064

 誰に対しても、分け隔てなく。これといって瑕疵かしのない、ともすれば理想的な対人姿勢ですらある。だが名前にとってそうした言葉や態度を向けられるということは、自分の気持ちをばさりと薙ぎ払われているのと何ら変わりないことだった。
 薙ぎ払われ、なかったことにされる。見知らぬ誰かと同じようにならされてしまう。突出した部分がないというのは、避けられたりするよりいっそ手も足も出なくて、途方に暮れる。
 誰かと比べて雑に扱っているわけではないが、だからといって誰かと比べて大切にしているというわけでもない。黒尾が言っているのは、要するにそういうことだ。もちろん名前は黒尾にとってかなり仲のいい友人の部類ではあるのだろうし、そこを疑っているわけではない。
 けれど、結局はそこ止まり。そこが終着だ。名前は黒尾にとって、きっと何人もいるのだろう特別な友人のうちのひとり。勿論それでいいと甘んじてきたのは外ならぬ自分なのだから、仕方がないことではある。
 それなのに、ここにきて欲が出てきている。
 それだけで満足できない自分がいる。
 欲など出したところで痛いのは自分なのだから、やめたらいいのにと。自分で分かっているはずなのに。
 引き攣ったような胸の小さな痛みに顔が強張る名前に気付かず、黒尾は胸を張って続ける。コンビニのレジ袋が、黒尾の歩みに合わせて足にぶつかりかさこそと音を立てる。
「そうだ。俺は全人類に対して、平等に接しています」
 そうですか、と相槌を打ちながら、黒尾さんなら本当にそうしていそうだな、と名前は苦々しく思う。きっと以前の名前ならば、黒尾のそうしたところを美徳だと素直に受け止めていただろう。名前が惹かれた黒尾は、そういう人間だからだ。
 今の名前は、素直に受け入れられない。ひねくれている。名前は自分で自分に呆れた。
 黒尾の優しいところに惹かれて好きになったのに、ずいぶん自分勝手なことを考えるものだ。友達としての特別以上を望むことはとうに諦めているのに、今になってそれが欲しくなっているなんて。
「とはいえ」
 会話の空白を埋めるように黒尾が発する。
「俺も普通に人間だから、そうは言っても多少の贔屓や敬遠はあるかもしれないけどな。それこそ、自分で自覚してないところでもあるんだろうし」
「それは、誰だってそうじゃないですか?」
「俺のことあからさまに嫌いなやつに対しては、自覚してても多少そっけなくなることもある」
 黒尾によって付け足された言葉は、言い訳するようなことでもない、ごく自然な人間としての感情だった。取り立てて責められるようなことでもない。
 だが、名前はそのとき別のことを考えていた。
「それなら逆に、黒尾さんのことを好きな人にはどうですか」
 自分のことを嫌いな人間を苦手に思ってしまうのなら、その逆はどうなるのだろう。黒尾にあからさまに好意を持っている人間――名前に対して、黒尾はほんのわずかであろうと、態度が変わってしまうことはないのだろうか。
 もしも名前が露骨に黒尾に好意を示せば、何かが変わるのだろうか。今まで頑なに避けてきた「もしも」を、名前はふと考える。期待のような淡い何かが、ほんの一瞬名前の胸で閃き、かすめる。
 けれども対する黒尾の返答は、是とも否ともとれる曖昧なものだった。
「まあ、好意の場合はそれこそ相手との関係性によるんだろうけども」
 そして間を置くことなく、「というか」と言葉を継いだ。
「それで言うなら苗字さんの方が、わりと誰にでも同じ対応じゃない? いとこくんや身内は別にして、だけど」
 話をそらされた。そう感じながら、名前はゆるく首を傾げた。
「どうでしょう。自分では結構分かりやすく態度に出てしまうなーと思ってるんですけど」
「まあ、たしかに態度には出てるか。けど、嫌な人間を露骨に避けたりはしないだろ」
「それは、一応大人ですからね」
 そもそもこの年になって、目の敵にしながら名前に突っかかってくるような人間はそうそういない。大学時代にしても、名前のことを気に入らないと思っている相手は、そもそも名前に近寄っては来なかった。名前の方から近づくこともしないので、入学直後の一件以降は目に見えるようなトラブルが起こったことはない。
 名前がこの一年で巻き込まれたトラブルといえば、茂部との一件くらいだ。しかしここで茂部のことを話題に出すのも微妙な気がして、名前はそれとなく話の矛先を変えた。
「でも黒尾さん、さっき私のこと『言うようになった』って。あれって無礼働くようになったなってことじゃないですか?」
