063

 テレビの天気予報で梅雨入り宣言を聞いてから数日。休日の朝、カーテンの隙間からさした初夏の光に目を細め、名前はのろのろと布団から這い出した。
 ゴールデンウィーク前後の忙しさは今はいったん落ち着いて、ここのところはしっかり休息もとれている。今日は平日だが代休のため、目覚ましのアラームに起こされることなくのんびり起床した。
 のそのそと朝の支度をととのえつつ、今日の予定を頭の中で確認する。休日に買い物にいったので、冷蔵庫の中身もまだ買い足すほどではないはずだ。
 これといって出掛ける用事はない。せっかくだから一日だらだら過ごそうかと考えたところで、ふとテーブルの上に置きっぱなしにしていた一通の封筒が目に入った。
「あ、そういえば郵便」
 実家の家族から送ってほしい書類があると言われていたのを、すっかり忘れていた。封筒に厚みと重さがあるので、ポストに投函するより窓口から郵送した方が確実だと思い、平日休みの今日、郵便局に出しにいくつもりだったのだ。
 時計を見れば、針はすでに早朝とは言い難い時刻を指している。普段の休日よりもさらに遅い時間の起床だった。
「……まあ、お昼過ぎてからでいいか」
 怠惰な決断をくだし、名前はキッチンに立つ。朝食の準備を済ませると、まだ半分寝ぼけた頭でパンをもそもそ咀嚼した。

 郵便に出す封筒を手に名前が家を出たのは、昼過ぎをさらに過ぎた頃だった。休みにかまけてのんびりしすぎたが、だからといって誰に叱られることもない。悠々自適のひとり暮らしだ。
 最寄りの郵便局は音駒駅のすぐ近くにある。散歩がてら、徒歩で向かうことにする。
 郵便局は空いており、ほとんど待たされることもなく用事が片付いた。せっかく出てきたのだからコンビニにくらい寄ってから帰ろうかと、名前が郵便局を出たところで、ふいによく知る人物が名前の目の前を通り過ぎていった。
「あれっ、黒尾さん」
 思わず名前が呼びかけると、少し行った先で黒尾が足を止める。何か考え事でもしていたのか、声を掛けるまで名前がいることにはまったく気が付いていない様子だった。
 私服に身を包んだ黒尾は、振り向きざま驚いたように目を瞬かせ、名前を見た。梅雨の晴れ間でじとりと蒸し暑いためか、黒尾はもうすっかり夏のような装いをしている。
「ん? 誰かと思えば苗字さんか。こんなド平日の昼間に何してんの。仕事さぼり?」
「この間休日出勤だったので、今日は代休です」
 まさか本当にさぼっていると思われているわけではないのだろうが、それでも名前はきっちりと返事をした。うっかり隙を見せると、しばらく同じネタで揶揄われ続けるのは分かっている。
 大真面目な顔ですかさず返答した名前に、黒尾が楽しそうにくっくと笑った。
「そんな慌てて否定しないでも、苗字さんに限って本当にさぼってるとは思わないから大丈夫」
「それならいいんですけど、不真面目な人間だと誤解されては困りますので」
「苗字さんが不真面目だったら、世の中の大半はとんでもない不良だな」
 誉めているのか揶揄っているのか分からないようなことを言い、黒尾は名前の方に近寄った。太陽を背後に背負った黒尾を見上げ、名前は眩しさに目を細める。名前がしかめ面のような顔になったのがおかしかったのか、黒尾がまた、忍び笑いを漏らした。
 照りつける六月の太陽が眩しい。黒尾がさりげなく数歩ずれ、郵便局の建物の影に名前を誘導した。
「それにしても、苗字さんの仕事も休日出勤とかあるんだな」
 名前が何か言うより先に、黒尾がさらりと話題を世間話に戻す。名前は「年に何回かですけどね」と答えつつ、黒尾とともに日陰に入った。
 基本的には名前の勤務形態は週休二日の土日休みだが、年に何度か、取引先の都合に合わせて休日出勤を求められる。名前の部署は社外との遣り取りは少ないが、それでも大きな会社ではないので応援を要請されることもあった。
「黒尾さんは今日はお休みですか。どちらかお出かけするところですか?」
「俺? 俺はこの先のクリーニング屋に預けてきたところ。ついでにコンビニでも寄って帰ろうかなーって」
