ちょうど辻に差し掛かったところで足を止め、名前は黒尾を見上げる。うすうす気が付いていたが、黒尾は名前を家まで送っていくつもりだったらしい。この辻で黒尾とは帰り道が分かれるはずだが、黒尾は名前の家に続く道の方へと爪先を向けていた。
細く長く、そっと名前は息を吐く。名前が足を止めたのに気付いた黒尾が、名前に視線を向けるまでのほんの刹那に、名前は心の潰れた部分を切り離した。
「じゃあまた今度、一緒に行きましょうね」
話をそう締めくくって、名前は黒尾に手を振る支度を心で決める。黒尾がそれに気付いたのか、わずかに表情を動かした。
「ん、分かった。というかさ、苗字さん、」
「あ、私ちょっと『猫目屋』に寄っていくので。黒尾さんとはここまでですね。じゃあまた、連絡しますね」
黒尾に二の句を継がせぬように早口で捲し立て、名前は半ば強引に会話を終わらせた。わざと黒尾とはここで別れるような物言いをして、笑顔で手を振りその場を立ち去る。さすがにいくら何でも強引だっただろうかと思わないでもなかったが、今この場で黒尾と別れることができるのならば、多少強引だと思われても構いはしなかった。
今は一秒でも早く、一人きりになりたかった。
振り返って黒尾が立ち去ったことを確認することもなく、名前は無我夢中で早足に歩き続けた。
「…………」
いつしか『猫目屋』に至る横道も通り過ぎ、自分がどこを歩いているのかも覚束なくなってくる。
そもそも黒尾とたまたま顔を合わせてからは、これという目的もなく黒尾についてきていただけなのだ。当て所もなく、だからといって自宅に帰るような気にもなれず、名前はひとり黙々と歩くしかない。黒尾に告げた『猫目屋』に行くなんて台詞も、当然その場しのぎの方便だった。
歩きながら、取り留めもなく思考が巡る。黒尾の前では取り繕うのに精いっぱいだったから、不要な感情や思考には見て見ぬふりをしていた。
ひとりになった今は、何を思おうが考えようが、名前の勝手だ。蓋をしていた思考がずるずると流れ出し、溢れるままに膨らんでは名前の内側を圧迫していく。
分かっていた。何もかも分かっていたことだった。
どれだけ黒尾にとっての特別になったところで、それはあくまで友達という枠の中での特別。その外側に燦然と輝く恋人という称号には、どれだけ枠の中で頑張ろうともけして手が届くことはない。
そんなことは分かっているはずだった。分かっていて、それでもいいと名前は思っていたのだ。
恋人と友人の間に優劣も貴賤も存在しない。まして今の黒尾には恋人と呼べる相手はいないのだ。それならば特別な友人は、とりもなおさず黒尾にとってかなり重要度の高い位置付けになる。それならば、それでいいじゃないか。それで満足するべきではないか。そう思っていたはずだった。何を高望みすることがあるのだろう。いや、優劣も貴賤もないのなら、高望みですらないというのに。これ以上、何を求める必要があるのだろう。
それなのに。
それなのに、心の何処かで思っていた。
もしかしたら、黒尾にとっての自分が、友達ではない、別の『特別』になれるのではないかと。
告白していないのだから返事など貰うはずがないし、黒尾の本心がどこにあるかは分からない。
けれど、もしも告白さえしたのなら――そうすれば案外黒尾は、色よい返事を返してくれるのではないか。
そんな期待が、本当はずっと心の奥の隅の隅で、けして首をもたげることなく蹲り続けていた。自分でも気付いていない、気付かないようにしていた期待が、本当はたしかにあった。
浅はかだった。
馬鹿だった。
とんだ自惚れ、勘違いだった。
名前の気持ちを知っていながら、黒尾が気付かないふりをしていたというのならば、要するにそれは、そういうことでしかない。
