062

 食後のコーヒーを調達してからテーブルに戻ると、店員があいた皿を片付けてくれた。名前は広くなったテーブルの上に視線を彷徨わせ、さてどこから話したものかと考える。思案したのち、順を追って話していくことに決めた。
「もとはといえば、秀くんから紹介されたんですよ」
 まだ熱いコーヒーを啜るように口にすると、黒尾が意外そうに「えっ」と声をあげた。
「なに、そういう話なの?」
「そういう話というのがどういう話なのかは分かりませんが……でも、そうですよ。秀くんが、自分が友達から女の子を紹介してもらうかわりに、自分も女の子を紹介するっていう話で私を紹介したんです」
 あれはたしか、名前と矢巾が高校一年の冬のことだっただろうか。矢巾は入学した青葉城西高校で、それは熱心に、女子に微笑みかけたり目くばせしたりと、紳士的活動に励んでいた。
 性根が真面目で善良な矢巾だ。それで悪名を高めるようなことはなかったが、とはいえ一年生にして「どうにも女子のことが好きなチャラい男らしい」という評判を早々に獲得する自体には陥った。
 むろん浮名を流すことを厭うようなことはしない矢巾だったが、そういう評判が流れてしまえば校内で素敵な女子と巡り合う機会は著しく減る。強豪校らしく部活もハードで忙しいが、だからといって恋愛できないほど部活漬けの日々というわけでもない。できることなら彼女はほしい。さらに付け加えるなら可愛い彼女がほしい。
 そこで考えたのが、男友達に女子を紹介するかわりに、他校の女子を紹介してもらうという作戦だった。ちょうど都合がいいことに、矢巾の友達にも矢巾と似たような境遇の男子がひとりいた。似たような境遇というのはつまり、青葉城西の外に出会いの場を求めようという猛者だ。
 中学までは矢巾と同じ学校だった名前だが、高校は県内でも有数の名門女子校に進学した。矢巾にとってはただの幼馴染のいとこでも、世間に出せば名門女子校の生徒。
 もちろん矢巾にいとこを人身御供として差し出すという気はまるでなく、名前を紹介しようという男子は、矢巾の目から見ても、けして悪い男ではなかった。名前の画像を見せた時点でかなりその気になっていたし、矢巾のいとこに無体を働くようなことはしないという言質もとっていたらしい。
 斯くして矢巾に拝み倒された名前は、恋愛市場でトレードに出されてしまったのだった。
「それで、まあ、秀くんに紹介された男子に告白をされて……で、秀くんに相談したら無理なら別に付き合わなくてもいいと言われたんですけど、それならそれで自分が紹介してもらった女子ともう少し仲良くなるまでうまいことやっておいてほしいとも頼まれて」
 過去のことを思い返しながら話すうち、しだいに名前の顔は険しくなっていく。「うまいこと」と矢巾は簡単に言うが、そうは言っても、恋愛経験などほとんど無に等しい名前だ。当然うまいことやっておくなんて器用なことができるはずもない。
 うやむやにして返事を先延ばしにするはずが、今好きじゃなくても付き合ってから好きになることだってあるよだの何だの、なんだかんだと丸め込まれ、気が付けば告白を受けることになってしまっていた。付き合ってから恋心が芽生えることがあるかもしれないという相手の言い分に、名前がかなりのところで納得してしまったということもある。
 そこまで説明したところで、名前は一旦コーヒーで口を湿らせ、息を吐いた。この話を人に話したのは本当に久し振りのことだ。名前にとってまったく面白い話でないうえ、相手の男子に対しても失礼だったという罪悪感があることから、名前は普段この話を思い出さないようにしていた。好きでもない相手と付き合う女だと、周囲の人間に思われるのも嫌だった。
 黒尾さんはどう思っただろうか。話の合間、ふと不安になって名前は黒尾の様子を窺い見る。名前の視線に気付いた黒尾は、仏頂面にも見える真面目な表情をやや崩し、
「それはまあ、いとこくんは自分のせいとは言いたくないだろうな」
 そう言って苦笑した。
「まったくもう……。この話、本当に秀くんに聞いてませんか?」
「いやー、聞いてないねー」
「都合悪いこと黙ってたのかな……」
 とはいえ矢巾は無理に付き合わなくてもいいと言ったのだから、彼にしてみれば自分は紹介しただけで悪くはないということになるのかもしれない。その理屈には名前もある程度納得できるので、この件について矢巾を責めたことはなかった。今後責めるつもりもない。ただし、これ以後二度と自分に男子を紹介しないでほしいという念押しはしたし、矢巾も懲りたのか、二度と名前にその手の話を振ってくることはなくなった。
「ともかく、そういうわけで丁重にお断りした後は、女子高なので特にこれといった出会いもなく……」
 そうこうしているうちに女子校での三年間の生活を終えた名前は、大学進学を機に上京。進学先の東京では、恋人はおろか友達すら作ることができないまま大学四年を迎え、そして黒尾に出会うというわけだ。
