061

 縁故さんと別れ自宅の最寄り駅まで帰ってきた黒尾と名前は、その足で音駒駅近くのファミレスに向かった。目ぼしい飲食店のほとんどは駅の繁華街側に立ち並んでいるが、ふたりがそちらに足を向けることはない。
 黒尾も名前も、普段から夜には繁華街側にはあまり立ち寄らないことにしていた。あまり治安がいいとも言い切れないので、女性の名前はもちろん、この辺りで育った黒尾もその習慣が身に沁みついている。また普段ならば居酒屋でもよかったが、今夜の名前のコンディションを考えれば酒は抜きにした方がいいことは明白だ。
「なんか苗字さんとはファミレスばっか来てる気がする」
 テーブルに案内されるなり、メニューを眺めながら、黒尾がそんなことをぼやく。
「そうですか? ほかにも色々行ってるじゃないですか」
「研磨んちとか?」
「あとは、どっか出掛けたときとか」
「それもそうだけど、社会人になってから来たファミレスは、ほとんど苗字さんとだからな」
「いいじゃないですか、ファミレス。美味しいし。ドリンクバーあるし」
「小学生か」
 中身のない雑談を交わしながらも、てきぱきとメニューを決めて注文する。黒尾の言うとおり、このファミレスには名前も黒尾と何度か足を運んでいる。それほど悩むこともなく、食べるものを決めた。
 店内には黒尾と名前以外にもちらほらと食事をする客の姿がある。しかし平日の夜、それも賑やかな繁華街とは駅を挟んで反対側にあることで、それほど座席が埋まっているわけではない。店員もそれほど忙しくないのか、ホールはずいぶんと閑散としている。
 ほどなく食事がテーブルに供された。しばらく互いの近況報告や、名前の新生活の話などしながら食事を進める。やがて黒尾はおもむろに、ふうと息を吐き出した。
 コップのアイスティーを啜ってくちびるを湿らせると、黒尾はところで、とぬるりと切り出す。
「苗字さんは、彼氏ほしいとか思わないのかい」
「えっ!!」
 思いもよらない問いかけに、名前は思わず食事中だということも忘れ、声を上げた。幸い周囲のテーブルに客はなく、誰に迷惑を掛けたということもない。だが名前のあまりにも過剰な反応に、名前の目の前の黒尾が怪訝そうに眉をひそめた。
「おいおい。そんなびっくりする?」
「いえ、あの、ええと……だっ、」
「わかった、ちょっと落ち着け」
 呆れたように黒尾に言われ、名前はむりやり生唾を飲み込んだ。続けて深呼吸を二度繰り返すと、ようやく動揺した心が落ち着いてくるのが分かる。それと同時に、自分がいかに過剰な反応を示してしまったのかを改めて実感し、今度は顔がかっかと火照った。
 気を紛らわすようにテーブルの上の冷たい飲み物に手を伸ばし、ごくごくと勢いよく飲み干す。そうしてからやっとのことで、名前は黒尾にまともな返事をした。
「だ――だって、黒尾さんからそういう話されたこと、今まであんまりなかったじゃないですか。だからなんというか、びっくりしちゃって」
「逆に言えば、今までこういう話をしてこなかったって方が、たぶん珍しいんだけどな」
「それはまあ、そうかもしれないですけど」
「世間話としてさ、こういうのって結構ポピュラーな話題じゃない? 相手と関係性によるところはあるけど」
 そう言って黒尾はさりげなく、空いた皿をテーブルのわきに寄せた。名前が動揺を鎮めている間に、黒尾はさっさと食事を済ませていたらしい。
 あいたスペースに腕を置き、黒尾は何やら試すような挑むような視線で名前を射る。その瞳になぜだか反論しなければいけないような気分になって、名前はむっと口を尖らせた。
「でも、世の中には恋愛の話をしない友情だって、たくさん存在するじゃないですか」
「それは俺も否定しない」
「それこそ孤爪くんと恋愛の話なんてしないんじゃないですか?」
「いや? 研磨はわりと普通に話せば聞いてくれる」
「えっ」
「研磨の方からそういう話をしたりはしないけどな」
 名前の予想に反して、黒尾は当然のことのようにそう答え、また自分のアイスティーを啜った。しかし名前は何と返していいやら分からず、半ば呆然としたように黒尾を見つめるばかりだ。
 黒尾と研磨の付き合いが小学生の頃からというのなら、そりゃあ黒尾にも恋の一つや二つ、三つや四つはあっただろう。そのうちのどれか、あるいはすべてを研磨に話していたとしても、何らおかしなことはない。
 研磨が存外面倒見のいいたちだということには、名前もだんだんと気付きつつあった。黒尾の言うとおり、積極的に恋の話題を持ち出すことはないにせよ、話せば聞くくらいの態度は見せてくれるのかもしれない。