 問いながら、名前は笑顔を作り黒尾の顔を見上げる。黒尾が名前に対して遠慮を薄れさせつつあるのと同じように、名前もまた黒尾に対して気を遣うことが減った。最初に比べれば口調も多少フランクになったし、ずけずけと物を言うこともできるようになった。無礼なんて思われていないだろうことは分かっている。分かっていて、わざと冗談にしている。
 とはいえ一番肝心なことを言えないでいるのだから、何でも気兼ねなく話せるというわけではないのだけど――と、名前が頭の中で付け足していると、黒尾は「なんだ、そんなこと」と、名前の懸念をさらりと笑い飛ばした。
「いやさすがに無礼と親しみの区別くらいつくって」
「本当ですか? 急に馴れ馴れしすぎるとか言って怒ったりしません?」
「俺がそんな情緒不安定に見えるのか」
「見えないですけど。でも、普段優しい人を怒らせると怖いっていうじゃないですか」
「俺がそんなキレ方するとしたら、本当に相当なこと言われたときだろうな」
「相当なことってたとえば?」
「うーん、思いつかないけども……」
「本当に何言われても怒らない人じゃないですか」
「いやいや、怒るときは怒る。でも多分、苗字さんから出てくる語彙で怒ることはない」
「分かんないですよ。私もものすごく酷いこと言うかも」
「俺に?」
「……いや、言わないと思いますけど」
「言わないんかい。言わなくていいけども」
 中身のない会話をしながら、名前は胸のうちがだんだんと晴れてくるのを感じる。先ほど感じたもやつきは、すでにだいぶ薄れつつあった。
 特別がほしいと思うのと同じくらい、今の距離を心地よく思っている。矛盾だらけの心のなかは、けれどどれも名前にとっての本音なのだからどうしようもない。
 黒尾もまた、最前まで言葉の端々に滲ませていたかすかなぎこちなさがなくなったようだった。いつものように淀みなく、つらつらと言葉を並べる。
「というかさっきの話だったら、まず質問が変じゃない? 普通『無礼働いてますか?』とは聞かないだろ」
「でも知らず識らずのうちに無礼を働いていたら困るじゃないですか」
「だからって直球が過ぎるだろ」
「変化球で聞くことでもないですよ」
「そもそも俺は苗字さんが俺のこと好きなの知ってるんだから。苗字さんが言いたい放題言ってきたとしてもそこまで、」
「え、知ってたんですか?」
 黒尾の言葉を遮るように、名前が短く尋ねた。笑顔のままの黒尾は名前に視線を落とし「ん?」と首を傾げる。名前の言葉が聞こえなかったのか、瞳は柔らかい色を灯している。
 けれど。
「黒尾さん、知ってたんですか?」
 黒尾を見上げる名前は、しかしほんの僅かも笑っていなかった。
 笑ってなどいられるはずがない。名前の聞き間違いでなければ、黒尾は今、名前は黒尾のことを好きだと知っていると言ったはずだ。
 名前の引き攣った口許を見て、黒尾がやっと笑みを消した。失言に思い至ったのか、足を止めて名前の顔にじっと視線を注ぐ。
 黒尾の顔にみるみる狼狽が広がっていくのを見て、名前はやはり自分が聞き間違えたわけではないことを理解した。もっとも、そうでなくても聞き間違いかもしれないなどとは露ほども疑っていなかった。名前にとって、もっとも黒尾に知られたくない、知られてはならない感情に触れられたのだ。名前が何より過敏になる話題を、まさか聞き間違えるはずがない。
 じりじりと、つむじが初夏の陽に灼かれている。
 シャツから伸びた黒尾の喉が、ごくりと一度大きく上下した。
 足を止め、言葉を止め、呼吸すら詰めている。
 纏わりつくように重い沈黙のなか、先に口を開いたのは名前だった。
「黒尾さん今、知ってたって……。私が黒尾さんのことを好きだってこと」
 感情の滲まない静かな声で、淡々と名前は問いかけた。黒尾の喉がまたごくりと動く。視線が名前から逸れないだけに、黒尾が今、いかに思考を巡らせているのかが名前には手に取るように分かってしまう。
 いっそ、目を逸らしてくれればいいのに。名前は思った。目を逸らさないことで、後ろめたさを感じていないように見せたいのならば、残念ながらそれはあまり上手くいっているとは言えなかった。
 黒尾の顔には、今やはっきりと狼狽が浮かんでいる。
「あ、それはだな、その」
 口を開いたはいいものの、黒尾は言葉を探しあぐねているようだった。黒尾らしからぬ、意味をなさない言葉がぽつりぽつりと雨垂れのように降ってくるばかりだ。