「私も駅前のコンビニに行くので、じゃあ一緒に行ってもいいですか」
「いいけど、苗字さんちの方は?」
「あっちのコンビニには売ってないアイスを買いたいんですよ」
 よどみなく答えながら、名前はふいと黒尾から視線をそらした。アイス云々というのは咄嗟の方便だ。コンビニに行くのにこれといった目的もなく、どこのコンビニだろうが本当は構わなかった。ただ、黒尾が駅前のコンビニに行くというのならば一緒に行きたい。黒尾と一緒にいたいというただそれだけの理由だった。
 黒尾はふうん、と気のない返事をする。買いたいアイスの種類が何かなど、追及されればうまく答えられる自信のなかった名前は、黒尾のその返事にほっと胸を撫でおろした。

 どちらからともなく日陰を出て、日の照り付ける往来をコンビニに向けて歩き出す。日の眩さから逃れるように視線を下げれば、自分の履きつぶしたスニーカーの爪先が目に入る。名前は自分が適当な格好で出てきてしまったことに気が付いた。
 黒尾さんに会うのなら、もう少しちゃんとした格好をして来ればよかったな。
 明らかに手抜きな自分の身なりを見て、名前は内心で嘆息する。黒尾の前で飾り気のない格好をしていることなど今更だが、そうはいってもほとんど部屋着のような格好というのは、さすがに自分でも情けなかった。こんな格好ではお茶に誘うこともできない。
 ひとり悶々とする名前に気付かず、黒尾が頭上から声を投げかける。
「苗字さんの方は、最近はどうだい」
「どう、とは?」
 聞き返しながら顔を上げると、黒尾の後ろに輝く太陽にかれて目を細める。黒尾がにっと口の端を持ち上げ笑うのが、名前のまばゆい視界に映った。
「お見合いお姉さんは鎮まったのかなと」
 漠然とした問いかけは、どうやら縁故さんのことを言っているらしい。
 今から一か月ほど前、黒尾には縁故さんの前で恋人のふりをしてもらった。付き合っていると嘘をついたわけではないが、縁故さんは黒尾と名前が付き合っていると勘違いしているし、名前もその誤解を積極的に解こうとはしていない。
「おかげさまで、すっかり紹介はなくなりました。その節はありがとうございました」
黒尾に向けて軽く頭を下げ、名前は言った。
 その代わり、黒尾さんのことを根掘り葉掘り聞いてくるようになりました、という一文は飲み込んでおくことにする。迂闊な事を口にして、またぞろ黒尾に揶揄われてはたまったものではない。
 名前の言葉に、黒尾は満足そうに微笑んだ。
「いえいえ、俺はにこにこしてただけです」
「黒尾さんのにこにこは、こう、説得力がありますよね」
「説得力とは」
「油断ならなさとも言い換えられますが」
「俺のような好青年をつかまえて、よくもそんな難癖をつけられたもんだなぁ」
「好青年とは……?」
 コンビニに向かって歩きながら、他愛のない遣り取りが続く。
「黒尾さんは身長も大きいですし、こう、にこっと笑っているだけでかなり相手に圧がかかるじゃないですか」
「それは多少自覚してるけども。苗字さんには圧かけてないだろ」
 黒尾の口調が不満げになったので、名前はついつい笑みをこぼす。黒尾は時々、分かりやすく拗ねる。
「私自身が圧をかけられたことはないですけど、たまに異常にさわやかな笑顔で相手を黙らせてたりするじゃないですか。赤葦くんにやってるところ見たことありますよ」
「あったっけ、そんなこと」
「ありました」
 自信満々に頷いて、名前は黒尾を見上げた。
「説得力、油断ならないというか、ちょっと胡散臭いというか……。相手をとろけさせて悩殺するような極上スマイルとは別の意味で、黒尾さんの笑顔は凄まじい武器だなと思いますよ」
「人聞きが悪いこと言わないでください」
「褒めてるんです。分かってください」
「無茶言うない」
 黒尾が苦く笑って、名前を見下ろした。名前はわずかに顎を上げ、してやったりという表情を浮かべている。言い負かした、というほどのことはしていないが、それでも黒尾と口で渡り合えるようになりつつあるのは、名前にとって、にやつかずにはいられない進歩だ。
