度頬をゆるめると、込み上げてくる笑いを堪えることができなくなった。くっくと肩を揺らして笑う名前を、黒尾は呆れたように見下ろす。だが楽しげに笑う名前を咎める気もなくしたのか、黒尾は軽く名前の後頭部を押して、
「ったく……ほら、さっさと帰るぞ」
 笑い混じりの声で、そう言った。
 どこかの家の庭先で花火でもしているのか、吹く風にかすかな火薬のにおいが混ざっている。いい具合に酔いが残っているのが自分で分かって、名前はまたくっくと笑った。黒尾が珍しいものを見るような目で、名前をじろじろ見ている。その視線に気付きはしていたが、まったく不快には思わなかった。
 角を曲がると、名前の暮らすマンションが見えてくる。高い建物の少ないこの地域では、目を惹く高層マンションだ。エントランスから漏れ出る光が、道路にまでしらじら明るく広がっていた。
 普段ならば「じゃあまた」と黒尾が切り出すポイントを、今日の黒尾はスルーした。私が酔っているからだろうかと、名前はぼんやり思う。千鳥足になったり前後不覚になるほど酔っていないが、そうでなくても「酔った女子にひとりで夜道を歩かせられないくらい」のことは、黒尾ならば言いそうなことではある。
「黒尾さんって、今みたいに酔ってるとか大荷物持ってるときでもないと、私の家の前までは寄らないですよね。最近気づいたんですけど」
 名前は黒尾を見上げて言う。黒尾は一瞬ぽかんとした顔をして、それからすぐににやりと笑った。なんとなく照れ隠しに見えなくもないような、取って付けたような笑顔だった。
「そうだったか?」
「私はそうかなと思いました。そういうの、すごくしっかりしていて、尊敬します。というのを、今思い出したので伝えておきます」
「マイペースな褒め言葉をどうも」
 黒尾の手が、ぽりぽりと首の裏を掻いていた。ああ、やっぱり照れている。名前はまた嬉しくなった。いつでも飄飄としていて余裕のある黒尾の、些細な感情の発露を引き出せたということが、むしょうに嬉しく感じられる。
 と、そんな遣り取りをしながら歩き続け、そろそろマンション前に辿り着こうという時、視線を前方へ向けていた名前がふと呟いた。
「あれ。マンションの前、誰かいる」
 辺りが深い暗闇に沈んでいるせいで近づくまで気が付かなかったが、よく見るとマンションわきの生け垣の花壇には、腰をおろしている黒い人影があった。足元には大きな影がさらにひとつ。旅行鞄か何かが置かれている。
 そう遅い時間ではないが、マンションの住人の帰宅を待ち伏せているのは一目瞭然だ。単身者向けの物件なので、こういうことは滅多にない。
 黒尾が何を言うこともなく、静かに警戒するのが気配で分かる。名前は前方の暗闇に向け目を凝らした。近づいていくにつれ、次第に人影の様子があらわになる。
「ん? ていうか、あれ……」
 訝しげに人影を見つめていた名前が、何かに気付いて声を上げたその直後、
「あっ! おい、名前!」
 暗がりの中、人影がいきなり名前の名を呼ばわった。かと思えば、人影は足元の鞄をひっ掴み、ずんずんと名前と黒尾の方に歩いてくる。
 やがて至近距離まで人影が歩いてくると、ようやくその容貌がくっきりと見えるようになった。
 すらりとした長身に、育ちの良さそうな上品で甘い顔立ち。名前とはあまりに似ていない柔らかな美形に、名前がうわっと声を上げた。
「やっぱり秀くんだった」
 名前の言葉に秀──矢巾秀は、あのなぁと不機嫌そうに返す。
「うわ、ってなんだ。おまえ、出掛けるなら言っておけよ。暑いなか、俺ずっとここで待ってたんだぞ。アイスくらい奢れよな」
「ごめんごめん。着いてたなら連絡入れてくれればいいのに」
「入れたよ。お前が電話に出ないんだろ」
「えっ、嘘。ごめん」
「いいけどさ……」
