066

 黒尾の顔は真剣で、笑顔も、狼狽すら何処にも滲んでいない。ただ真剣なだけの表情は研ぎ澄まされたように厳しくて、名前の考え付いた言い訳など、簡単にね退けてしまいそうな強さを湛えている。
 無意識に目をそらそうとした瞬間、苗字さん、と名前を呼ばれた。「黒尾さんの目を見ていると、泣いてしまいそうな気分になる」――そう言い返したいのをぐっと堪えて、名前は手のひらをぎゅっと握りこんだ。
 名前ははじめて、黒尾のことを心底身勝手だと感じた。勝手に追いかけてきて、ひとりにしてほしいのに、こうして追い込むようなことをする。もう、放っておいてくれたらいいのに。好きじゃないのなら。
「それは……だから、黒尾さんが恥ずかしい話を蒸し返すから」
「違うように見えるけどな」
 間髪を容れずに名前の言葉を否定して、黒尾は言葉を失う名前の顔を覗き込む。
 目を逸らしてしまいたいのに、そんな小さな挙動のひとつすら、許されていない気がした。目を合わせたまま、黒尾がそっと息を吸い込んで、言った。
「苗字さんの言葉が嘘か本当か、俺、わりと分かるんだよな」
「……っ」
 切り離したはずの胸の端の痛みが、黒尾の言葉にまた疼く。じくじくと膿んだように湿った痛みが、水に落ちた墨のように広がっていく。
 この痛みともやつきを、名前はよく知っていた。黒尾の後輩の女子に嫉妬したときと同じ、気分が悪くなるような痛み。自己嫌悪と行き場のない衝動で、どんどん身体の内側が塗りつぶされていくような痛み。
「どうして」
 堪えきれない感情が、どろどろになって口からこぼれ出たようだった。黒尾は名前の言葉の続きを待つとでもいうように、口を引き結んで黙っている。ひどいと、そう思った。ひどい人だと。
「どうして黒尾さん、そんなこと言うんですか」
 喉から漏れた声は掠れていた。涙声ではないだけましだった。
「どうして? 嘘だって分かってても、黒尾さん、いつもなら気付かないふりをしてくれるじゃないですか。私がその話したくないの、黒尾さんなら分かってくれますよね」
「うん。分かる」
「だったら、なんでそうやって蒸し返すんですか。どうして、放っておいてくれないの。なんで気付かないふりしてくれないんですか」
 そんなことをされたら、なかったことにはできないのに。
 ひとりで恥じて、ひとりで消してしまうつもりだったのに。
 黒尾さんにだけは、知られたくなかったのに。
「どうして――どうして、追いかけてきたりするんですか」

 そんなことをされたら、期待してしまうのに。
 何度でも浅はかで、馬鹿で、自惚れた勘違いをしてしまうのに。

 ふいに何かが地面を踏みしめる音がした。視線を黒尾に向けたままの名前には、それが何の音かは分からない。けれど多分、黒尾の靴底が地面を踏む音だった。その場で黒尾が身じろぎする、ささやかな音だった。
 束の間の沈黙が、耳に痛い。そして、
「俺が、苗字さんのことを好きだから」
 次いで聞こえたその声は、ひどく乾いた声だった。
「俺が苗字さんのことを好きだから、追いかけずにはいられなかった」
 何を言われているのか分からずに、名前はただ茫然と黒尾を見つめ返していた。
 黒尾さんが、私のことを好き……?
 それは名前が、そうであればいいのにと、何度となく願ったことだった。その願い事を、目の前の黒尾が実際に口にしている。けれどそれは、ただの願いでしかなかったはずだ。黒尾本人の口から一度ならず友達宣言をされているし、先ほどのことだって直接言葉にはされていなくても、手酷くふられたも同然だった。
 それがどうして、そんなことになるのか。好きだなんて言われたところで、名前の耳にはまったく現実味を伴わない戯言たわごとのようにしか聞こえない。
 ぽかんとする名前の心情に気付いているのかいないのか、黒尾は淡々と続けた。
「そっとしておいて、次の時に仕切り直しした方がいいならそうすべきかなとも思ったけど。でも放っておいたら、苗字さんは全部ごそっとなかったことにして、次に会うときはいつも通りの顔して、いつも通りに話すだろうなと思った。俺は、そんなのは嫌だし、苗字さんにそんなことさせたくもない」
 返事ができない。呼吸すら、うまくできている自信がない。
 嬉しさを感じる回路はまるきり機能していなかった。くらくらして、気分が悪かった。都合が良すぎて、先ほどまでの現実と落差があり過ぎて、なにか悪い夢を見ているような気分ですらあった。

