067

 ひとまず黒尾と名前は場所をカフェに移すことに決め、ひと気の少ない細い路地を出た。太陽は徐々に位置を低くしつつあり、初夏の熱気もしだいに薄れつつある。それでも名前の顔はずっと、かっかと火照ったままだった。一度は血の気が引いた顔は、今や真っ赤に染まっている。
 黒尾は腰を落ち着けるまで核心に迫る話をする気はないのか、時折思い付いたことをぽつりぽつりと口にする以外は、言葉少なに歩いている。おかげで名前は移動時間を利用して、ある程度心を落ち着け、頭を整理することに専念できた。
 好きだ、と。
 先ほど黒尾はたしかに、名前にそう言った。もはやこの状況で「友達として」などとは言い出さないだろう。そんな手間のかかる嫌がらせをするほど黒尾も暇ではないだろうし、黒尾がその手の冗談を言うとも思えない。まさか天然でやらかしているということもないだろう。
 ということは黒尾さんは、本当に私のことが好きってことだよね……。
 何度も何度も他の解釈、他の可能性を考えてみたが、名前は結局、そう結論づけるしかなかった。どう考えても信じ切れない、名前にとって都合の良すぎる展開だが、そもそも、黒尾本人の「好きだ」という言葉を無視することはできない。
 考えると、また顔に熱が集まってくる。ごくりと名前の喉が鳴った。
 現金なもので、あれほど自己嫌悪で呻いていたはずの心はすでに、すっかり別の感情に塗り替えられてしまっている。浅はかで愚かだと自嘲していた期待がにわかにむくむくと存在感を増し、いまや名前の胸いっぱいに広がり切ろうとしている。
 ――それでも。
 それでも、まだ手放しに喜べるわけではなかった。完全に気持ちを切り替え無邪気に喜べるほど、名前が黒尾に片思いしていた時間は短くない。一年近く思いを胸に封じ込め、何事もなかったかのような顔で過ごしていた。そのなかで染みついた「友達としか思われていない」という自己暗示は、それなりに深くまで根を張っている。
 まずは話をしなければ。名前は口を引き結んだ。
 話をして、黒尾の言葉を受け止め、名前の思いを聞いてもらわなければ。手放しに喜ぶのも、あるいは今度こそ絶望の中に叩き落とされるのも、すべては話が終わってからだ。
 名前は緊張で強張った顔をして、ぎゅっと手のひらを握りしめ、黒尾の隣を歩き続ける。余計なことを考えてしまわぬよう、まるで修行僧のような真剣さで前方を睨み続けている。
 そんな名前を黒尾がそっと見下ろし、苦笑いしていたことに、当の名前はまるで気付きもしなかった。