 挨拶もすっとばして一頻り文句を言い終えたところで、矢巾は名前の隣に視線を向けた。同じく矢巾を見下ろしていた黒尾と視線がぶつかり、矢巾はむっと顔をしかめる。お坊ちゃん風な見た目に反し、矢巾は自分より目線が高く体格のいい男性と相対しても、ことさら怯むことはない。
 図体の大きな男性がふたり、名前の真横で値踏みしあっていた。にこやかな黒尾の笑顔は底知れないし、矢巾の顰め面はあからさまだ。だが夜闇で視界がきかないせいで、名前がその微妙な空気に気付くことはなかった。
「黒尾さん、紹介しますね。こっちが前に話した、ちょいちょい東京に出てくるいとこの矢巾秀くん。秀くん、こちらが私の茶飲み友達の黒尾さん」
「茶飲み友達?」
 名前の紹介に、矢巾は疑わしげな声を出す。名前はうんと頷いた。
「前に話したでしょ。バイト先の常連さんから茶飲み友達を紹介されたって」
「あれって老夫婦の話じゃなかったのかよ!?」
「老夫婦の、お孫さん。バイト先のお客様です」
 その説明に納得したのかしていないのか、ともあれ、矢巾は名前から黒尾に視線を戻した。先ほどまでのあからさまな顰め面こそ納めたが、それでもまだ、完全には信用していないような目で黒尾を眺める。
「どうも。苗字さんの茶飲み友達の、黒尾鉄朗です」
「どうも」
「ちょっと、秀くん感じ悪いなぁ」
 すかさず名前が矢巾を窘める。
「私がお世話になってる人なんだから、ちゃんと挨拶くらいしてよ」
「普通だろ。俺は男に対しては大体いつもこんな感じなんだよ」
「黒尾さん年上だよ。年上にはちゃんとしてるんじゃないの? 体育会系のノリを思い出して」
 名前に捲し立てられて、矢巾は渋々頭を下げた。
「……はじめまして、名前のいとこの矢巾秀です。名前がお世話になってます」
「どうも、こちらこそ」
 ひとまず自己紹介と挨拶を済ませたところで、名前は鞄の中からキーホルダーのついた鍵を取り出し、それを矢巾に手渡す。
「秀くん、鍵どうぞ。これで先に入っててくれる? あ、秀くんの歯ブラシ捨てちゃったから新しいの出していいよ」
「おまえは?」
「私もすぐ行くから」
 名前がそう言うと、矢巾は黒尾を一瞥し、名前から鍵を受け取った。そして黒尾に浅く一礼してから、マンションの中へと消えていく。意外にもあっさりと去っていった矢巾を、黒尾は若干の困惑を抱きながら見送った。矢巾が完全に見えなくなったのを確認してから、名前はひとつ溜息を吐いた。
「すみません、秀くんなんかちょっと、あれで」
「前に言ってた、ちょいちょい東京に来るいとこくんが彼?」
「そうです。人んちをホテルがわりに使ってるんですよ」
 名前がふたたび深々溜息を吐く。同じ年のいとこの矢巾秀とは幼いころから何かと付き合いがある。一緒にいて気楽である反面、年の近い兄弟のような面倒くささを感じることも少なくない。
「秀くん、いっつもあんな感じなんですよ。私の母に私の周りに男の人がいたら教えてって言われてるせいで、なんかあんな感じで……自分の方こそ女好きのくせに……。本当すみません……」
「それは構わないけども、いとこくん年近いんだっけ」
「同い年です。中学まで同級生」
「俺が言う筋合いじゃないのは分かってるけど、苗字さんちに泊めて大丈夫なの」
 黒尾がやけに真面目くさった顔で言う。だが当の名前はあっけらかんと笑うだけだ。
「全然大丈夫ですよ。秀くん、私のことまったく女だと思ってないので。あの人ときどきこうやって私の家を宿がわりにするんですけど、来るたび彼氏つくれ、俺はおまえみたいに暇じゃない、友達作って東京の可愛い子紹介しろってうるさくて。あっ、黒尾さんに態度悪かったの、私がやっと作った友達が女の子じゃないからだな……」
「いとこくんのクセが強いのはよく分かった」