黒尾には、名前に対して一切のその気がない。
名前を枠の外に出そうという気はまったくない。
だから、気付かぬふりをしていたのだ。
それを、名前は――
「うっ」
急に気持ちが悪くなって、思わずその場にしゃがみこんだ。さいわい通りに人影はない。まだ太陽は傾き始めたばかりだが、もともと昼間の人通りが少ない道だった。
よろめき身体を傾がせながら、すぐそばに口を開けていた横道に入る。古いアパートの影に入ると、名前はそこでふたたびしゃがみこんだ。膝に額をぴたりとつけ、背中を丸めてひとり呻く。
恥ずかしい、恥ずかしい、恥ずかしい。
穴があったら入りたい。今すぐ何処かに消えてしまいたい。
名前を襲う気持ち悪さの原因は、どうしようもなく沸き上がる羞恥心だった。
黒尾に自分の好意を知られていると知ったあの時、平静を装うことしかできなかった自分が恥ずかしかった。この期に及んで真正面から好意を伝えられない、場当たり的な自分のずるさが恥ずかしかった。
照れや恥じらいなどという可愛らしいものではない。告白ひとつ、まともにできない自分が恥ずかしかった。こんなことならば高校時代、気のない名前に闇雲にでも告白してくれた三日だけ付き合った恋人の方が、よほど勇気があって潔い。
なんだかんだと言い訳をして、気持ちを伝えない理由ばかりをこねくり回して。気持ちを知られてしまえば関係が壊れてしまうからと、それらしい理屈をでっちあげて。
けれど虚飾をすべて剥がしてしまえば、実態はどうしようもなく無様なものだった。
気持ちを知られていてもなお言葉にできないのは、ひとえに名前が見栄っ張りで臆病で、どうしようもなく情けない人間だからに他ならない。どれだけ御託を並べても、蓋を開けてみればふられるのが怖い、身勝手な想像の余地を残しておきたいという、ただそれだけだ。
「うっ、う、……うぅー……」
喉から呻き声が漏れた。その呻き声を身の内に閉じ込めるように、ぎゅっと固く膝を抱く。ひやりと冷たい地面の感覚が靴の裏に感じられ、一生こうしていたいような気分になってくる。
自分がこんなにもみっともない人間なのだと、できれば死ぬまで知りたくなかった。大学時代に友達がいなかったことも名前にとっては黒歴史だが、それでも大学時代の記憶は同時に、ひとりでも平気だった、自分の力だけで四年間を乗り切れたのだという自負にも繋がっている。そもそも関係性が出来上がる前のことだったから、それほどダメージにもならなかった。
けれど今感じている恥ずかしさは、何の糧にもなりはしない。ただ自分のことが嫌になる。自分のことが嫌で嫌で、どうしようもなくたまらなく、惨めに思えてくるだけだった。
次に黒尾さんに会った時、どんな顔をすればいいのだろう。
膝を抱えたまま、呻き声をあげたままで名前は呆然とした。もちろん、今までと変わりなく過ごさなければいけないことは分かっているし、そうすべきだとも思っている。しかし現実問題、そんなことが可能なのだろうか。名前の気持ちを見て見ぬふりしていた黒尾と違い、名前はそれほど器用なたちではない。
「うぅー……」
このまま黒尾と疎遠になるのは本意ではない。できることなら、ずっと黒尾のそばにいたい。
だがだからといって、何も変わらずにいられる自信はない。それ以上に見て見ぬふりをされ続けているということを知ったうえでなお、黒尾と一緒にいることに幸福を感じられるとも思えない。
名前が気まずさを感じれば、きっと黒尾はそのことにすぐさま気付くだろう。そうすればいずれ、黒尾の方から名前と距離をとるのかもしれない。黒尾のことを好きな名前と違って、黒尾には名前のそばにいたいと思えるだけの理由は、きっとないのだから。