 もしも矢巾がこの場面を見ていれば、「そういうのは可愛げがないって言うんだ」とでも言ったかもしれない。幼少のころから一緒に育ってきた矢巾と名前は、今も子供時代と変わらず対等に口喧嘩をする。矢巾相手ならばそれでもいいが、意中の相手にくらいはもう少し可愛げを見せろ、という矢巾の言いそうな言葉にも一理くらいはある。
 だが名前は黒尾に対しても、まったく歯が立たないまま言い込められるくらいならば、少しでも反撃できた方がましだと思っていた。可愛いとは思われたくても、可愛げがあると思ってもらいたいわけではない。そもそも名前は本来、どちらかといえば勝気な性格をしている。
 しかし幸いにして、黒尾は名前の口撃に眉をひそめるようなことはしなかった。むしろわざとらしく呆れた顔をすることで楽しさを隠し、
「まったく。苗字さん、結構言うようになったよな」
 と、これみよがしなことを言う。嫌がっていないのは口ぶりから明らかなので、名前も特に態度を改める気はなかった。
「まあ、一年も黒尾さんに遊んでもらってれば自然とこうなりますよ」
「遊んでもらってるって面白いな。俺の方こそ遊んでもらってるけど」
「ええ? そんなことはないんじゃないですか? 私の方が遊んでもらってる」
「なんでそこで張り合うんだよ」
 そうしているうちに、目的のコンビニに到着した。黒尾はこまごまとした雑貨と雑誌を購入し、名前はスナック菓子をひと袋購入した。
「アイス買うんじゃなかったの?」
 名前がレジで清算してもらっているのを横から覗き込み、黒尾が尋ねる。
「……食べたいやつが売ってなかったのでやめました」
「わざわざこっちのコンビニまで来たのにな」
 一応は頷いた名前だが、本当は単にアイスを出しに黒尾についてきたことを、すっかり忘れていただけだった。一瞬冷たい汗が背中を伝う。それ以上追及されてはかなわないので、コンビニを出るなり、名前は話題を無理やり変えた。
「さっきの話ですけど、黒尾さんこそ、この頃すこし意地悪になりましたよ」
「お? 急にどうした? 何の話だ」
「さっき、来るときにそういう話をしてたじゃないですか」
「……そうだったかぁ? 微妙に話題がずれてる気がすんだけど」
「い、いいじゃないですか、細かいことは」
 怪訝そうにする黒尾を、名前は引き攣った笑顔で強引に納得させる。黒尾はしばらく不審げな顔をしていたが、結局は名前の強引さに負けたらしい。「まあいいか」と、納得したのかしていないのか分からない顔で頷いた。
「で、何の話だっけ」
「だから、黒尾さんが前に比べると、私に対して意地が悪くなったという話です」
「意地が悪くなっただと」
「親切は親切ですけど……なんというか、遠慮がなくなったというか。結構ずけずけと物を言ってきますよね」
 話しているうちに、だんだんと名前の口が滑らかになってくる。無理やり引っ張り出してきたような話題ではあったが、とはいえ黒尾が名前に対し遠慮がなくなりつつあるということは、名前が実際に感じていたことだった。
「さっきは意地が悪くなったって言いましたけど、うーん……なんだろう。雑に扱われているわけではないのが分かるので、まったく嫌ではないんですけど」
「はは、正直だな」
「黒尾さんが私に慣れてきたとか……?」
 単に付き合いが長くなって、接し方が変わったのだろうか。研磨や赤葦に対する黒尾を見ていると、けして相手を雑に扱うことはしていないが、気の置けない雰囲気はたしかに滲んでいる。もしかすると名前に対しても、そういう一種の気安さが出てきたのだろうか。
 しかし黒尾は、
「そうか? わりと最初からこんな感じだと思うけど」
 と名前の推測を一蹴した。
「そうですか?」
「いや、そうだろ。本当にそんなに変わってないんじゃない? 俺は誰に対しても分け隔てなくこんな感じだぞ」
「誰に対しても」
 ちくりと、胸の奥が小さく痛む。自分で始めた話題ではあるものの、何気ない黒尾の言葉に、胸がかすかに軋んだ気がした。
- ナノ -