068

 名前は黒尾に好意を持っていて、黒尾はあくまで選ぶ側だった。名前との関係性をどう転がすのも黒尾の気持ち次第。なおかつそこには、たとえ友達という関係を維持したままでも、きっと名前が自分から簡単には遠ざからないだろうという、青い自惚れもおおいにあったに違いない。
 どれだけ綺麗ごとで飾っても、黒尾の身の振りに、そうした身勝手さがまったく隠れていなかったとは言い難い。しかしその身勝手さは、ひるがえって名前にも当てはまる。
「……分かります。変な感じになりたくないのは、私もそうだったから」
 ぽつりと名前は呟いた。黒尾が身勝手だというのなら、名前も臆病で身勝手だ。気持ちを伝えることはおろか、好きになってもらおうという努力すら、名前はほとんどしてこなかった。すべて成り行きにまかせ、やった努力といえばせいぜいがバレンタインにチョコを作ったくらいだろうか。
 そんなことはきっと、恋する女子ならみんな普通にしていることだ。名前が黒尾に好きになってもらえたのは、だから運が良かったとしか言いようがない。
「私も、ずっと余計なことして今の関係を崩したくないって、そう思って」
 独り言のように紡がれた名前の言葉を、頷く黒尾が引き取った。
「で、まあちょうどその頃苗字さんもいろいろあっただろ? そういうのもあって、俺としても急ぎたくはないかなと思ってですね」
 含みのある物言いは、茂部のことを言っているのだとすぐに分かった。直接言葉にしなくても、黒尾が言外に匂わせるもので、おおよその察しはつく。
 ということは、その時点で黒尾は名前のことを好きだと腹をくくったのだろうか。しかしそれでは、赤葦の家で聞いた友達宣言から、ほとんど間を置いていない。
 名前から向けられる好意を知っていて、黒尾も同じく名前を好きで。好きの程度がどうこうという話はあっても、本来思い合っているふたりが恋人になることに、障壁になるものなど何もない。黒尾の性格や世慣れた雰囲気を見れば、名前と違って告白を無闇に躊躇い先延ばしにするタイプでもないだろう。
 そのとき、名前は気が付いた。
 そうだ、考えてみれば黒尾さんはいつでも、恋愛方向に舵を切ることができた。
 実際、名前も黒尾から、何度かそういう空気を感じたことがある。黒尾の意図が分からなかった名前は、そのたびぎこちなくなるのを避け、逃げていたけれど。
 それでも今日まで決定的に恋愛めいた話にならなかったのは、ひとえに黒尾が名前を傷つけないようにと待っていてくれたからだ。茂部とのことがあったから、黒尾は名前に対して細心の注意を払ってくれていた。
 それこそが、黒尾が名前の気持ちを知っていながら気付かないふりをしていた、唯一で最大の理由。そのことに、名前はようやく思い至った。
 同時に、胸の中にじわりとあたたかいものが広がった。誠実で、実直で、底抜けに優しい。黒尾さんを好きになってよかった――心の底から、名前はそう思う。
「お気遣いをいただき、ありがとうございました」
 小さく頭を下げて名前は礼を言った。顔を上げると、黒尾はやわらかく微笑んでいる。これでひとまず、最大の疑問は氷解したのだ。名前もつられて顔をほころばせた。
 しばし、いつもと同じ安穏とした空気がふたりの間を流れる。その穏やかさにそっと爪を立てるように、
「さて。苗字さんのことが好きだってのが本気だって分かってもらえたなら、次の話だな」
 ゆるんだ空気をほんのわずかに引き締めて、黒尾は話を先に進める。
「苗字さん」
 微笑みを顔に貼り付けたまま、けれど真面目な声色で、黒尾は名前を呼んだ。
「俺と付き合ってくれませんか」
「…………」
「俺の恋人になってくれませんか」
 黙りこくる名前に、黒尾は言葉を変えて迫る。提案のていはとっているものの、その表情は自信に満ちている。名前の気持ちを知っているのだから、それも当然といえば当然のことだった。
 名前としても、即答すべきところだろう。喉から手が出るほど欲していた黒尾の恋人という称号を、名前は今、黒尾から直々に目の前に差しだされているのだから。
 黒尾が期待に満ちた目で名前の返事を待っている。心を落ち着けるべく、名前は数度深呼吸を繰り返した。そして、
「ちょ、ちょっと考えさせてくれませんか……?」
「よかった、これで……えっ?」
「返事は保留で……」
「いや、待て待て待て待て……え!?」
「ちょっと、時間がほしい……」
 かっと目を見開く黒尾の前で、名前は両手で顔を覆った。顔中といわず、名前の全身が燃えるように熱くなっている。指先が小さく震え、足元がふわふわしていた。もしも椅子に腰かけていなかったら、腰を抜かしてしまっていたかもしれない。
 そんな興奮のただなかに身を置いて、名前は顔を覆った手の隙間から、呻き声を上げた。
「そりゃあ俺は、苗字さんが時間がほしいって言うんなら、それこそいつまででも待てるけど……、」
 黒尾が、やや戸惑う声で言う。
「もしかして苗字さん、まだ付き合うとか、そういうことに抵抗ある?」
「いや、それは全然ないです……」
「ないんかい。いや、なくていいけど」
「ないです。抵抗とか、そういうのは全然」
 呻くように黒尾に応じて、名前は深々と溜息を吐き出した。手のひらで覆った隙間に熱い吐息がこもる。その熱気に、名前はこれが夢でも妄想でもない、現実のことなのだと改めて思い知る。
 黒尾と付き合うのが嫌なはずがない。黒尾にならば触れられても嫌じゃない。黒尾になら、触れたいし、触れられたい。一緒にいたいと、心の底から望んでいる。本当ならば今すぐにでも黒尾の告白に頷きたいくらいだ。
「だけど、ただ、ちょっと……嬉しすぎて、どうしていいか分からないというか」
「嬉しいんだ」
「嬉しいですよ。嬉しすぎて、噛み締めるのに時間がかかりそうで……」
 今すぐに応えてしまったら、この幸福が不意に途切れてしまいそうな気がして。
 手の隙間からこぼすように、名前は懸命にそう伝えた。黒尾の気持ちを疑っているわけではないし、自分の気持ちも固まっている。それでも今は、もう少しだけこの幸福のたゆたっていたい。黒尾の告白に頷いたその先に、たとえもっと大きな幸福があったとしても。
 名前が両手で顔を覆っているその手の向こうから、黒尾の「そっか」と笑いを含む声が届く。
「それ、苗字さんが噛み締めてる間、俺も一緒にいてもいい?」
「黒尾さんさえ、よろしければ」
「こんな話してる間にそろそろ夜のメニュー始まりそうだしな。夕飯食べながら、苗字さんが嬉しさ噛み締め終わるの気長に待たせてもらいますよ」
 そう答えて、黒尾は「というかさ」と悪戯めいた声で付け足した。
「苗字さんのこんな可愛いところ、そりゃあ間近で見ておかない手はないだろ」