「ふうん。そういうことなら、苗字さんがこっち出てきてから出会いに積極的じゃなかったのも、なんとなく納得いくな」
 ぼそりと呟いた黒尾の言葉に、名前は眉を下げて笑う。
「今まで納得いってなかったんですか?」
「そういうわけじゃないけども。ほら、前に苗字さん、大学の外にまで知り合いを求めに行かないみたいな話してただろ。ああいうのも、最初にちょっと人間関係でしくじったってだけのわりには、結構しっかり引き摺ってるなと……まあ、それは感じ方も人それぞれだし、苗字さんにとってはそれだけってもんじゃなかったんだろうなと思ってたんだけど」
 黒尾が言っているのはおそらく、バイト先に出会いを求めないのかというような話をしたときのことだろう。そんな話をしたのは、けれども随分前のことだった。当の名前すら、そんなことを言ったかどうかあやしいような話だ。黒尾はつくづく人の話をよく聞き、覚えていてくれるのだと感心する。
 言葉を選ぶようにゆっくりと、黒尾は続ける。
「たとえばだけど、友達はいなくて平気でも恋人はほしいって人もいるだろうに、みたいなことも思うわけで……、ああ、苗字さんがそういうタイプではないってことは分かるけど」
「でも、そうですね。人恋しい気持ちになるときは私もありますし」
「あるんだ」
「時々は」
 友達だろうが恋人だろうが、そばに誰かいてほしいという気持ちは名前にも分かる。特に上京してきたばかりの頃は、どうしても一人暮らしが寂しかった。名前が授業を詰め込みバイトに明け暮れていたのは、そうしていないと寂しくて挫けてしまいそうだったからというのも多少ある。もちろん、そこまでは恥ずかしいので黒尾にも言うつもりはない。
 ともかく、と、名前は逸れた話題を強引に戻した。
「そういうわけで、以上が三日で別れた話の顛末です。別に面白い話じゃなかったでしょう」
「んー、まあ過去の恋愛の内容が面白いかは別として、苗字さんの恋愛話を聞けたのは面白かった」
「面白がってもらわなくて大丈夫ですよ……」
 むしろこんなものかと興味を失ってほしいくらいだ。黒尾相手でなくてもしたくない話なのだから、好きな相手である黒尾に話したい話であるはずがない。
 名前はすっかり話し終えた気になって、カップに残っていたコーヒーを啜った。店内を反射する窓ガラスの向こう側の色のように、カップの中には店内の照明にちらちらと輝く黒が残っている。黒尾は何か思案するように、ぼんやりと視線の先を宙に漂わせていた。なんとなく気だるげな沈黙がテーブルの上に流れる。
 次に黒尾が口を開いたのは、名前がテーブルサイドに置かれたメニューのデザートのページを、見るともなく眺めていたときだった。
「それで結局、三日で別れた彼のことは少しも好きにならなかったの?」
「いや、まだその話続けるんですか?」
 露骨に嫌そうな顔をした名前に、黒尾は「まあまあ、あと少し」と笑う。笑っているわりに押しが強い。名前は顔を顰めてみせたが、それも黒尾にはあまり効果がなさそうだった。
 ここまで話せば、もはや最後まで黒尾に付き合った方がよさそうだ。名前は嘆息して「そうですね」と言葉を置いた。
「そもそも三日で別れてしまったので、好きになるとかならないとか、そういうところまでいかなかったんですが」
「まあ、そうだろうな。けど三日で別れるに至った理由はあるわけだろ?」
「そうですけど……」
「うまいことやっておいてって言われてる以上、苗字さんが三日で投げるとも思えないしな。なんか決定的なことがあった?」
 探偵のような問い詰め方をする黒尾に、名前は返答に詰まる。
 話すべきか、誤魔化すべきか。沈思ののち、話すことにした。どのみちここまで話せば、すべて話しているも同然だ。
「決定的なことがあったとすれば、手を、ですね」
「手を?」
「繋がれそうになったときに、ちょっと……あっこれは無理かもしれないなぁと、そう思って……、それでですね」
「はーん、なるほどなぁ」
 黒尾は納得したように大きく頷いた。納得してもらえたことにほっとした反面、名前は気分が沈んで嘆息する。
 結局のところは浅はかに告白を受けたあげく、すぐにダメになってしまった名前が身勝手だったのだ。そもそも紹介してきた矢巾が事の発端ではあるし、名前の気持ちを考えることなく手を握った相手も相手だ。だが名前にも確実に非はある。少なくとも、名前自身はそう思っている。
 一応は付き合おうと決めた相手だ。手を握られただけで気持ち悪いと思うのは、多少気にしすぎかもしれないと思わなくはない。
 それでも、時折思い出す彼の手の感覚は、今思い出しても快いものではなかった。知らず、ゆるく握った手のひらにじとりと汗が滲む。