 だがそうはいっても、黒尾と研磨が恋の話をしている――することもあるというのは、名前にとって多少衝撃的な事実だった。何故ならそれは、とりもなおさず黒尾には研磨に話すような恋の話があるのだと、そういうことだからだ。過去に恋愛くらいしてきているのだろうと名前が勝手に思うことと、実際に黒尾の口から、ほんの片鱗へんりんとはいえ過去の恋の存在を語られるのでは、名前の心持ちとしてもまったく別だった。
 いや、もちろん黒尾さんに昔の恋人がいることくらい分かってるけど……。
 実際、水族館に誘われたときにも、そこがかつて恋人とデートした場所だと聞いている。はっきり明言されたわけではなかったが、あのときの黒尾の胡乱うろんな言い分は十中八九、恋人とのことだろうと察せられる。
 それでも、今の黒尾の言葉はあの時よりもずっと痛かった。それは多分、黒尾が何気なく発した言葉だったから。無頓着に、無意識に答えた言葉だったからこそ、却って痛い言葉だった。
「苗字さんだっていとこくんと恋愛の話くらいするんじゃないの?」
 ストローから口を離した黒尾が、さりげなく話題を戻した。名前の胸中など知るよしもない様子に、名前は慌てて胸の痛みから目をそらす。
「えっと、まあ、そうですね。多少そういう話をしないわけでもないですが……。あ、でも私たちの場合、だいたいは私が秀くんの話を聞くだけですよ」
「そうなんだ?」
「しょっちゅう話すことがあるほど、恋愛経験豊富じゃないんですよ」
 言ってから、あてつけがましい物言いだったかと不安になった。だが幸い、黒尾に気にした様子はなかった。
「苗字さんはあんまりそういう話に興味ないんだ?」
「興味ないというか、そこまで優先順位が高くないというか……」
 うっかり失言しないように細心の注意を払いながら、名前は視線を黒尾から窓の外へと移した。外は真っ暗で、ガラスには店内の様子が反射して映っている。ぎこちない顔をした自分自身と目が合って、名前は慌ててまた視線をずらす。
「というかですね、そもそも彼氏が欲しいだけだったら、とっくに縁故さんからの紹介を受けてますよ」
「そりゃそうだ」
 けど、と続けた黒尾の口の端が、ゆるりと楽しげに持ち上がった。
「ということは、苗字さんはただ彼氏が欲しいだけではないってことだ。俺としては、その『だけ』ってのがなんか気になるな」
「そ、それはちょっとした言葉の綾というかなんというか……。そんなこと気にしないでくださいよ。誰でもいいわけじゃないし、紹介してもらうほどではないって話です」
「へえ」
 短く返事をしながらも、テーブルに腕をのせて前のめりになった黒尾の顔には、やけに意味深な笑顔がひたりと貼り付いている。そんな妖しげな笑顔を向けられて、名前はぐっと言葉に詰まった。
「ちょっと……。なんですか、その顔は」
「いや。照れてんなぁと思って」
 しれっと答える黒尾に、名前は思わず半目になった。照れている? 誰が?
「もしかして黒尾さん酔ってます?」
「いや、酔ってない。全然シラフ。そもそも酒頼んでないし」
「酔ってないのにその絡み方……」
 今度は名前が呆れた声を出す番だった。
 黒尾が面倒な絡み方をすることは時々あるし、実際のところ名前はその面倒くささがけして嫌いではない。たとえ酔っていたとしても、黒尾は理性を失くすほどの泥酔はしない。面倒な絡み方をしているようでその実、黒尾はちゃんと相手が呆れたり面白がったりできるラインをきちんと見極めている。そのことが分かるから、変に絡まれても嫌な気分にはならないのだ。
 けれど、酔っていないのにここまで絡んでくるのは珍しい。直前に縁故さんと会って話をしたからといって、ここまでそれを引き摺るものだろうか。
 そこまで考えたところで、ふと名前の頭にひらめきが走った。
「……もしかして黒尾さん、秀くんに何か聞きました?」
「え?」
 その瞬間黒尾の表情に一瞬だけ表れた狼狽を、名前はけして見逃さなかった。
「あっ、やっぱり! だからいきなりそんな変な話を!」
「変な話ではないだろ! 世間話の延長線上! 正常なコミュニケーション!」
「今までそんなコミュニケーションとったことないじゃないですか!」
 思い出したのは、つい先ほどの黒尾の失言だった。黒尾が矢巾と連絡をとっていたなど、名前は今日の今日までまったく知らされていなかったのだ。もしも黒尾が口を滑らせていなければ、今もまだそんな事実を知らないままだったことだろう。