 ★

 はじめて入る店内は、流行の雰囲気をふんだんに取り入れた洒落た空間だった。どう見ても『猫目屋』の競合にはならなさそうだという黒尾の言が的中していたことを知り、名前はほっとするやら残念に思うやら複雑な気分になる。
 店内はほどよく空いており、黒尾と名前は店の奥のソファー席に案内された。テーブルの横に大きな窓がしつらえられており、そこから程よく光が差しこんでいる。正方形の二人用カフェテーブルが、陽に照らされて淡く輝いていた。
 傍から見れば、デートに見えるんだろうか。そんなことを考えて、名前はいつになく黒尾を意識してしまう。
 だが、そんなことを気にしていられたのは、テーブルに案内されコーヒーが運ばれてくるまでのことだった。コーヒーが供され人心地つくと、黒尾はその持て余すほどに長い足をテーブルの下でゆったりと組み、指をカップの持ち手にかけたまま、悠然と名前に向き合った。
「さて、と。何から話そうかな。苗字さんに聞きたいことのリクエストがあるなら、今なら聞きますよ」
 店にたどり着くまでの間に名前が感情と思考を整理したのと同じく、黒尾もまた移動の時間である程度余裕を取り戻したのかもしれない。話しぶりは滑らかで淀みない。
 もっとも名前に比べれば、黒尾の動揺や狼狽など端から微々たるものだっただろう。黒尾は名前の気持ちもとうに知っている。なおかつ自分の言いたいことも言い終えているのだから、黒尾が余裕なのはしごく当然のことかもしれない。
 コーヒーで口を湿らせ、名前は心を落ち着かせる。背すじを伸ばして正面から黒尾をとらえると、名前はこくりと喉を上下させてから、ゆっくりと切り出した。
「それではまず、確認なんですけれども……」
 知らず上目遣いになって、名前は黒尾を見る。
「黒尾さんは、私のことが好きなんですか」
「好きですね」
「ぐっ」
 一寸の照れも躊躇もなく言い切られる。名前は早速轟沈した。
 出先なのでテーブルに突っ伏すこともできず、名前はぎゅっと目と口を閉じて顔を顰める。梅干しのような皺くちゃの顔だ。体内で勢いを増す感情の奔流をやり過ごすように、名前はひたすら心を無にするよう努める。
 しばらくして心の中で嵐が通り過ぎるのを待ってから、名前はゆっくりと目蓋まぶたを開いた。するとテーブルの向こうの黒尾が、面白がるような顔つきで名前のことを見つめている。ばつが悪い名前と目が合うと、「なんでそこで自爆すんの」と笑った。
「苗字さんだって今の質問した時点で、俺の答えなんて分かってたでしょうが。ちゃんと心の準備しておいてもらわないと」
「だって、まさかそんなあっさり言われると思わないじゃないですか……」
「逆にここで渋ることあるか? いくら何でもそこまでへたれではない」
 もごもごと言い訳する名前に、黒尾は呆れて笑う。それでもまだ疑い深げな目をする名前に、黒尾は淡い笑みを貼り付けて息を吐き出した。
「というかさ、この期に及んでまだ、そんなに疑うかね」
「疑っている、というわけではないですけど……」
「俺は苗字さんのことが好きですよ」
「……」
「その目、その顔な。一体どうしたら信じてもらえんのかね」
 逆に問いかけられてしまう。どうやら自分でも気付かぬうちに、険しい顔をしていたらしい。名前は視線を伏せた。
 名前だって黒尾の言うことを信用していないわけではない。この手のことで黒尾が嘘を吐かないことは知っているし、そうでなくても黒尾は誠実だ。名前を困らせることは本来しない人だと、名前もちゃんと分かっている。
 今だって、そうだ。黒尾は名前を困らせるために、この場に名前を引っ張り出したわけではない。きっと名前が不審に思っていること、疑っていること、不安に思っていることのすべてを解決し、名前を安心させるために、こうして黒尾は名前と向き合っているはずだ。それくらいは名前にも分かる。
 ほかでもない、自分が恋した相手のことだから。
 分かりたくないと思っても、分かってしまう。
 名前は瞳を伏せたまま、黒尾に意識を向けた。コーヒーのカップに指を掛けかけて、けれどその手を引っ込めた。今コーヒーを飲んでしまったら、何か大切な言葉までも、コーヒーと一緒に飲み込んでしまうような気がして怖かった。
 ごくりと喉を上下させる。乾いた口で、名前は「私は」と絞り出すように発した。
「私だって、……その、黒尾さんが私のこと、特別に思ってくれているってこと、……少しくらいは私だって察してましたけど」
「うんうん」
「でも黒尾さんは私のこと、友達として特別だって言ってたから」
「それは俺が赤葦に言ったやつだな」
 名前が言うと、黒尾が即座に応じる。その応答に、名前はそれが本来自分の聞くべきではない、黒尾と赤葦の個人的な遣り取りだったことを思い出した。
「……すみません。あの時私、実は盗み聞きしてました」
「いいよ。俺も盗み聞きされてるの知ってて、聞こえるように言ったから」
「えっ、それは性格が……」
「悪いって言いたいんだろうけど、この件に関してはすでに方々からつつかれた後だから、苗字さんまでつつくのやめてくれませんか。これでも反省してるんで」
「よく分かりませんが……そうおっしゃるのであれば、やめます」
「助かるよ。自分のバカさをあんまりつつきまわされると、さすがに俺でも傷つくからな」
 黒尾の言い分は名前にはよく分からない。それでも黒尾の表情が苦々しげなので、名前は素直に黒尾のげんに従った。名前にとっても、これはあまり積極的に取り上げたい話題ではない。何せ、自分が告白するまでもなくフラれたときの記憶だ。
 そんなことを思っていたのが、うっかり顔に出ていたのだろう。
「ああ、でも――」
 肩を落とす名前に、黒尾が気遣うような声を掛けた。
「これに関しては、俺より苗字さんのが傷ついたか。ごめん」
「……いえ、そんなに傷ついたというわけでは」
「あ、そう?」
「はい、たしかにフラれたな、とは思いましたけど、傷ついたというわけではなかったので大丈夫です。こちらこそ、何だか気を遣わせてしまってすみません……」
「謝んないで。悲しくなる」
 黒尾の物言いに名前はふっと笑った。張りつめていたものが束の間ゆるんで、少しだけ息がしやすくなる。
 黒尾にはああ言ったものの、黒尾の赤葦への友達宣言に、もちろんまったく傷ついていないわけではない。だが、今更それをどうこう言うつもりはなかった。今こうして、黒尾から好きだと言われているということだけで、名前にとっては十分なことだ。過去のことをどうこう言っているだけの余裕が、そもそも今の名前にはない。
 とはいえ、一体なぜ黒尾があんなことを言ったのかには、多少興味があった。それこそついさっきまで、名前が黒尾から友達として扱われていたのも事実だ。
 友達宣言をした時点では、あの言葉に嘘はなかったのだろう。だがそれならばいつ、名前への黒尾の思いは変化したのか。
 名前の疑問を嗅ぎ取ったのだろう。黒尾はわずかに口の端を上げ微笑んだ。
「けどまあ実際、わざわざ言葉にしておかないとぐらつく程度には、あの時点で俺も結構苗字さんのことが気になってたわけで。そういう意味では赤葦にああやって友達だって宣言してたときが、一番自分で自分の気持ちをどうにもできなくなってたかな」
「どうにも……?」
「そう。苗字さんのこと友達だと思いたいし、友達でいるのが楽しいからこのまま友達でいたいし、でも苗字さんが俺のことを好きっぽいし、さてどうしたものかなっていうところ。もしここで俺が苗字さんのこと好きだって認めたら、まあなんというか、多分俺たち恋人になるんだろうなーという」
「恋人になるのはだめなんですか……!?」
「だめじゃないけど、少なくともあの時点ではそのまましれっと恋人になるって展開に、色々と思うところはあった」
 黒尾はそう言って、顎を引いて名前を見る。
「なんというか、身もふたもない言い方にはなるけど、好きの程度が今ほどじゃなかったんだよ。それで中途半端なことになったり、うっかりやっぱり付き合うのはやめようってなるのは、お互いに嫌じゃない?」
「それは、そうですけど……」
「苗字さんのこと妹みたいな後輩みたいな、そういうふうに思って可愛がっていたい気持ちもあってですね。恋愛ではなくても、それはそれで俺としては大事にしてるってことで。だから余計なことして拗らせたくないっていうのもあり……。ま、今にして思えば、それも我ながらなかなか傲慢な考えなんだけど」
 そう言って黒尾は、どこか気まずげに語尾を滲ませた。
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