 その一件だけで異性を苦手になるほどではなかったし、別段付き合うことに幻滅したわけでもない。しかし軽はずみに付き合うのはやめようと心に決めるには、その一件だけで十分だった。名前が積極的に出会いを求めないのもやはり、そこに理由がある。
 と、名前の視線を下げてぼんやりしていた名前に、ふいに黒尾が言った。
「じゃあ苗字さんは、あんまり男に触られることにいい思い出ないんだな」
 かなり率直な物言いだったが、名前は頷いた。黒尾の言葉には、茂部とのことも含まれているのだろう。過去の話だけでなく、実際に黒尾の目の前で嫌な思いをしているのだ。黒尾にもイメージがつきやすいに違いない。
「そうですね……」
「好きでもないやつが相手なら、男でも女でもあんまりいい気はしないしな」
「たしかに。好きな人や心を許してる相手ならいいんですけどね」
 名前に関して言えば、そもそも名前には恋人がいたことがない。異性に触れられた機会そのものが少ないのに、それがことごとく不快な経験であればどうしても触れられること自体に苦手意識を持とうというものだ。
 もっとも名前に近しい異性といえば矢巾だが、矢巾は家族同然なのだからノーカウントだ。黒尾や研磨はと考えてみると、研磨とは鍋をつついたことはあっても、それ以上に距離を近づいたことはない。普通に遊んでいる分には、研磨とそれほど物理的な距離を近づける必要もなかった。
 黒尾さんは――。
 つらつらと思考が移ろうに任せているうちに、ほとんど無意識に黒尾とのことを思い浮かべた。思考に身体がつられるように、名前はつと黒尾に視線を向ける。
 目が合った黒尾が首を傾げる。その薄く浮かんだ笑顔に、名前の胸が不意にしくりと痛んだ。理由が何か定かではないが、胸が切なくきゅっと縮む。
 黒尾に向けた名前の瞳が、自分でも気付かぬほどにあえかに揺れる。そして、
「黒尾さんになら、触られても嫌じゃないのに」
 まろび出るように、名前の口からそんな言葉がぽろりと口からこぼれた。
 束の間、沈黙が流れる。店内のさざなみのような物音だけが、沈黙の上に薄く張り付いている。名前は自分の喉から声がこぼれたことにも気が付かず、ぼんやりと視線を漂わせている。
 名前がやっと我に返ったのは、数秒経ってからのことだった。名前は伏せていた視線を上げ、弾かれたように黒尾の顔を見つめる。黒尾は目を見開いて名前を見ていた。名前もまた、自分の口をはっしと押さえて呆然と黒尾を見る。
 今、自分はいったい何を口にしてしまったのか。呆然とした顔つきで、名前と黒尾は見つめ合う。無意識に近いことだったから、自分が何を発したのかすら朧気だ。それでも何やらとんでもない失言をかましてしまったような気がするということだけは分かっている。血流が逆流するような感覚に陥って、名前の顔は破裂しそうに熱くなった。
「い、いや、違うんです……、違って、今のは何も、なんにも、他意とかはないやつで」
 ぼろぼろと口からこぼれてくるのは、言い訳とも墓穴ともつかないような、途切れ途切れで胡乱な言葉の連なりだった。しどろもどろになれば却って不審でしかないのに、うまく誤魔化そうとすればするほど視線は泳いで声は震える。
「だからですね、全然……今のは、ぜんぜん……」
 知らず、すがるような目つきになった。名前は口許を押さえたままで、途方に暮れて黒尾を見上げる。どうしたらいいのか、どうすべきなのか。すでに名前にはまるきり見当もつかなくなっていた。
 黒尾はしばしじっと、大きく見開いた目で名前を見つめていた。が、やがてゆるりと目を細め、口の端をにっと上げると、
「まあまあ、そんな狼狽えなくてもちゃんと分かってますから」
 名前を安心させるかのような声音でそう言った。そしてすぐ、黒尾はテーブルの端に置かれていた伝票にさっと手を伸ばす。
「さて、そろそろ行くかね」
 まるで救いの手のように差しのべられた言葉。未だ混乱した頭で、けれど名前はそれがひどく名前を突き放すものであるように感じる。
 そんなはず、あるわけないのに。
「というか苗字さん、もう体調はいいの?」
「あっ、はい。大丈夫です」
「土日ゆっくり過ごしなさいよ。新社会人は勉強することも多いだろうけど」
「そうなんですよね。でも今週はできるだけ家でゆっくりします」
「うんうん、そうしなさい」
 上滑りする会話を交わしながら黒尾と名前は揃って席を立つ。立ち上がったのと同時に、頭に上っていた血がすっと下がったような気がした。自分がいくらか落ち着いたことが分かって、名前はほっと安堵する。
 立ち上がって踏み出した足が、ふわふわと覚束なく感じられた。胸が妙にすかすかして、心許ないような気分になる。慌ててもう一歩前に足を出すと、今度はもう、ちゃんと地に足がついた感覚があった。
 レジに向かう黒尾の後ろ姿を名前は追う。胸がぎゅっと潰れたような心地はしたが、名前はそれをぐっと堪えた。
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