 ★

 ディナーまでしっかり食べ終えたふたりが、晴れて恋人同士となって店を出たのは、陽が沈んでしばらく経ってからのことだった。店を出るなり名前の手をしれっと握った黒尾は、もの言いたげな視線を送る名前を笑顔のみで封殺した。以前「黒尾さんになら触れられても嫌じゃない」と口を滑らせていたのは名前だったが、黒尾はそれを忘れていなかったのだった。

 黒尾は当然のように名前のマンションの方へと足を向ける。帰り道は幾度となく黒尾とともに歩いた道だが、今日はいつもより少しだけ歩調をゆるめ、時間をかけて帰路につく。
 絡めた指の、名前よりもずっと太くて骨ばった形を肌で感じながら、名前は黒尾を見上げた。
「黒尾さんはずっと、私が黒尾さんのことを好きだってこと、知ってて知らないふりをしていたんですよね」
 名前の声を拾うため、黒尾がかすかに身体を名前の方にかしがせる。「そうだな」と頷く声には隠しようのない幸福感が滲んでいたが、それでも名前の問いに何かただならぬものを感じたのか、黒尾の瞳は抜け目なく名前を観察していた。
「じゃあ前に黒尾さんが水族館に行こうとか花見に行こうとか、ああいうお誘いをしてくださったとき、黒尾さんとしては本当はデートみたいなつもりで誘っていたということですか?」
「お、なかなか嫌なところをついてくる質問」
 黒尾が苦笑して、名前の手をぎゅっと握りなおした。
「まあ、そうだな。俺も友達としてどうのこうのとか色々言った手前、あっさり手のひら返して実は苗字さんのことバリバリ意識してます、下心ありますって言うのもどうかなと思ってたってのもあるし……。けどそういうのも、遠出して雰囲気が変われば、なんとなく誤魔化せるかなと思ってたってのは、正直ある」
「正直あるんですね」
「そりゃそうだろ。こっちも色々悩んでたんだぞ。そうとも知らず、どっかの誰かは平気で俺んち上がりたいとか言うし」
「だって、あれは黒尾さんが友達ならって」
「はいはい、俺が悪かったです」
「言い方……」
「まあ、冗談だけども」
 名前の不満げな顔に微笑みを向け、黒尾は続けた。
「いろいろ悩んだりしたのは事実だけど、それは俺が最初に自分で下手を打った……というかいろいろ間違えたせいで自業自得なんでね。あとは苗字さんのこと傷つけないように気を付けていようかなって、そのことで考えることがあったりしたくらいのもんだよ」
「私は案外頑丈なので、ちょっとやそっとのことじゃ傷つきませんよ」
「数時間前に呻いていたのは誰だったか」
「それを持ち出すのは卑怯じゃないですか」
 今度は名前が黒尾の手を握りなおす。黒尾がそれに応えて、ぎゅっぎゅっと何度も名前の手を握ってはゆるめてを繰り返す。黒尾の大きくて力強い手は、きっとずいぶん手加減して名前の手を握っているのだろう。黒尾と名前の間で不格好に揺れる手を眺め、名前はそんなことを思った。
 恋人なのだと、ようやく実感がわいてくるようだった。
「黒尾さん」
 思い立って名前を呼べば、黒尾は目を細めて名前を見下ろす。
「なんだい」
「好きって言ってください」
「好きだよ」
 一寸の間も置かず、すぐに返事が降ってきた。
「……躊躇ためらいが一切ないですね」
「まあ、躊躇う理由がないからな。言わなくてこじれるくらいなら、何回でも言う」
 それは長く続いた友達期間のことを言っているのだろうか。たしかに名前か黒尾のどちらかがさっさと思いを口にしていれば、もっとすんなり付き合うことになったのかもしれない。