 その狼狽えぶりを見ているうちに、名前は心がすっと冷えて固まるのを感じた。そして同時に、自分が今、途轍もなく黒尾を困らせているのだということを実感する。あの黒尾をして、言葉がうまく繋がらないのだ。それだけでも黒尾がいかに困り果て、名前に対応しかねているということが分かるというものだ。
 困らせたいわけではない。
 戸惑わせたいわけでもない。
 まして、宥められたり慰められたり、あまつさえ謝られたりなど、絶対にされたくなかった。
 それならば――

「よかったぁ……」
 沈黙のなか名前が発した言葉は、それほど大きな声ではなかった。しかし互いの一挙手一投足に注意を払い、沈黙のなかに身を置いていた黒尾に届けるには、ささやくような一言だけで十分だった。
「え?」
 黒尾が訝しむ顔で名前を見つめる。その顔に誤魔化すような笑顔が浮かばないことに黒尾の誠実さを見たような気がして、名前の胸がぎゅっと縮こまる。軋む痛みとは違う、もっとぎゅっと潰されるような痛みを覚えながら、名前は目の奥に力をこめて笑った。
「なんというか、よかったです。黒尾さんがいい人で」
「いい人、というと」
「私が黒尾さんのことを好きだって知ってて、それでも気まずくなったり変な感じになったりしないように、今までいろいろ気を遣ってくださっていたということですよね? 知っていても黙っていてくれたっていうのは、そういうことなんですよね」
 畳みかけるように言葉を投げる名前に、黒尾は「あ、はい」とほとんど意味のない返事をした。名前の胸の奥で、またひとつ何か柔らかいものが潰されたような痛みが広がる。
 でも、大丈夫だ。自分に言い聞かせるように、名前は心のなかでそっと呟く。
 大学時代だって、嫌なことがあったって、自分は平気な顔をしてやり過ごせたはずだ。平気なふりをしているうちに、本当にちゃんと平気になれた。平気になれるということを知っている。
「だけど、気付いていたなら言ってくれたらよかったのに。私としても、できるだけ態度に出さないようにはしていたんですけど、それでもいつばれるんじゃないかと正直かなりひやひやしていたんですよね。いや、隠してること分かってて、知らないふりしてくださるなんて、考えただけで優しさが身に沁みてしまいますけども」
「ええと……なるほど?」
「でも、よかったです。本当に」
 力を込めて、断言した。
 黒尾に「そうじゃなくて」なんて言わせてしまうだけの、少しの余地も残さないように。
「よかったです」
 念押しのように繰り返すと、黒尾が一瞬開きかけた口を、そのまま閉じて唇を噛んだ。そんな小さな仕草にすら、名前は安堵と落胆を同時に胸に抱く。そしてすぐ、これでよかったのだと納得した。これでよかったし、こうすべきだった。失言の責を黒尾にとらせるような、情けなくて無様なことにならなくてよかった。
 黒尾の失言があったとはいえ、この事態を引き起こしたのは名前の無遠慮な問いかけだ。それならば、事態を収拾してこの場を取り繕うのは名前に課せられた役目でもある。
 止まったきりだった足を前に踏み出して、名前は黒尾を引っ張る気分で歩き出す。名前につられて名前も歩き出し、すぐにいつもの歩幅になる。
 それでも黒尾の目にまだ惑いがあるのを見て取って、名前は話題を変えた。
「あっ、そういえば! 駅の向こうのカフェ、もう黒尾さん行かれました?」
「えっ、何? カフェ?」
「前に話したんですけど、覚えてませんか? 駅の反対側に、新しくカフェができたって話したはずなんですけど……」
 わざとらしく困った顔をして名前が言うと、黒尾がぎこちなく薄い笑みを浮かべる。威圧感も説得力もまるでない、形だけのうつろな笑顔だった。
「あ、ああ、覚えてる。ちゃんと覚えてますとも。あれだろ、『猫目屋』の競合になるかならんかっていう」
「そうです。そこ、夜もやってるみたいなんですけど、よかったら今度行きませんか?」
「はい」
「なんで敬語なんですか」
「いや、あれ? なんでだろうな。はっはっは」
「変ですよ、黒尾さん」
 上滑りした会話をしながら、互いにそ知らぬふりを決め込む。正しくは、黒尾が名前に合わせているのだろう。名前が触れるなとでも言わんばかりに流したから、黒尾も不用意に触れられなくなっていた。
 これでいい。これならまだ、修復が利く。名前はまた、内心で呟いた。
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