 だって、これではまるで。
 まるで、告白でもされているみたいではないか。

「――といっても、だいたい全部俺が自分で蒔いた種だってことは分かってるつもりです。そのうえ俺の失言のせいで今こんなことになってんだよな。分かってる。ので、非があるのは俺の方で、謝るべきなのも俺だと思う。けど、だったら挽回すんのも言い訳すんのも、全部俺がすべきことだとも思うわけでしてね」
 黒尾の口調がいくらかおどけてきたので、ようやく名前も我に返った。からからに乾いた口で、どうにかこの場に適した言葉を紡ごうとする。
「く、黒尾さん、さっきから意味が」
「まあまあ。それにさ、自分のせいで好きな子泣かせたかもって思ったら、そりゃあ追いかけるに決まってるでしょうが」
「すきなこ……」
 意味を伴わず、音だけ繰り返す名前に、黒尾が眉を下げて笑った。
「そう、好きな子。というか苗字さん、さっきから俺が言ってる『好き』の相手が自分のことだって、ちゃんと分かってる?」
「わか、分かんないです」
「分かんないかー」
 正直に答えた名前に、黒尾がさらに眉を下げる。
「まあ、急に分かってって言っても無理な話か。となると、分かってもらえるように、俺が頑張るしかないな」
 ひっ、と引き攣れた声が名前の喉から洩れ、思わず半歩後ずさった。
 事態はまったく理解できないが、目の前の黒尾が名前をこの場所にひとりにしてくれそうにないことだけは、ろくに働いていない名前の頭でもどうにか理解できた。
 ふと見ると黒尾の背後から、沈みかけた太陽が眩く名前に差している。あまりにも暗示めいていて、名前はまた一歩後ずさった。
 そんな名前に一切構わず、腕を組んだ黒尾は首を傾げて唸る。すでに一番言いたいことを言ってしまったからか、その表情はやけに晴れがましい。告白を受けた側の名前が真っ青に蒼褪めているのとは対照的だった。
「んー、とは言ったものの……そうだな。こういうとき、何から頑張ればいいかね。苗字さん、これが聞きたいとかそういうのないの?」
 唐突に話題をふられ、名前はびくりと飛び上がった。これ以上惨めな気分にはならなさそうな気はするが、別の意味で心をもみくちゃにされそうな気配がひしひしと感じられる。
 大体、今は何の時間なのだろう。好きだと言われ、意味が分からないと返事をして、そして。いや、そもそも好きだと言われたことをまだ完全には信用していないのだ。それなのに、黒尾はどうしてこうもはきはきしているのか。
「そんなことを、急に言われても」
 ようやくそれだけ返事をする。血の気の引いた顔で名前は黒尾を窺うが、黒尾はつかみどころのない調子でふむふむ頷くばかりだ。
「そうだよなぁ。というか、ここで話すのもアレだし、いったん場所を改めないかい。そのへんどっか……あ、さっき話してた駅の反対側のカフェ行くか」
「こ、このテンションで……」
「夜の時間には早いけど、この時間もやってるだろ」
「やってるとは思いますけど」
 何故、今、黒尾さんと、カフェへ。
 たしかに先にカフェに行こうと誘ったのは名前の方だったのだが、それは何も、こんなシチュエーションで、こんなテンションで行きたかったわけではなかった。せめてこの件にもう少し片が付いてからといおうか、事情が整理できてから、それこそ黒尾の言うとおり仕切りなおして出掛けたかった。こんな取っ散らかった頭と心では、せっかくはじめて行く店なのに、何ひとつ満喫できる気がしない。
 今は無理です、と名前は首を横に振ろうとする。だがそれより先に、黒尾が名前の顔を覗き込んだ。どきんと名前の胸がはねる。こんな時でも、恋心は正直だ。その仕草はずるい、と高鳴る胸のなかで抗議するが、当然それが黒尾に伝わるはずもない。
 挙句の果てには、
「それとも苗字さんは、俺とはもう行きたくない?」
 そんなふうに問いかけられ、名前はがくりと脱力した。そんなの、ずるい。
「……黒尾さんは意地が悪いんですよ」
 名前が自分に好意を持っていると知っていて、いちいち思わせぶりな態度をとる。これまでならば名前の自意識過剰であり、黒尾に他意はないと思い込めたところだが、今この状況でそんな思い込みは通用しない。
 どう考えても、黒尾はわざとやっている。名前にしてみればたまったものではない。
 抗議の意思を込めて、名前は黒尾にむっつりとした視線を向ける。しかし睨まれた黒尾は平然とした顔で、名前の抗議を「そうか?」と軽く受け流した。
「意地が悪いって言われても、俺は結構苗字さんには優しくしてきてるだろ」
「そういうことではなく、」
「そういうことじゃない? だって俺、好きな子のことはめちゃくちゃ甘やかすタイプだぞ」
「だっ」
 思わず膝の力が抜けかけて、慌てて名前はその場で体勢を整えた。危なく腰を抜かすところだ。不意打ちもいいところだ。照れも衒いもない黒尾の物言いは、あまりにも心臓に悪すぎる。
 名前の醜態を見下ろして、黒尾は満足そうに微笑む。
「で、行く? やめとく?」
 いよいよ完膚なきまでに完封され、名前にはもはや打つ手など残されていなかった。
「……分かりました、行きます」
 苦々しげに返事をすれば、
「だよな。そう言ってくれると思ってた」
 黒尾が機嫌よく答えて、にやりと笑んだ。
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