「……なんでこんなことになっちゃったのかな」
ぽつりと呟いた声は胸の中の澱を含んだように陰鬱だった。誰に届くこともなく、地面に落ちて吸い込まれる。
ただ好きでいられるだけでいいと、本心からそう思っていたはずだった。それなのに、どうしてこうなってしまったのだろう。どこで何を間違えてしまったのだろう。
自分で呟いた言葉と思考に気力を削がれ、立ち上がるだけの気も萎えた。だんだんと夕暮れに近づきつつあったが、細い路地の日陰で蹲っている名前には、空の色に関心を向けるほどの余裕もない。立ち上がる気も失せ、しばらくそこで時折呻きながら、名前はじっと蹲っていた。そうしていても何も変わらないことは分かっていたが、動いたところで今より良くなるとも思えない。
いっそこのまま、何もかもなかったことになればいいのにな。
そんな無謀で、益体のない思考を遊ばせ溜息をついた、その時。
「苗字さん」
建物の隙間の薄暗がりのなか。頭上から、名前の名を呼ぶ声がした。
その声は今、名前がもっとも聞きたくない相手の声。
そして名前が今まで聞いた彼の声の中で、一番優しい声だった。
「く――」
黒尾さん、と返事をしかけて、声が喉に詰まってしまった。口だけ開いて無言で顔を上げると、黒尾が名前のすぐそばに立ち、じっと気遣うような視線を地面に注いでいる。その瞳が地面に向けられたものではなく、正しくは地面に近い場所で蹲っている自分に向けられたものだと名前が理解するのに、束の間を要した。
絶句する名前を見下ろす黒尾は、逡巡ののち、名前と同じくその場にしゃがみこんだ。
「ここ、俺もいい?」
どういうつもりなのか、そんな許可を求めてくる。何も言えない名前は、ただ黙って頷いた。
黒尾の額にはうっすらと汗がにじんでいた。もとの体格差が大きいせいで、しゃがんでいてもまだ黒尾の視点の方が名前よりも高い位置にある。
それでも、先ほどよりはぐっと距離は縮まった。少なくとも、黒尾が名前の顔を至近距離で覗き込むことができる程度には。
「泣いてんのかと思ったから……。泣いてなくて、よかった」
言葉を失くす名前に、黒尾はぼそりと呟いた。その台詞が心底安堵しているように聞こえ、名前は慌てて笑顔をつくる。
「なっ、何でですか。なんでこんなところで、ひとりで泣くんですか」
「俺が勘違いさせるようなこと言ったからかな」
「勘違いってなんですか。さっきのことは、もうお礼言って、それでおしまいにしたじゃないですか。もう、恥ずかしくなるんで蒸し返さないでくださいよ」
こんなところで一人でしゃがんで呻いているのを見られた時点で、名前の言葉には何の説得力もない。子供でももう少しまともな返事をするだろう。咄嗟のことに頭が正常に働いてくれなかった。
もの言いたげな黒尾の視線に居心地が悪くなり、名前は腰を上げた。黒尾も一緒に立ち上がる。近い距離で顔を覗き込まれるよりは、まだ立っている方がましだった。
「黒尾さん、なんでこんなところに?」
しゃがんでいたときに地面についてしまった服の裾を払いながら、名前は黒尾を見ることなく問う。明るい声を出そうと努めるが、自分ではもうそれがうまくいっているのかもよく分からない。
「俺は苗字さんを探して……。苗字さんこそ」
「私は……私はちょっと靴擦れでもしたのか、足が痛くなって、それで休憩していただけです。全然、本当に全然平気で、もう今まさに帰ろうと思っていたところで」
今度は多少ましな言い訳だと思えた。ほっと安堵し、名前は視線を黒尾に戻す。
そして戻した瞬間、顔を上げたことを後悔した。
「じゃあなんで、そんな強張った顔してんの」
抑制のきいた黒尾の声に、びくりと自分の肩がはねたのが分かった。