 けれど名前は、この回り道が悪かったとは思わない。苦しい思いもしたにはしたが、その分気付けたことも、得られたものもたくさんある。たとえばそう、手をつなぐ、黒尾の手をぎゅっと握り返すというそれだけの行為が、名前にとってどれだけの思いを伴うかを、黒尾に知ってもらえたことのように。
「黒尾さん」
「はい?」
「私は黒尾さんみたいに恋愛経験があるわけじゃないし、もしかすると黒尾さんが思ってるような彼女にはなれないかもしれないです」
「だからそういう……、いや、まあ話を聞こう」
 黒尾がふうと溜息に似た息を吐く。ありがとうございます、と名前は答えて、話を続けた。
「もしかしたら恋人として適切なふるまいができないかもしれないし、そのことで黒尾さんのことを傷つけたりもするかもしれません。でも、そしたらその時はちゃんと、間違ってることや正しいこと、傷つけたことを教えてくださいね」
 つないだ手の指先を、黒尾の手にそっとすべらせて、名前は言う。
「私も、黒尾さんの性格が悪かったり、言い方が悪かったり、嫌なことがあったらちゃんと言います」
「すでにだいぶ発言に偏りがない?」
「傷つけないようにと思ってくれるのは嬉しいけど、傷つけられたらちゃんと傷ついたと言うので大丈夫です」
「そうだな。苗字さんはそういう子だった」
 黒尾に嫌がる素振りや雰囲気はない。そのことに、名前はほっと胸を撫でおろす。
 黒尾の期待に応えられないかもしれない。優しい黒尾に、言えない言葉を呑み込ませてしまうかもしれない。そのことを考えるだけで、本当は少し怖くなる。けれど。
「黒尾さん」
「はいはい、もうこれ以上何言われても動じないぞ」
「私も、黒尾さんのことが好きです」
 にっと笑って告白する。黒尾は束の間、呆気に取られてぽかんと口を開いていた。
 名前を見下ろしたままフリーズしている黒尾に、名前は照れ隠しにいっそう笑みを深めた。
「ま、まだ私からは言ってなかったなと思って……。というか私の方が先に好きになったんだから、私から先に言うべきでしたよね? 長らくお待たせしてしまい、すみませんでした」
 早口に言い切って、名前はダメ押しに黒尾の手をぎゅっと握る。その瞬間、強い力で名前は腰を引き寄せられた。気が付けば、名前は黒尾の腕の中におさまり、黒尾の身体に押し付けられていた。
「く、くろおさ、」
 顔をそらして呼吸を確保して、名前は慌てて黒尾の名を呼ぶ。辺りに人影はないが、さすがに往来でこれは恥ずかしい。そもそも不意打ちすぎて、心の準備が何もできていなかった。
 しかし名前の呼びかけに、黒尾はいっそう腕に力をこめる。名前の髪に顔をうずめるようにした黒尾は、熱い吐息とともに「ハグは嫌?」と小さく吐き出した。
「今もう抱きしめたさがすごい。抱きしめたさが、今、もうすごい」
「もう抱きしめてますよね?」
「いや、あんなの抱きしめちゃうだろ」
「せめて家に帰るまで待ってください」
 強く抱きしめられ、つま先立ちになった名前が断固として言う。
「さすがに正論だな」
 黒尾はそう笑ったが、それでも名前を抱きしめた黒尾の腕は、それからしばらくほどかれることはなかった。

 fin.(20200119)
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