「とはいえ一応、一番最初に泊まることになったとき、絶対にあやまちを犯さないって念書書いてもらって、それをうちと矢巾家にコピーとって渡してあるんですけども。しかも、向こうが書くって言い出して。本当に私と何かあると思われるのが嫌なんだと思います」
「なるほどなぁ」
 年の近いいとこがいない黒尾には、矢巾と名前の関係は分かりにくかった。だが、ここまではっきり名前がないと言い切るのならば、きっと本当に何もないのだろう。そもそもいとこ同士でどうこうというのも、現実にはあまり聞かない話だ。
 話が一段落したことを察し、名前がぱんっと手を打った。
「ええと、はい。それじゃあ私はそろそろ、家に戻りますね」
 そろそろ夜も更け始める頃だ。夏休みに入った名前と違い、黒尾には明日も仕事がある。
「ああ、だな。いとこくん待たせても悪いしな」
「いえ、秀くんは別に私のことなんて待ってないので、どっちでもいいんですが……。今日はありがとうございました。黒尾さんのおかげで夏祭り、楽しかったです」
「楽しんでもらえたならよかったよかった。俺も楽しかった。撮った写真、あとで送っとくわ」
「はい。じゃあ、おやすみなさい」
「ん、おやすみ。いとこくんによろしくな」
 黒尾がくるりと踵を返す。その姿が夜闇にまぎれて見えなくなるまで見送ってから、名前はようやくマンションに戻った。
 オートロックのドアの前で鍵を矢巾に渡してしまったことを思い出し、エントランスのインターホンを押す。短い呼び出し音に続く「もう少しくらいいちゃついてから帰って来いよ」という面倒くさげな応答ののち、オートロックのドアは開いた。

 ・・・

 蒸し暑い夜の空気に、汗が背を伝う。もくもくと自宅への帰り道を歩きながら、黒尾は今日のことをぼんやり思い出していた。
 毎年行っている夏祭りに、研磨や地元の友人以外と行ったのは今年がはじめてだった。研磨が独り暮らしを始めてからは、地元での集まりやイベントともどうも疎遠になりつつある。自分は自分、研磨は研磨だと分かっていても、部活や幼馴染との付き合いが減れば、出掛ける機会は自然と減った。
 そういう意味では、苗字さんが地元で今一番、俺と顔を合わせてる相手だな。そんなことを考えて、だから何だと自分でつっこんだ。名前はただの友人だし、それ以上でも以下でもない。真面目ないい子で、そのうえ祖父母ウケがめっぽういいことから、ついつい構ってしまうが、だからといって特別な相手というわけでもない。
 必要以上にかまってしまうのは、名前には東京に黒尾以外の友人がいないと聞いたから。どこかでかつての幼馴染と重ね合わせている自分がいることにも、黒尾はちゃんと気付いている。
 特別というよりは、いっそ特殊。黒尾には特別親しくしている異性の友人はいなかったし、そもそも友人になった経緯も、名前はほかの友人とは違う。ときどき勝手が分からなくなるのは、そういう特殊さゆえだろう。昔の研磨と重なって、大切な祖父母が気に入っている女の子。それだけで、黒尾が大切に扱うのには十分すぎる条件を名前は持っている。
 ──そう、思っていたのだが。
 拗ねた顔で真面目なことを言ったり、酔ってくすくす笑っていたり。優しさや気遣いを受けることが不得手なのに、そのくせ自分こそ必要以上に黒尾を気遣っていたり。
 そういう名前のことを、黒尾はだんだんと本当に面白がり始めている。困ったことに、それが結構楽しくもなっている。
 今頃名前はいとこの矢巾と一緒にいるのだろう。名前は彼に黒尾の話をするのだろうか。するとしたら、どんなふうに。そんなことを思い、黒尾は大きく息をすいこむ。昼間に草刈りでもしたのか、濃い緑のにおいが胸いっぱいに広がった。夜の静かな暗さとはちぐはぐなにおいを嗅ぎながら、黒尾はゆっくりと家路についた。
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