 しかし黒尾と矢巾が繋がっており、矢巾から何か吹き込まれているというのであれば、今日の黒尾がやけに恋愛話にこだわるのにも得心がいく。伊達にいとことして物心つく前から一緒にいたわけではない。名前が矢巾の情けない恋愛話を知っているように、矢巾もまた名前の過去の恋愛の失敗談を握っていた。たとえ名前の恋愛経験が豊富でないといったって、失敗のひとつやふたつくらいは存在する。
 名前は両手で顔を覆い、重くて深い溜息を、ひとつ長々吐き出した。そして指の間から黒尾を見ると、先ほどまでよりはいささかばつが悪そうな笑顔を浮かべる黒尾に、じとりとした目を向ける。
「えー、やだな。黒尾さん、いったい何を聞いたんですか? というか秀くんは何言ったんですか? どうせろくでもないことだとは思いますけど……」
「いとこくんの信用のなさよ」
「信用がないんじゃなくて、碌でもないこと言ってるはずだってことを信用してるんです。それに多分、秀くんも私に同じこと思ってますよ」
 何せ互いの悪事を親戚にちくりあってきた仲だ。名前が宮城にいた頃は、やれ矢巾がどこの女子にちょっかいを掛けただのという話も、名前は平気で親戚の大人にばらしていた。今は矢巾が名前の東京での素行を定期的に監視する立場になったことで、名前は黒尾の存在を矢巾によって親戚連中にばらされている。どっちもどっちのお互い様だ。
「それはまた、仲良しなことで」
「仲悪くはないですけど……、ってそうではなく。黒尾さん、何を聞いたんですか? 何を知ってるんですか?」
 すぐに茶化して誤魔化そうとする黒尾に、名前は眉根を寄せて詰め寄った。名前の剣幕に観念したのか、そもそも隠す気もそれほどなかったのか――ともかく、黒尾は降参したとでもいうように首を傾げて、
「何をっていうか、まあ、苗字さんが前に付き合ってた人の話とか?」
 あくまで軽い口調で、そう答えた。
 しかし名前の眉間の皺は、いよいよ一層深くなる。
「付き合……、秀くん、本当にそんな言い方してましたか?」
「いや、たしかもうちょっとアレだったけども」
 曖昧にぼかした黒尾に、名前は眉根を寄せたまま溜息を吐き出した。
「いいんですよ。分かってます。どうせ『好きでもない男と付き合ってた』みたいな言い方したんですよね。言っときますけど、付き合ったって言っても三日で別れたので、私の中ではノーカウントなんです。付き合っただの何だのっていうのは、あくまで秀くんが言ってるだけです」
「ちなみにいつの話?」
「高校の時ですね」
「高校生にもなって三日で別れるって、逆に何があったんだよ」
 黒尾のまっとうな疑問に、名前は視線をそらす。できることならば、この話にはあまり触れたくない。名前にとって、けして面白いとはいえない過去だった。
 名前は改めて黒尾を見る。黒尾の持ち前の察しの良さで、できることならばこの話はこれで終いにしてほしかった。そんな願いを込め、
「この話、したいですか?」
 名前はできるだけ嫌そうな顔で黒尾に問いかけた。
 しかし。
「いや、したいけど」
 黒尾の答えはにべもない。わざとなのか何なのか、黒尾は名前の露骨な態度を呆気なくなかったことにした。
「黒尾さん、自分は昔の彼女の話とか聞かれるの嫌じゃないんですか?」
「聞きたいなら教えるけど。そもそも苗字さん、俺の昔の彼女の話、知りたい?」
「……知りたくないです」
「だよな。でも俺は、苗字さんの三日で別れた彼氏の話に興味があります」
 しまった、三日で別れただの何だのと言い訳したのが却ってあだになったのか。そう後悔しても今更遅い。すっかり食事を終えてくつろいだ風の黒尾は、いよいよ名前の話を聞きに回る態勢を整えていた。
「どうしても話したくないなら聞かないけど」
 一応それらしいフォローを入れてはくれるが、本心では根掘り葉掘り聞きたがっているのが明白だ。黒尾の場合感情を隠すことがうまいので、この場合は本心を隠そうともしていないのだろう。
 これはもう、聞かなければ満足してはもらえなさそうだ。よしんばここで逃げおおせたとしても、今後何かにつけ蒸し返されるのは目に見えている。
 ここは話すしかない。早々に諦めをつけると、名前はソファー席から腰を浮かせた。黒尾が視線で名前を追いかける。
「とりあえず、食後の飲み物持ってきませんか?」
 暗に話をすることをほのめかすと、黒尾はわずかばかり眉を下げて「それもそうだな」と応じた。
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